ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

お袋のこと(3) 東京聖書学院

2008-07-08 12:41:33 | ぶんやんち
お袋が「さんば」の看板を捨てて、東京聖書学院に入ったのは昭和5年4月のことである。その当時、東京聖書学院は車田秋次、米田豊、小原十三司、土屋顕一、一宮政吉の5教授によって指導され、車田秋次教授が院長であった。
お袋が入学して、一月半ほどたった時、学院でリバイバルという一種の宗教現象が発生した。その時の様子を、車田秋次は自著の中でかなり詳細に描いている。タイトルは「リバイバル爆発第1回」で以下のように記している。
祈祷の霊火が熾んになり、昭和5年5月20日、学院寄宿舎、朝食祈祷会は実に、その第一回爆発ともいうべきものであった。従って聖書学院は、教場における学課も、ますます燃ゆるが如き祈祷に移り行くに至り、又、臨時教役者祈祷会の召集さるるもあり、火力いよいよ隆盛を示すに至る。それで時折り、通常学課を中止し、祈祷に集中する場面もあり、5月のペンテコステに於て、いよいよ甚だしさを示すに至り、ペンテコステ(6月5日)連合礼拝に於ては、出席者1200~300人に達した。
かくて、聖霊の活動いよいよ外に向って烈しくなろうとする時、私は又、自らの不献身を改めて摘発さるる心持していた。丁度、7月下旬箱根聖会中の払暁、断食と祈祷とによって、主を求めて居た時、新たな聖霊の維新の業にあずからしめられたことは、銘記せざるを得ない経験であった。従って、その年の巡回活動としては、北海道を経て樺太にまで及び、全く席の暖まる暇もなく、更に中国地方また朝鮮満州──撫順、遼陽、長春、台湾南端にまでも戦線を拡大するに至ったのは、実にこのリバイバルの必然の結果ともいえよう。かくして、いよいよ中田師は勿論、金森通倫氏、一宮政吉氏らの協力により全国の教会は、益々リバィブされるに至った。かくて秋季聖会にては、10月22日(初日)学院の宿泊申込者500名を越すに至り、翌日午後の聖会は出席1500人、更に、最終日26日は、遂に1800人を数えるに至ったのである。恐らく日本の聖潔派間に於て、かってなかったものであったろう。ここに忘れることの出来ぬことは、今回のリバイバルを一貫したる最大のメッセージは何であったかといえば、第1はキリストの再臨の緊迫性、次にこれに備えての聖潔の完全に尽きるといいうる。「わたしは、火を地上に投じるために来たのだ。火がすでに燃えていたならと、わたしはどんなに願っていることか」(ルカ12:49)、「若し主を愛さないものがあれば、のろわれよ。マラナ・タ(われらの主よ、きたりませ)」(1コリント16:21)「さあ、花婿だ、迎えに出なさい」(マタイ25:6)「わたしはすぐに来る」「アァメン、主イエスよ、きたりませ」(黙示録22:20)等の聖句が、その時の顕著なものであった。以上が昭和5年 1930年)の第一回リバイバルの概略といいうる。かくて、翌昭和6、7年、霊火はいよいよ続いて、全国的に拡大され、徹底されつつあったに相違なく、リバイバルによる勝利と祝福とは、筆にも言葉にても表現し得ぬばかりである! 何とすばらしきことなるかな!
(車田秋次『御霊の法則──わが生涯の回顧──』1974.3.10、車田秋次米寿記念出版委員会発行、78~9頁)
お袋は、まさにこの時、この渦中に居た。


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