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ぶんやさんの記録

読書記録:手束正昭『恩寵燦々と〜〜聖霊論的自叙伝』

2017-04-10 11:32:15 | ときのまにまに
2017年4月8日

友人である著者から戴きました。『恩寵燦々と』副題に「聖霊論的自叙伝」、いろいろ考えるところがあるが、ここではよしておく。著者の手束君は昭和19年6月4日生まれということなので、私より丁度8歳若いことになるが、関学神学部では2年後輩である。ある意味でもっとも親しい友人でもある。彼から受けた影響は少なくない。もっとも大きな影響は政治的姿勢で、彼の方が私よりかなり成熟しており、かなり強い影響を受けた。その立場は社会主義右派(当時「構造主義」)と呼んでいたと記憶する。要するに「江田派」だった思う。
そういう遠い若い日の思い出はさておき、彼が卒業後、いろいろな経過を経て、1975年、彼がカリスマ運動に転身して以後、かなり意識的に遠ざかった。
この度、この「自叙伝」をパラパラと読んで、その辺の事情が少しだけ解けてきた、ように思う。
全体的な感想は遠慮するとして、本書に出てくる私との関係の部分を読んで、その正確な記憶には敬服している。ということで、その部分を以下に書き留めておくことにする。当時の神学部、とくに松村克己教授を取り巻く雰囲気が良く書き表されている。

<以下>
真理を求め続けた神学生時代
ー松村克己教授の厳しい薫陶(1)ー
関西学院大学神学部は、4年間の学びで終わらずに、その上に大学院での2年間の学びを加えた6年間一貫教育制度を採っていた。これは何も、関西学院神学部独自のものではなく、同じ日本キリスト教団認可神学校である東京神学大学や同志社大学神学部、更には青山学院大学文学部神学科も同様の制度を設けていた。そのため他の学部のように、2年間の教養課程を終えて、3年生からゼミナールをとって専門分野の学びに入っていくというものではなく、4年生になって初めて専攻科目を決めて、ゼミナールを受けることになっていた。
3学年終了時、私は迷うことなく、松村克己教授の「組織神学」のゼミナールをとった。その理由は、既述したごとく私が神学部での学びを始め、語学語学で追われているなかで、おのずと湧き起こってきた神学って何だろう」という私の問いに対して、パウル・ティリッヒの神学に触れることによって、その答えを見いだしたからであった。その答えというのは、「神学とはキリスト教信仰という特殊真理を普遍的概念をもって語る」ということであった。それゆえにティリッヒの神学は、哲学や文学だけでなく、心理学や社会学、更には歴史学や自然科学をも駆使して、キリスト教の真理性を弁証していくという壮大なスケールの下に展開されていたのである。
(中略)
それにもう一つの理由があった。それは、当時学部長であった松村克己教授の厳しい指導にひかれたからであった。松村教授は1年生の時には「ドイツ語Ⅰ」を、2年生の時には、「哲学Ⅰ」を講義して下さった。ドイツ語の講義は文学部独文科の学生以上に急ピッチで進められ、哲学の講義も文学部哲学科の学生以上に詳細に講義された。当然、それほど憂秀でない神学部の学生達はテストに合格できず、半分以上が落第をし、遂には留年の憂き目に遭い、次々と退学していった。そのため、松村教授の「組織神学」は「葬式神学」などと揶揄的に呼ばれていた。俄然、学生達は猛反発をした。「われわれは牧師になるために神学部に入ってきたのだ。なのにドイツ語が出来ないからといって退学を余儀なくさせるというのはおかしい」と。
しかし松村教授は少しも動じることなく昂然と言い放った。「ドイツ語のできないような奴は牧師になる資格はない」と。それは牧師は語学能力のない人間には無理だという意味ではなく、ドイツ語の習得という日常的な努力の積み重ねのできない、根性のない人間には、とうてい牧師という務めは続かないという意味であったのだろう。私は入学して間もない頃行われた教授と学生達の対話集会におけるこの場面を今でもよく覚えている。その時私は、「妻い先生だな。この方の指導を仰ぎたい」と感服したのだった。
かくて私は、「松村門下生」になっていくことになるのであるが、私の学年で「松村ゼミ」をとったのは、私ひとりであった。その厳しい指導と組織神学の難しさを学生達は忌避したのである。
松村克己教授は、戦時中は京都大学哲学科の助教授として名を馳せた方であった。いわゆる「京都学派」の一員として将来を嘱望されていた方であり、宗教哲学者として著名だった波多野精一の後継者と目されていた。「京都学派」というのは、西田幾太郎や田辺元の薫陶を受けた一群の哲学者の流れをいい、その中には和辻哲郎、九鬼周造、西谷啓治、高坂正顕、田中美智太郎、三木清などの、戦後の日本社会に影響を与え続けた錚錚たるオピニオンリーダーが名を連ねている。しかし戦後、これらの「京都学派」のほとんどが「戦争推進論者」として、GHQによって公職追放の悲運を味わった。松村教授もそのひとりであった。浪々の身となり、生活に困窮を雑し、その結果奥様を栄養失調で亡くされてしまった。その悲しみのなかで松村教授に神の恩罷の手が差し伸ベられた。戦後再建された関西学院大学神学部から教授就任の招請がきたのである。かくして、関西学院大学神学部の組織神学教授松村克己が誕生したのであった。そしてこのことは、松村教授にとってよりも、むしろ関西学院大学神学部ことって、質的向上とそれに伴う高評価をもたらすという幸いを結果することになったのである。
私は松村ゼミを受講するにあたって、先生に一つの要請を出した。ゼミナールのテキストには、是非パウル・ティリッヒの「組織神学・第3巻」を使って欲しいと。松村教授は二っ返事で応諾してくれた。 松村教授はティリッヒの神学に早いうちから注目し、これを日本に紹介した人物のひとりである。「ティリッヒ神学」の紹介者としては、同志社大学神学部の土居真俊教授が有名であるが、松村教授はすでに戦時中の1943年に学術誌「哲学研究」に掲載した「神人呼応」という論文のなかで、ティリッヒについて論じている。土居教授よりも10年ほども早い。
松村教授はかなり早い時期から、ゼミナールにおいて、ティリッヒの「組織神学」の第1巻「神論」と第2巻 「キリスト論」を英語版で講じていた。 そこには、 興味津々たる内容が叙述されており 「そうか、そうだったのか」と唸りながら読んだ。私の年来の疑問であった「なぜナザレのイエスはキリスト(救い主)と言い得るのか」というキリスト論的問いに対して、見事なる答えが説得的に展開されていたからである。
当時の神学生達の大きな関心事は、いわゆる「史的イエスとキリスト論」についてであった。
その論争の中で、当時の神学界を風靡していたルドルフ・ブルトマンやカール・バルトは「史的イエス」(歴史的に確かめることのできるナザレのイエス像のこと)と「告白されたキリスト」(教会が信仰を持って受けとめ、聖書に描いたキリスト)との間に、連続性を認めず、むしろ「史的イエス」をを切り捨てて、「信仰のキリスト」のみに集中していく強い傾向があった。しかし、このような当時のドケテイズム的な主流的傾向に対し、私は大いに疑問を抱いていたのだが、ティリッヒは「史的イエスと信仰のキリスト」の間を見事に繁ぐことに成功していったのである。しかし、ここではその詳細については触れない。大事なのは、この「史的イエス」と「信仰のキリスト」を連結させるためには、聖霊というものが不可欠だということの発見であった。それゆえに、私はキリスト論は聖霊論によって成就するのではなかろうかと推察し、「組織神学・第3巻」の講義を待ち望んだのであった。その頃の私はまだ聖霊体験はなかったのであるが、私の狙いは間違っていなかったのである。
大学院でのゼミナールは「針のむしろ」であった。というのは、松村ゼミの専攻生は私ひとりであり、毎週私ひとりが松村教授の前で研究発表をするはめになった。それだけではない。私以外に数人の聴講生がいたが、それらの人々は皆大学教員や先輩の方々であった。その中には山中良知教授(文学部哲学科)、熊谷一綱教授(社会学部チヤプレン)、山内一郎助教授(神学部)などがおり、これらの方々は皆私が教えを受けてきた方々であった。つまり、私は松村教授のみならず、かつて教えを受けてきた何人もの方々の前で拙い研究発表を披瀝せねばならなかったのである。そのための準備は相当きつかったが、今思えば、あの厳しい訓練が今日の私を創ったともいえる。
起こりくる世の中の様々な事象に対して(例えば、東日本大震災のような未曾有の出来事に対しても)、私が神学的洞察と思惟をもってこれを解釈し、動揺する信徒達に納得させる説教や説得ができるようになったのも、あの時に徹底的に鍛えてもらったお陰によるものと感謝のほかはない。更に幸いだったのは、卒業の1年後に突然に大学助手として神学部に呼び戻され、ティリッヒの「組織神学・第3巻」(聖霊論)の講義を、在学中のみならず、助手の期間の3年間においても、継続して聴くことができたことである。
(中略)
松村教授によるティリッヒ「組織神学・第3巻」の講義を、私と共に受講しておられた山中良知教授は(この方には2学年の時に「哲学史Ⅱ」と3学年の時に「独書講読」を教えていただいたのだが)松村教授の授業の後、そのざっくばらんな人柄まるだしに次のように語りかけて来られた。「手束君、松村先生の講義は素晴らしいね。僕は京大の哲学科の学生の時にも講義を聴いたんだが、あの頃より、今の先生の講義は何倍も厚みがある。なぜ他の神学生達は松村先生のゼミをとらんのかね。もったいない。君は得をしたな」と。
山中教授の言葉の如く、学年でただひとり松村ゼミをとった私は、あまりにも張り切りすぎて目を使いすぎ、眼精疲労に陥り、修士論文作成には随分と苦労することになったのだが、にも拘わらず松村教授の厳しい薫陶は、やがて私の人生に神の恩罷の御手により大輪の花を咲かせることになったのである。
松村克己教授の厳しい薫陶(その2)
組織神学の修士論文の完成は大学院在学中には無理だといわれていた。聖書神学(旧約と新約に分かれる)や歴史神学、また実践神学などの修士論文は、在学中に提出することが当然視されていたが、組織神学の場合、その研究範囲の広さと難解さ、それに加えて松村先生の厳しい吟味のゆえに、大学院を卒業してから2、3年してたって提出し、合格するというのが普通のこととされていた。しかし、私は何とかして大学院在学中に完成し、合格したいという強い願望を持った。恐らくそこには、若さゆえの功名心というものが働いていたであろう。
そんななか、大学院1年の秋、2学年上の文屋善明という先輩から声がかかった。「手束君、毎月一度ずつ、松村先生のお宅を訪ねて研究会を開かないか。僕が先生には話をつけるから」。
彼はとてもひとなつこい人物であり、織田信長に対する木下藤吉郎よろしく、皆が恐れて敬遠しがちだった松村先生に憶することなく近づき、親しく語らい合うことのできる稀有な人物であった。彼はその項、父親の牧していたホーリネス教会で副牧師をしていたが、「パウル・ティリッヒにおける宗教的象徴論」という修士論文の作成に取り組んでおり、ティリッヒの「組織神学・第3巻」の講義にも出席していた。私は一も二もなくこの提案に賛同した。彼は当時の若い伝道者には珍しく自家用車を所有しており、それに乗せてもらって西宮から松村先生の京都の下鴨北園町の自宅まで、月に一度くらいの割合で赴いたのであった。私と一緒にもうひとりの同乗者がいた。当時西宮公同教会の牧師をしていた穴井崇司氏であった。この方は、私よりも5年先輩であったが、「パウル・ティリッヒの宗教的社会主義」についての論文を牧会しながら執筆完成し、神学修士となっていた。
もうふたりほど、研究会参加者が松村宅で待っていた。一人は、中村悦也という方であり、当時、京都の洛東教会牧師をされていた。更にもうひとりは、京都産業大学教授であった千田朝麿という方であった。この千田朝麿という昔の公家を思わせるような時代がかった名前の人物は、私よりも11学年上の先輩であったが、快活この上ない方で、しかも饒舌であった。そこで、同じく話すことの巧みな文屋氏が会のイニシアティブをとってくれていたので、いつも話は大いに盛り上がった。私は専ら先輩達と松村先生との活発な議論を拝聴する側に回っていたのだが、それだけでも、一回ごとに自分自身が高められていくことを思わされる充実した時を過ごすことになった。
しかしいつも聴き手に回ってばかりとはいかず、私もまた研究発表をする番になった。当然私は準備中の修士論文の概要を語った。私の発表を聴き終わった時、暫し松村先生は沈思黙考しておられたが、やがて顔を上げて、「それでは修士論文になっていない。駄目だ」とばかりの厳しい調子で論難してきた。私は叱責を受けるような激しい言葉遣いに狼狽し、顔を伏せた。周囲の先輩達は気の毒そうな顔をして見ていた。それが松村先生の門下生に対する愛の表現であったことを、2〜3日後に私は知った。「組織神学」の授業の後、「手束君、ちよっと」と言って、私に一冊のドイツ語の書物を手渡してくださった。それは、Arnorld Gilg:Weg und Bedeutung der altkirchien Christologie (直訳すると、アーノルド・ ギルク著 『古代教会におけるキリスト論の歩みとその意義』) というあまり厚くない本であった。そして「これを読みたまえ。きっと論文に役立つから」と言い残していかれた。寮に帰って早速に読み始めたが、易しいドイツ語ではなかった。しかし何カ月かして、それを読破した時、一本の道筋が見えてきた。その道筋とは、ティリッヒの「霊のキリスト論」は、使徒教父達のキリスト論に根拠を置いたものであり、護教家達から始まるロゴス・キリスト論とは一線を画する養子論的色彩の濃いものであった。わたしがカール・バルトのキリスト論に違和感を抱き続けてきたのは、彼のキリスト論がロゴス・キリスト論(受肉論的キリスト論)の線上にあったからである。そこから、その頃の新約聖書神学の大問題であった「史的イエスか信仰のキリストか」を解決することが可能であるのではないかと考えた。
そこで私は、修士論文の第1章で、この「史的イエスとキリスト論」の問題を取り上げ、第2章で古代教会のキリスト論論争を取り上げ、そして第3章でティリッヒのキリスト論を聖霊論的視点から論ずることによって、ティリッヒのキリスト論の真理性を論証しようと試みたのであった。そして遂に、大学院2年生の終わる間近の1969年1月10日、私は修士論文 「パウル・ティリッヒのキリスト論ーーその今日的意義」を関西学院大学大学院神学研究科に提出することができたのであった。私の論文の出来映えについて、文屋善明氏が松村先生に尋ねた時先生は「あいつめ、とうとうやりおた」と嬉しそうに笑われたという。
(後略)

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