8月29日(日)
礼拝奉仕のため、延岡ホテル泊。
8月30日(月)
主はアブラムに言われた。「地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。」(創世記12:1,3)
あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。(ガラテヤ3:29)
私の黙想
ところが、現実の歴史を見ると、そうはならなかった。アブラハムの子孫間での争いが人類に最大の不幸を招いている。
8月31日(火)
彼はわたしの民の背きのゆえに、命ある者の地から断たれた。(イザヤ53:8)<かなり省略され、短縮している>
キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。(1ペトロ3:18)
私の黙想
「身代わりの死」「贖罪」という思想の根拠となるテキスト。ここがキリスト教信仰のもっとも難しいところ。イザヤ書におけるこの「彼」とは誰か。人間社会において「身代わり」はあり得るが、神との関係において「身代わり」が何故必要なのか理解できない。スケープゴート?
9月1日(水)
すべての国よ、主を賛美せよ。すべての民よ、主をほめたたえよ。(詩編117:1)
すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。(エフェソ4:6)
私の黙想
全世界への礼拝参加の呼びかけである。そのためには、先ず自分たちの「神」についての理解が民族性を越えていなければならない。神理解は普遍化すればするほど、観念化し、無化し、透明化する。それでいいのか。それが大問題。
9月2日(木)
主は、恐るべき勇士として、わたしと共にいます。(エレミヤ20:11)
ヨハネの預言:ある主の日のこと、わたしは“霊”に満たされていたが、後ろの方でラッパのように響く大声を聞いた。その声はこう言った。「恐れるな。わたしは最初の者にして最後の者、また生きている者である。」(黙示録1:10-11,17-18)
私の黙想
強い者は敵にすると怖いが、見方にすると頼もしい。時代の思潮に逆行する預言者にとって「神」だけが頼り。メディアはマスを誘導し、世論を形成する。悪いリーダーはメディアを利用して民衆を操作する。真実を求める預言者は常に孤独である。昔も今も。神だけが頼り。
9月3日(金)
彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。(イザヤ53:5)
パウロの手紙:このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。(ガラテヤ6:14)
私の黙想
イザヤ書53章はキリスト教によって触りすぎにされている。イザヤ書が語る「わたしの下僕」(52:13)とは誰か。こういうイメージを生み出した背景にある出来事は何か。いずれにせよ、初代教会においてイエスの十字架を理解するための下敷きになったテキストである。
9月4日(土)
わたしはお前の罪を取り去った。晴れ着を着せてもらいなさい。(ゼカリア3:4)
百合がどの様に育つかを考えてみなさい。紡ぎも織りもしない。栄華を極めたソロモンでさえこの花の一つ程にも着飾ってはいなかった。今日は野にあって明日は炉に投げ込まれる草でさえ神はこの様に装ってくださる。あなた方には尚更のことである。信仰の薄い者達よ。(ルカ12:27-28)
私の黙想
聖書では「救い」を暗示する物語において「服を着せる」という要素が出てくる。アダムとエバ(創3:21)、放蕩息子(ルカ15:22)等。これは調べてみる必要がありそうだ。
礼拝奉仕のため、延岡ホテル泊。
8月30日(月)
主はアブラムに言われた。「地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。」(創世記12:1,3)
あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。(ガラテヤ3:29)
私の黙想
ところが、現実の歴史を見ると、そうはならなかった。アブラハムの子孫間での争いが人類に最大の不幸を招いている。
8月31日(火)
彼はわたしの民の背きのゆえに、命ある者の地から断たれた。(イザヤ53:8)<かなり省略され、短縮している>
キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。(1ペトロ3:18)
私の黙想
「身代わりの死」「贖罪」という思想の根拠となるテキスト。ここがキリスト教信仰のもっとも難しいところ。イザヤ書におけるこの「彼」とは誰か。人間社会において「身代わり」はあり得るが、神との関係において「身代わり」が何故必要なのか理解できない。スケープゴート?
9月1日(水)
すべての国よ、主を賛美せよ。すべての民よ、主をほめたたえよ。(詩編117:1)
すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。(エフェソ4:6)
私の黙想
全世界への礼拝参加の呼びかけである。そのためには、先ず自分たちの「神」についての理解が民族性を越えていなければならない。神理解は普遍化すればするほど、観念化し、無化し、透明化する。それでいいのか。それが大問題。
9月2日(木)
主は、恐るべき勇士として、わたしと共にいます。(エレミヤ20:11)
ヨハネの預言:ある主の日のこと、わたしは“霊”に満たされていたが、後ろの方でラッパのように響く大声を聞いた。その声はこう言った。「恐れるな。わたしは最初の者にして最後の者、また生きている者である。」(黙示録1:10-11,17-18)
私の黙想
強い者は敵にすると怖いが、見方にすると頼もしい。時代の思潮に逆行する預言者にとって「神」だけが頼り。メディアはマスを誘導し、世論を形成する。悪いリーダーはメディアを利用して民衆を操作する。真実を求める預言者は常に孤独である。昔も今も。神だけが頼り。
9月3日(金)
彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。(イザヤ53:5)
パウロの手紙:このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。(ガラテヤ6:14)
私の黙想
イザヤ書53章はキリスト教によって触りすぎにされている。イザヤ書が語る「わたしの下僕」(52:13)とは誰か。こういうイメージを生み出した背景にある出来事は何か。いずれにせよ、初代教会においてイエスの十字架を理解するための下敷きになったテキストである。
9月4日(土)
わたしはお前の罪を取り去った。晴れ着を着せてもらいなさい。(ゼカリア3:4)
百合がどの様に育つかを考えてみなさい。紡ぎも織りもしない。栄華を極めたソロモンでさえこの花の一つ程にも着飾ってはいなかった。今日は野にあって明日は炉に投げ込まれる草でさえ神はこの様に装ってくださる。あなた方には尚更のことである。信仰の薄い者達よ。(ルカ12:27-28)
私の黙想
聖書では「救い」を暗示する物語において「服を着せる」という要素が出てくる。アダムとエバ(創3:21)、放蕩息子(ルカ15:22)等。これは調べてみる必要がありそうだ。