ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

エドガー・スノーが見た「上海」

2016-07-18 08:40:42 | ときのまにまに
エドガー・スノーが見た「上海」(124〜135頁)

昨年、上海に「ディズニーランド」が作られ、いろいろと話題になっている。私自身は、ある種の感慨を持って見ている。
私(たち)は上海のことをあまりにも知らなすぎる。中国の一都市、「香港」のようなものとおもっている。考えてみると「香港」のこともあまり知らない。つまり、本当は「中国」のことを知っていない。その意味で、「上海」のことを知ることは中国のことを理解するカギとなる。
その意味で、満州国成立の前後から、上海の租界の終焉までの歴史を、エドガー・スノーの目を通して垣間見たい。

<以下、スノーの『極東戦線』よりの書き出しである。>
さてここで人間の生命と権利よりも、貿易と商売が重視される東洋の魅惑的な都市をのぞいてみよう。

1.上海という町
スペインの小説家、故プラスコ・イパニエスが上海からヨーロッパへ帰航するとき、大ヘん残念そうな顔をしているのを見て、彼の友人が「中国をそれほど気に入ったか」と聞いた。「私は中国のことをそれほどよく知っているわけではない」と彼は答えた。「中国をあまりよく見ていないが、その中で一番生ま生ましい印像をもったのが上海だ。そのすばらしい物語を書く人間になれなかったことを残念に思っている。それは地上に類がない都市だ」。
<中略>
上海は3っの都市と多くの人種から成っている。3つの都市は隣接していて、ずっとつながっているようにみえるが、それぞれの行政ははっきり分かれている。もっとも近代的で富裕な大上海の中心部は共同租界で、主な列強の外国人によって管理されている。共同租界は黄浦江(上海は黄浦江と揚子江の合流点の呉淞から約16マイルのところにある)の川岸から西方で江蘇地区に接し、5,583エーカーの広さを占めている。それから南はフランス租界で、同じく黄浦江に面し、面積は2,526エーカーである。(註:合わせて約8千エーカー)
フランス租界と共同租界の川に面していない三方を取り囲むようにして広がってい るのが中国地区である。その総面積フランス租界の南にある城壁をめぐらした旧市街、租界の南西にある南市、共同租界の北端、虹口の西にある閘北、その他黄浦江から北に半円形にのびて揚子江の岸にいたる間の町や郊外をふくめて320平方マイルである。この地区はもっぱら南京の国民政府の官吏と軍人によって管理されている。(註:320平方マイルは約20万エーカー、1エーカーは1200坪、要するに全上海の4%が外国人租界)
大上海の人口は約300万人である。その大部分はもちろん中国人だが、合わせて150万近くの人口をもつ共同租界とフランス租界にはあらゆる国の人間が住んでいる。アラビア人、イラク人、グルジア人、エストニア人、トンキン人、アンナン人、マレー人、エジプト人など、海外では珍しい人種もここではその独立社会をつくっている。最近の調査によると50の異なった外国籍をもつ4万8千人が住んでいる。それには2万ないし2万5千人とみられる一時滞在のロシア人は含まれていない。ここでは12種の中国方言が聞かれ、遠くトルキスタンやチベットなど中国のあらゆる省からやってきた中国人がいる。
あらゆる信仰と皮膚の色をもった人々を同じ土地で見かけることは、それほど珍しいことでないかもしれない。ニューヨーク、パリ、ベルリン、ウィーンでもいろいるな人種が入りまじって住んでいる。だが上海では人種の融合がみられない。それが一風変った現象といえよう。ここでは数世代にわたってイギリス人はイギリス人のままであり、アメリカ人は「100%」アメリカ人である。パリの外国人は喜んでフランス後をおぼえ、ベルリンではドイツ語を身につけることが必要で、ニューヨークではアメリカの方言に通じなければならない。中国語は上海に住む300万人の言葉であり、その背後にいる数億人の中国人の言葉であるにもかかわらず、何かの商売でその中国人から
もうけさせてもらおうと思っている外国人が、一向に中国語を覚えようとはしない。中国語を覚えることはなんとなく精神を弱めるように思われている。外国人でたまに中国語が流暢な者がいると、人々から変人だと指さされ、そのうしろで意味ありげな笑いが交わされるのだ。
パリやベルリンやニューヨークでは、外国人はその国の法にしたがっている。だが上海では(その出身国が中国で治外法権をもっていない場合は別として)外国人は自国の領事裁判権に服する以外は一切の法的規制を受けない。異民族の中に住んでいるのに、どの居留民社会も本国の何百
の地方都市と同じような風にその特異性を保っている。
西洋人たちはなぜここに住み、そしてどういう募らし方をしているのだろうか。上海のひどい気候については皆よく承知している。ここは平ベったい土地で、そこから20マイルも行けば快適な丘陵地帯なのに、人々は租界の外へは出ようとしない。いやな病気がいつもはやっており、外国人の中にはそれは不潔で「半ば未開人」の中国人のせいだと思いこんでいる者もいる。中国人とはなるべく接触しないほうがよいと考えている者が多い。べたつくような湿気のために、外国人は若いうちからリューマチにかかり、女性は肌にしみができる。
ではなぜ彼らはここに住んでいるのだろうか。これらの悪条件に対する償いはほかにもあるが、もっとも大きな魅力は貿易である。黄色く濁った揚子江が湾曲して海へ注ぐ河口近くにある上海は、広い華中平原と、雪におおわれたチベツトの山々まで連なる肥沃な流域ヘの門戸である。こ
の地域は世界でももっとも人口密度が高い。このすばらしい揚子江の流域には、西欧の事業家たちが水路やわずかの道路、鉄道を利用して行ける範囲内に、1億以上の人間が住んでいる。外国からの輪入の51%、中国の輪出の30%が上海を通じて行われている。1931年には中国と日本の戦闘があったにもかかわらず、総額は約1億ポンドに達した。
市場の潜在力を考えるとこの数字はまだ小さい。つねに100万人単位でものを考える外国人たちは、彼らが信じこんでいる産業化文朋の利点を、中国が受け入れる日を期特している。
「現在中国人は年間1,000万ポンドの綿布を買っている」とイギリスの商人は言う。「もし4億の中国人に1人あたりもう1ヤードの綿布が売れればなぁ」とか、「中国貿易の規模をそれより面積も小さく、人口も少ないインドなみに引き上げることができたら、世界はもう3,000万ポンド儲けるることになる」とか言う。アメリカ人もまけていない。「去年中国は4,455台の自動車を輸入した。アメリカで使われている自動車は1,500万台で、5人に1台の割合いになっている。 もし中国人100人に1台の自動車を売りつけることができれば、こいつはすばらしい市場じゃないか」。
そして日本人にとって上海とは何か。日貨排斥に対して戦争をしかけてまでこの都会を支配し、そのような経済的災害が再発しないようにしなければならないほどの重要性をなぜもっているのだろうか。「あのね」とどこヘ行っても商売人と外交官の二役を兼ねている日本の領事が説明してくれた。「日本と中国の貿易は正常な状態では年間5億円(現在の為替換算率で約3500万ポンド)で、わが国の貿易額の4分の1以上に当たる。満州をのぞけば対華貿易の半分以上が上海を通じて行われている。ここで日本の利権を危うくするようなことは一切許せないでしょうが」。
日本人は彼らの利権が外国人の利権よりも優先すべきだと考えている。イギリスの場合、中国との貿易額は総貿易額の2%にも満たない。アメリカに較べても日本の在華権益ははるかに重要だという。中国はアメリカの総輸出の3.5%しか輸入していないからだ。
3億ポンドにのぼる日本の対中国投資(その6分の1は上海に投資されている)に較べて、アメリカの投資推定額6,600ポンドは小さくみえる。だがアメリカ、イギリス両国とも売るベき多くの物とともに、上海に多くの期侍を抱いている。そのうえ彼らは大金持ちが集まっている共同租界の管理に強い発言力をもっている。

2.外国人租界
上海の外観は見たところ東洋の町とはいえない。外国人管理地区の外側に出てしまわないかぎり、この町はあちらこちらに東洋趣味を織りまぜた奇怪な設計があるとはいえ、ごく普通の西欧風に裁断した建築の衣をまとっている。

万事がアメリカ式になっているので、中国なまりの英語をなんとかしゃべれるようになったアメリカ人は、本国にいるのと同じような気分に浸れる。本国と同じものがほとんど全部ここではそろっている。エリザ・ランデイもモーリス・シュバリエも、ラジオ、 ジャズバ ンド、カクテル、通信学校、ナイトクラブ、キャバレー、チューインガム、ビュイックの車、福音伝道者、救世軍もある。そのうえ海軍士官の奥さんたち、ガールスカウト、ボーイスカウト、米西戦争の老兵、検閲委員会、コロンビア・カントリー・クラブ、短篇小説同好会、商業会議所、ネオンサイン、ソーダファウゥンテン、遊園地、コーラスガール、小型ゴルフ場となんでもそろっている。
上海の租界にはアジアでもっとも高層のビルが建ちならび、もっとも大きな映画館があり、東洋の首都と中国の他の都市の全部を合ゎせたよりももっと多くの自動車が走っている。ここには永安、新々、先施など、イギリスではセルフリツジ、アメリカではサックス、ワナメーカーにあたる
東洋では名を知られた中国の百貨店がある。香港銀行、インド・チャタード銀行、中国オーストラリア銀行、ニューヨークのナショナル・シティ・チェイス銀行の総支店など有力な外国銀行が ある。
スタンダード・オイルとアジア石油はソ連の石油シンジケートのソューズネフと競い合っており、それぞれ黄浦江沿いに大きな精製施確をもっている。租界の中には宣教師たちと一緒にやってきて、その後どんどん発展し、中国では宜教師団(その本部も上海にある)よりも永持ちしそうなアメリカとイギリスの煙草会社の本社もここにある。
悪名高い東インド会社から引きついだ阿片取引で中国での商売をはじめたアーノルド、ジャーデン・マジソン、サッスーンといった「貴族的」なイギリスの商会もここにある。東インド会社は伝奇的ともいえる古い貿易組織で、イギリスのためにインド帝国を手に入れ、もう一世代競争者が現われなかったならば、中国を英保守党の旗の下におきかねなかったしろものである。イギリス商社を徐々におしのけて進出したアンダーソン、メイヤーといったより新しく、より進取的なアメリカの商杜もある。それらはリベットから機関銃、爆撃機にいたるまであらゆる輸出品を製造する多くのアメリカ工場を代表している。
蘇州河の南の虹口地区には空を真黒にするほど煙を吐き出す工楊がならんでいる。上海はアジアで最大の産業都市だ。忙しく稼ぎまくる綿紡工場、製粉工場、絹糸工場および中小工場で20万人以上の中国人労働者が雇用されている。彼らの日給は1シリングに満たない。
それでも仕事さえあれば働きたいという何万の労働者がいる。世界中でここほど低廉で有能な労働力が豊富にあるところはない。イギリス人、日本人、中国人の工場主はその労働力を大いに利用してもうけ、ストライキと労働組合を容赦なく弾圧している。彼らはいつも労働者の要求をけ
ってしまう。あまりにも労働力人口が多く、またパンに飢えているので、 賃金値上げや生活水準の改善をめざすつつましい要求も握りつぶされてしまうのだ。
黄浦江をさかのぼって上海ヘ入ると、最近600万ポンドでアメリカン・エレクトリック会社に買収された上海電力会社の発電所がある。その買収金はいつも金がうなっている市参事会の金庫へしまいこまれた。もっとさかのぼるとアーモア会社の乾燥卵工場がり、川にはダラー・スチームシップ社の汽船やや各国の旗をあげた遠洋航海の船やひき船が浮かんでいる。
この川には灰色や白のほっそりした形の鋼鉄の軍艦が見られるが、その装甲甲板の上には、西の中国地区ヘ砲口を向けた大砲がならんでいる。それらは外国の番犬で、黄浦江、揚子江および中国沿岸を哨戒するイギリス、アメリカ、フランス、イタリア、日本の巡洋艦、駆逐艦、潜水艦、航


空母艦である。静かに狙い定めるこれらの艦砲は、上海の治安維持を口実としている。陸上にはフランス、アメリカ、イタリア、イギリス、日本の陸戦隊が駐屯しており、彼らの銃剣は租界をとり囲む、鋼鉄の輪だ。彼らは総額6億ポンドに及ぶ世界のどの都市にもみられない巨額の外国投資を守っている。
なぜこういうことになったのか。中国でありながら中国のものではないこの途方もない都市は、なぜ外国の砲艦に守られるわずかな人数の外国人の主人と、その手下たちによって支配されることになったのか。

3.上海の歴史
ちょうど1世紀ほど前、大洋を勇ましく走りまわるイギリスとアメリカの快速帆船は、貿易を求める一方、紛争への備えを固めて黄浦江をさかのぼった。はじめは紛争ばかり多く、貿易のほうはさっぱりで、上海市長の道台に通商の権利を求めると疑い深い目でみられるだけだった。清朝の
総督(林則徐)が阿片を河中へ投棄(それより数十年前アメリカ人がイギリスの茶をボストン湾ヘ投げこんだように)したのに立腹した広東のイギリス人が、中国に戦争をしかけて勝ったのちの1843三年になって、上海はようやく「異国」からきたひげづらの蛮人たちに開港された。
条約によってイギリス政府に「租借権」 が認められた広東その他の都市とは違って、上海では中国人地主からイギリス人が借りた土地を割りあてられたにすぎなかった。道台はイギリスの領事に中国の土地はすべて天子のものだから、士地を売却することは技術的にできないのだと説朋し
た。そこで領事は腹の中でニヤリと笑って、中国人から「永久租借」した土地に対してわずかな地代を中国帝国政府ヘイギリス人が払うことに同意した。
この居留地のために道台が割りあてた土地は低湿地で、農民が稲作に使っていたところだった。この時代に東洋へ来た者は皆そうだったが、先見性をもっていた人々は、農民たちの田んぼにたっぷり金を払った。今日では彼らの子孫が同じ土地からの収入で贅沢に暮らしている。最初の土地
規定で定められた境界中の士地は、すべて外国人の管理下に入ってしまった。はじめイギリス人だけが土地を買い、そこに建物を建てることを許されたため、道台との協定によって土地を買った場合、イギリス領事館に登記された。
しかしイギリス人とともにアメリカ人も大勢きており、彼らもまた分け前に与ろうとした。そのうち租界の境界がひろげられ、治外法権をもつすべての外国人(中国人をのぞく)は租界の先例によって土地所有を認められることになった。1854年にアメリカは上海に領車館を設け、イギリス人と協力して地方行政にあたった。それより5年前にフランス人は租界に隣接した別の地域で居住権、土地所有権(永租借権)と通商権を獲得していた。
中国はまた別の地区を指定してアメリカに貸したいと申し入れていた。それは租界の北の方で鮮州河の向こう岸にあった。だがワシントンの議会が中国で「租界」や「租借地」を持つことを否決したので、その士地は正式にはアメリカのものにならなかった。1863年の協定で、今日虹口とよばれるこの地域は租界に合併され、「共同租界」の性格をもつようになった。中国の中でも、また世界を見渡してもこんな都市はない。上海のフランス人はイギリス人やアメリカ人と一緒になりたいと思い、その方向へ向かっって努力した。だがパリ政府が同意しなかったので、フランス地区は別個にフランス行政下におかれた。イギリス人とアメリカ人は現在一部のフランス人の重要な収入源になっている阿片の秘密取引の収入に感づきながらも、現状のままでよいという。
租界は栄え、面積も広くなった。この世紀のはじめまでに、その面積は5回拡張された。これらの拡張は大体友好的に行われたが、時には中国に対して威圧が加えられたこともあった。はじめ外国人は税金を課したり、法令をつうったりして、この小さな楽楽園へ移住してくる中国人を統治
する権利をもっていなかった。だが次第に慣例により、のちに条約で確認されて、ある種の限定された行政権をもつようになった。1854年に土地所有者たちが集まって最初の市参事会員を選出した。それが今日外国の領事の監督下に活動する行政機関になったのである。
初期のころにこの参事会が租界の自衛権を強引に手に入れた。1850年代と60年代の太平天国の乱が、揚子江流域を侵し、上海を呑みこみそうになったとき、義勇兵によって防衛部隊を組織することが必要になった。黄浦江上のイギリスおよびアメリカの軍艦が、匪賊や叛徒から租界の境界を守るため水兵を上陸させたことが何度かあった。法的には外国人は租界に軍隊を駐屯させる権利がなかったのだが、清国政府は保護手段を構じる能力がないから、彼らはみずからの手で自衛しなければならないと主張した。
アメリカ人の冒険家フレデリツク・ウォードは上海の中国人道台の下で、「常勝軍」 を組織し、叛乱軍を揚子江上流へ追い払った。そのため中国革命は50年間遅れることになった)。 清朝政府当局は外国人による防衛地区が役に立つことを知った。そして当分の間、粗界地の防衛計画に暗黙の了解を与えることにした。だが今日にいたるまで「正当防衛」の場合のぞいて~、各国は租界に外国軍隊を駐屯させる権利をもっていない。
参事会の長老たちが決めたもうひとつの原則は、中国内戦の期間中は「武装中立」を保つことだった。中国の軍隊は政府軍、叛乱軍うぃ問わず、つねに外国人地区から締め出されていた。それをきめた法律の条文はなく、法的に認められたわけではないが、中国当局は慣例上それを認めてい
た。太平天国の乱以来、租界に武装した中国軍を計画的に進攻させようという試みは1度も行われなかった。
この「武装中立」はさらに一歩を進めた。上海を世界でもっとも安全な都市にするために、国際紛争が超こった場合、それが中国と列強間の戦争であっても、また列強同士の戦争であっても、租界を神聖不可侵とみなすことに同意が成立した.この中立性はフィーザム判事の上海の「現状
報告」によると、「1884〜5年にトンキンで起こったフランスと中国との戦争に際し、はじめて正式に認められた」のである。そのあと1894〜5年の日清戦争のときも、それは固く守られた。また1904年から5年にかけて日露が戦った際も、両国は戦争中ずっと上海の中立を順守した。そして世界大戦中、上海は危険にさらされない数少ない大都市のひとつとなった。すべての参戦国の国民がここでは平和に慕していた。
数カ月前、日本軍が租界を中国軍攻撃の作戦基地にするまで、この原則は破られなかった。半世紀間も守られてきたこの「中立性」が、外国人たちが前から恐れていたように外からの中国軍の侵入ではなく、内部から、しかもその厳守を誓っていた主要国家のひとつによって完全に粉砕さ
れたのは皮肉きわまることだった。

4.
上海は主として世界大戦中に発展して、現在のように世界第5の大都市にのしあがったのである。当時外国の企業は課税からも兵役からも免れて、巨大な余剰利益を積みあげ~、それを士地や建物などに再投資していた。敵意をもった土地ヘ乗りこみ、その道を切り開いた多数の先駆的商人たちの刻苦する小集団から、粗界は東洋貿易のもっとも重要な市揚に成長したのである。もはやおおっぴらに洋鬼子「西洋の悪魔」とよばれなくなった。「外側の人間」と現地住民の両方によって、財産が築かれてきたが、海外では世界恐慌なのにもかかわらず、今も財産が築かれつづけてい
る。
租界が広がるにしたがって、外国人の市参事会が処理する問題も大きくなってきた。ちょっとした村程度のことを扱っていたのが、今では巨大な都市の行政と取り組まねばならなくなった。その権限は拡大された。上海の外国領事で構成された領事団が、ますます本来のものでなくなって
きたこの参事会を監督していた。今日では市参事会は政策を立案し、条例を定め、各種の公共施設を整え、通常の都市行政と変らない仕事をしている。しかしその行政がもつ政治的意味は非常に大きく、そして外に例をみないものである。
この市参事会では名目上はすベての外国人が発言力をもつことになっているが、長年にわたって主としてイギリス人が支配し、それに旧同盟国の日本人と、アメリカ人が協力する形だった。それというのもこの3カ国が土地を所有する有権者をもっとも多く擁する社会だったからである。日本人の数が首位を占め、最近の租界人口調査では1万9千人になっているが、実際の数は3万人に近い。イギリス人はこれに次いで8千人あまりで、4百人のフイリピン人をふくめた約4千人のアメリカ人が3番目にきている。
伝統的に5人のイギリス人、2人の日本人、2人のアメリカ人の合計9人の外国人メンバーが、百万人近い中国人を支配する市参事会を構成している。
これらの外国人参事会員ほかに、「地方税納税者」から選ばれた5人の中国人代表もいる。市民からの強い抗議によってこのほど認められた中国人代表権は、租界の外人独裁に大した脅威にはなっていない。国際的性質をもった厄介な政治問題がある場合は、しばしば中国人たちは棄権したり、そういう問題を討議する会合の通知が間に合わなかったりする。たとえば1931年1月に、日本軍が中国に対する作戦基地に租界を使うことを可能にした「非常事態」宣言の重大な会合には、ひとりの中国人も出席していなかった。
外国参事会員はその国民が治外法権をもっている諸国の土地所有者者によって選ばれる。租界内の地価の高い土地の大部分は40~50人の者によって所有されるか管理されており、それがお互いになんらかのつながりをもっていて、有権者を操作しているため、市の行政機構は視野の狭い封建的な寡頭政治になってしまっている。この 「模範的租界」の百万人の人口を左右する選拳で、1932年4月の有権者数はわずか1972人だった。さらに分析してみると、行政機構を動かしているのは10人あまりの外国人大地主、銀行家、商人、大実業家、これも10数社にみたない大企業の代表者であることがわかる。だがこの租界市区は正確にいえば外国の植民地でも、租惜地の地位をもつも
のでもなく、一国としてまた数国家が法的に領土だと主張することもできない。理論的には若い中風人学生がよくいう「中国主権」の一部なのである。
この変則的な状態は昔から租界に大きく投資していた連中を絶えずいらいらさせていた。外国のものである上海の地位をはっきりさせ、今日それがよりかかっている特権、すなわち治外法権とは別にちゃんとした法的地位をあたえようとの試みが何回も行われた。多くの者は治外法権が近
く終わりをつげ、その終末とともに租界統治が中国人に戻るのではないかと懸念している。このことを避けるために、古くからの支配家族たちは上海租界の独立を宜言したいと思っているが、彼らは外国砲艦の助けなしにはやっていけない。
上海をはっきりと外国の領土だと是が非でも中国に認めさせるために、諸外国の協力をえようとして、毎年かなりの金額の宜伝費が使われている。これまでのところそれは成功していない。この宣伝計画のうち注目すべきひとつは、市参事会が南アフリカ人のフィーサム判事を使って、上海
の現状報告とその将来の防衛に対する勧告案をつくらせていることである。この3巻の報告書のために租界の長老たちは5千ボンドを投じた。だがその文体があまりにも高圧的だったためもあって、ロンドンもワシントンもほとんど反応を示さなかった。それでもなお現地の商人たちは諦めたわけではない。
とくに不動産業者たちは租界の地位を永久的に安定させ、その境界線を隣接する中国領土内にひろげようと画策していた。数年前にも提案された彼らの一計画は、上海を中心として半径約20マイルの半円形地域に対して、中国政府の司法権を放棄させようというものだった。そこは「自由
都市」を宜言し、永久に「外国の保護のもとに、非武装地帯にする」というのだ。この計画にはイギリス人、アメリカ人のほかに日本人の土地所有者の中にも賛成者が多かった。
しかし上海になにかの危険が起こるか、またはつくり出さないかぎり、主としてアメリカ合衆国とその、非侵略政策」の反対があるので、列強が租界に関して思い切った措置をとることは望み薄だと、現地の指導者たちは数年前から考えていた。1927年に中国国民党軍が上海付近で戦い、緊急事態に備えて租界を防衛するために、外国軍隊が上陸した際、多くの者はその結果各本国政府が共同要求を出すだろうと期待した。そうしたことは起こらなかった。それにもかかわらず境界線の拡張を求める現地の扇動はつづいた。
外国人社会のこのような好戦的な連中を中国人はしばしば「頑固派」とよんでいる。最近この「頑固派」は上海外国居留民協会という名の組織の背後で主流派となった。この組織の全貝が「頑固派」ではないが、その大部分は拡大した租界の外国人支配を永久化しようと決意していることは確かである。
中国の各地にある外国人社会の中にはもちろん中国恐怖症の人々もいるが、上海では「頑固派」が有力な影響力ある市民を擁している。その中には参事会員も何人かふくまれている。この人たちの特殊な考え方をもっともよくえがき出したのは、マンチェスター・ガーディアンの有名なイギリス人記者アーサ−・ランサムであろう。 彼は 「中国の難問」の中で上海の「頑固派」のことを次のように書いている。
「彼らは1901年以来、快適だがかっちりと密閉されたガラス・ケースの中で暮らしてきたようなものである。中国に関するイギリス人の知識とイギリスに関する中国人の知識とは主として上海やそれと同じような都市を通してももたらされるので、イギリスにとっても中国にとっても、イギリス出身の上海居留民たちは、たとえイギリス国籍をもっているにしても、とっくの昔になくなった古いイギリスに属しているのだということがよく分かっていない」。
<中略>
1932年1月末頃には日本の塩沢幸一海軍少将が中国に高圧的な要求を出したとき、彼は上海の共同租界の「頑固派」の世論支持をあてにしていたが、その期待は外れなかった。「頑固派」は大喜びした。ついに待望の人物が現れたとみた。塩沢の中に彼らは東洋の真珠、上海に対する外国支配を永久に確立する救世主を見たのである。彼らの積極的な賛成と協力と、おそらくは多少のけしかけを受けて、無分別な老少将はすっかり大胆になって、その祖国を中国との「厳密に二国間の宜戦されない戦争」以上のものに巻きこむという致命的な失敗をあやうくおかすところだった。

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