今朝の朝日新聞特版Beに菊田一夫作詞の「とんがり帽子」が掲載され、連続ラジオドラマ「鐘の鳴る丘」が紹介されていました。このドラマは昭和22年7月からNHK で放送され、昭和25年12月までに790回まで続き、その後3回も映画化され、第2次世界大戦後の日本人に大きな感動を与えた「超大作」です。
緑の丘の 赤い屋根
とんがり帽子の 時計台
鐘が鳴ります キンコンカン
メイメイ仔山羊(こやぎ)も 鳴いてます
風がそよそよ 丘の家
黄色いお窓は おいらの家よ
緑の丘の 麦畑
おいらが一人で いる時に
鐘が鳴ります キンコンカン
鳴る鳴る鐘は 父母(ちちはは)の
元気でいろよと いう声よ
口笛吹いて おいらは元気
とんがり帽子の 時計台
夜になったら 星が出る
鐘が鳴ります キンコンカン
おいらはかえる 屋根の下
父さん母さん いないけど
丘のあの窓 おいらの家よ
おやすみなさい 空の星
おやすみなさい 仲間たち
鐘が鳴ります キンコンカン
昨日にまさる 今日よりも
あしたはもっと しあわせに
みんな仲よく おやすみなさい
わたしにとって、この歌には特別な思いがあります。敗戦後、満州から引き揚げてきた時(昭和21年10月)には、まだ父親は復員しておらず、生死も定かではありませんでした。それから、約1ヶ月後に沖縄から父も復員してきて、わたしたちの家族5人はその年の12月25日のクリスマスを期して、新しく出発いたしました。細かいことは、別の機会に譲りますが、「鐘の鳴る丘」が始まったのはそれから間もない、翌年の7月で、このラジオドラマを聞きながら、父がしみじみ語っていたことが忘れられません。
父親の方でも、わたしたち(妻と子ども3人)のその後の消息は知るよしもなく、むしろ確率からいっても無事に帰国するということは想像もできなかったそうです。それで、父は帰国後、何をして生きるか、ということを真剣に考え、おそらく日本にはたくさんの戦争孤児がいることだろう。父は残りの人生をそのために尽くそうと考えたというのです。その話を聞いてからは、わたしたちの家族では、父親と「鐘の鳴る丘」の主人公・修平の姿がダブり、「家族のもう一つの戦後の生き方」となりました。このことが、わたしにとっては、父を尊敬する主体的な経験となりました。
緑の丘の 赤い屋根
とんがり帽子の 時計台
鐘が鳴ります キンコンカン
メイメイ仔山羊(こやぎ)も 鳴いてます
風がそよそよ 丘の家
黄色いお窓は おいらの家よ
緑の丘の 麦畑
おいらが一人で いる時に
鐘が鳴ります キンコンカン
鳴る鳴る鐘は 父母(ちちはは)の
元気でいろよと いう声よ
口笛吹いて おいらは元気
とんがり帽子の 時計台
夜になったら 星が出る
鐘が鳴ります キンコンカン
おいらはかえる 屋根の下
父さん母さん いないけど
丘のあの窓 おいらの家よ
おやすみなさい 空の星
おやすみなさい 仲間たち
鐘が鳴ります キンコンカン
昨日にまさる 今日よりも
あしたはもっと しあわせに
みんな仲よく おやすみなさい
わたしにとって、この歌には特別な思いがあります。敗戦後、満州から引き揚げてきた時(昭和21年10月)には、まだ父親は復員しておらず、生死も定かではありませんでした。それから、約1ヶ月後に沖縄から父も復員してきて、わたしたちの家族5人はその年の12月25日のクリスマスを期して、新しく出発いたしました。細かいことは、別の機会に譲りますが、「鐘の鳴る丘」が始まったのはそれから間もない、翌年の7月で、このラジオドラマを聞きながら、父がしみじみ語っていたことが忘れられません。
父親の方でも、わたしたち(妻と子ども3人)のその後の消息は知るよしもなく、むしろ確率からいっても無事に帰国するということは想像もできなかったそうです。それで、父は帰国後、何をして生きるか、ということを真剣に考え、おそらく日本にはたくさんの戦争孤児がいることだろう。父は残りの人生をそのために尽くそうと考えたというのです。その話を聞いてからは、わたしたちの家族では、父親と「鐘の鳴る丘」の主人公・修平の姿がダブり、「家族のもう一つの戦後の生き方」となりました。このことが、わたしにとっては、父を尊敬する主体的な経験となりました。