ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 6/5

2011-06-13 06:32:22 | ローズンゲン
6月5日(日)
わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。(出エジプト20:2)
あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。(1コリント6:20)
私の黙想
この言葉を読むといつも「出自」という言葉を思い出す。実は私この「出自(しゅつじ)」という言葉を若い頃からズーッと「デジ」と呼んでいた。パソコンで変換しようとしてできなくて、やっと正しい読み方を知りました。それが私の「出自」経験です。実は私の出自は馬鹿です。

6月6日(月)
ダビデもこのペリシテ人に言った。「お前は剣や槍や投げ槍でわたしに向かって来るが、わたしはお前が挑戦したイスラエルの戦列の神、万軍の主の名によってお前に立ち向かう。(1サムエル17:45)
イエスは言われた。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。」(マタイ26:52)
私の黙想
強力な近代兵器を手にするゴリアトに対して、「万軍の主の名によって立ち向かう」素朴な少年の手には、羊飼いの投石袋と五つ小石しかない。巨大なエネルギーを提供する原発推進派に対して、素朴な自然エネルギーで立ち向かうことは、時代錯誤のドン・キホーテーなのか。


6月7日(火)
主はわたしの嘆きを聞き、主はわたしの祈りを受け入れてくださる。(詩6:10)
キリストの言葉:祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。(マタイ6:5)
私の黙想
ここでの「わたし」は「わたしは嘆き疲れました。夜ごと涙は床に溢れ、寝床は漂うほどです」と告白する「わたし」である。つまり、嘆きが聞き入れられず、祈りが受け入れられない「わたし」である。にもかかわらず、だからこそ、なお祈る。血のにじむような祈りである。

6月8日(水)
お前たちの悪が、神とお前たちとの間を隔て、お前たちの罪が神の御顔を隠させ、お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ。(イザヤ59:2)
神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。罪人たち、手を清めなさい。心の定まらない者たち、心を清めなさい。(ヤコブ4:8)
私の黙想
神さま、あなたの仰るとおりです。あなたと私との交わりを妨げている責任はわたしの方にあります。でも・・・・、あなたは私の神でしょう。私の行為や言葉や生き方に惑わされることなく、私を受け入れ、守ってください。

6月9日(木)
主は渇いた魂を飽かせ、飢えた魂を良いもので満たしてくださった。(詩107:9)
わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。(ヨハネ4:14)
私の黙想
考えてみると、私の今までの生涯で「魂が飢え渇く」という経験をしたことがないなぁ。それは幸せだったのか、それともただ鈍感だったのか。勿論、失敗したり、悔いたり、悩んだり、貧しさや無能さを嘆いたことはある。しかし魂が「干涸らびる」ということはなかった。

6月10日(金)
わたしは思った、わたしはいたずらに骨折り、空しく、力を使い果たした、と。しかし、わたしを裁いてくださるのは主であり、働きに報いてくださるのもわたしの神である。(イザヤ49:4)
主が来られるときまで忍耐しなさい。農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです。(ヤコブ5:7)
私の黙想
私は人生を振り返り、「たずらに骨折り、空しく、力を使い果たした」無駄な人生だったと思う、(時もある)。しかし最終的評価は私自身がするのではなく「神の仕事」である。しかも「評価表」は封印されたまま、私自身は去る。

6月11日(土)
主よ、わたしの口に見張りを置き、唇の戸を守ってください。(詩141:3)
自分は信心深い者だと思っても、舌を制することができず、自分の心を欺くならば、そのような人の信心は無意味です。(ヤコブ1:26)
私の黙想
今日のローズンゲン、詩141:3・・・・・・・・・・・・・・アーメン。

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