ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

お袋のこと(2) 産婆検定試験合格

2008-07-07 20:49:36 | ぶんやんち
お袋が洗礼を受けたのが、昭和4年6月18日、21歳の春であった。大正12年に高等小学校を卒業して(15歳)、すぐに大阪市内の東条産婦人科病院に見習いとして入り、2年後(17歳)で、大阪府の産婆検定試験に合格している。かなり、努力したようである。時には寮のトイレで復習したとのことである。そして、同年6月から阪大付属病院において2年間のお返し勤務の後、昭和2年10月から、此花区の近藤産院で産婆助手として勤務し、開業の準備をしたようでる。この時の「近藤先生」とは死ぬまで「先生、先生」と尊敬していた。そして、昭和4年4月に福島区新家町で独立し、開業した。21歳の時のことである。身内のことをいうのも変であるが、大変な努力家であった。
さて、そこから波瀾万丈の人生が始まる。開業して間もない、5月16日、野田阪神の駅前でキリスト教の路傍伝道に出会ってしまう。それまでお袋の人生ではキリスト教とは全く無縁であった。この路傍伝道は西野田ホーリネス教会によるもので、一宮政吉牧師と教会のメンバーによるものであった。この一宮政吉牧師とその夫人とはただ者ではなかった。夫人は神戸女学院の卒業生で、東雲女学校の教師をしていた。一宮牧師の妹が同じ神戸女学院の同級生という縁で、二人は結婚したのである。結婚当時は、一宮牧師は救世軍の牧師で、彼らの結婚は山室軍平の司式による。結婚後も、12年間山室軍平の元で救世軍の士官として伝道に励んでいたが、大正11年に、神学的に対立し、一宮牧師は中田重治師のもとに走ったのである。一宮家ももともとは淡路島の士族であった。つまり、一宮牧師の路傍伝道は救世軍譲りの非常に魅力的なものであったものと思われる。お袋も、一宮牧師夫人からタンバリンを習い、それを手の中で転がしながら演奏するのが自慢であった。ともかく、ここで一宮牧師と出会ってしまったことが、これ以後のお袋の人生を決めてしまった。一宮牧師はかなりレベルの高い説教者であったようである。お袋も、いったんこれと決めたら激しく攻めるたちで、その年の8月には一宮牧師が指導する決死隊聖書学校で学ぶようになる。ここで、お袋は大きな決断をしなければならないはめになる。
大阪の決死隊聖書学校が、東京聖書学院に吸収合併することになる。これは、吸収合併というよりも、一宮牧師を東京聖書学院の教授に迎えたいという中田重治師の作戦であったようで、お袋は行きがかり上、産婆業は廃業して、東京聖書学院に入学することになった。それが運命の昭和5年である。その頃、親爺はまだ宮城県の吉岡のレスキューミッションの伝道所で洗礼を受けるか、どうか考えている。親爺が洗礼を受けたたのは、やはり昭和5年の10月のことである。やはり、昭和5年というのは、日本のキリスト教史において注目すべき年であった。とにかく、その頃、日本の精神界では何か地殻変動が起こり始めていた。

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