ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

断想:顕現後第4主日の旧約聖書

2017-01-27 11:12:24 | ときのまにまに
2017A旧約E4 顕現後第4主日(2017.01.29)
当たり前のこと ミカ6:1~8

<テキスト>
1 聞け、主の言われることを。立って、告発せよ、山々の前で。峰々にお前の声を聞かせよ。
2 聞け、山々よ、主の告発を。とこしえの地の基よ。主は御自分の民を告発し、イスラエルと争われる。
3 「わが民よ。わたしはお前に何をしたというのか。何をもってお前を疲れさせたのか。わたしに答えよ。
4 わたしはお前をエジプトの国から導き上り、奴隷の家から贖った。また、モーセとアロンとミリアムをお前の前に遣わした。
5 わが民よ、思い起こすがよい。モアブの王バラクが何をたくらみ、ベオルの子バラムがそれに何と答えたかを。シティムからギルガルまでのことを思い起こし、主の恵みの御業をわきまえるがよい。」
6 何をもって、わたしは主の御前に出で、いと高き神にぬかずくべきか。焼き尽くす献げ物として、当歳の子牛をもって御前に出るべきか。
7 主は喜ばれるだろうか、幾千の雄羊、幾万の油の流れを。わが咎を償うために長子を、自分の罪のために胎の実をささげるべきか。
8 人よ、何が善であり、主が何をお前に求めておられるかは、お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである。


1. 論争
旧約聖書の面白さは、神と人間とが論争したり、駆け引きしたり、ときには相撲を取ったりすることにある。と言って、日本神話やギリシャ神話のように、沢山の神々が登場して、がやがやするわけではない。神は神であり、人間は神によって創られた存在である。
神は人間に対して絶対で、神のなさることに人間は口を挟むことができないという考えは、キリスト教の神学者たちの思想である。理屈を言えば、恐らく神学者たちのいうことの方が正しいであろうし、論理的一貫性がある。しかし、そこでは生きた信仰の戦いというようなものが見失われてしまう。旧約聖書における神と人間との間には、言い訳や反論、おねだりや甘え、神に対する告訴や駆け引きがある。つまり旧約聖書における神は神であるということを貫きながら、神と人間との関係はいかにも「人間的」である。そこが面白い。

2.ミカという預言者
ミカという預言者は目立たない。目立たないということがミカという預言者の特徴である。ミカが預言活動をしたのは北のイスラエル王国がアッシリアによって滅ぼされた頃(BC.722)で活動拠点は南のユダ王国にあったと思われる。その少し前には預言者アモスや預言者ホセアが北で活動していた。同じ頃、南で活動していたのが預言者イザヤで、彼はいわば宮廷預言者として活躍し、国王ヒゼキアもイザヤには一目置くほどであった。それに対して、ミカはいわば田舎に住む一般庶民の立場から都会に住む金持ちや宗教家、政治家たちを厳しく批判していた。イザヤが体制派の預言者、厳密には国王付の政治顧問のような預言者だとすると、ミカは権力の外から体制を批判する預言者であった。そいう視点から今日のテキストを読まなければならない。ミカ書2章では可ならい激しい言葉か投げつけられている。
「災いだ、寝床の上で悪をたくらみ悪事を謀る者は。夜明けとともに、彼らはそれを行う。力をその手に持っているからだ。彼らは貪欲に畑を奪い、家々を取り上げる。住人から家を、人々から嗣業を強奪する。それゆえ、主はこう言われる。『見よ、わたしもこの輩に災いをたくらむ。お前たちは自分の首をそこから放しえずもはや頭を高く上げて歩くことはできない。これはまさに災いのときである。』その日、人々はお前たちに向かって嘲りの歌をうたい苦い嘆きの歌をうたって言う。「我らは打ちのめされた。主はわが民の土地を人手に渡される。どうして、それはわたしから取り去られ我々の畑が背く者に分けられるのか」(ミカ2:1~4)。また、こんな言葉も見られる。
「わたしは言った。聞け、ヤコブの頭たちイスラエルの家の指導者たちよ。正義を知ることが、お前たちの務めではないのか。善を憎み、悪を愛する者人々の皮をはぎ、骨から肉をそぎ取る者らよ。彼らはわが民の肉を食らい皮をはぎ取り、骨を解体して鍋の中身のように、釜の中の肉のように砕く。今や、彼らが主に助けを叫び求めても主は答えられない。そのとき、主は御顔を隠される彼らの行いが悪いからである」(ミカ3:1~4)。

3. 人間の言い分
さて、本日のテキストは「ヤハウェの告発」の言葉から始まる。ここで語られているヤハウェの告発とはヤハウェの言葉であると同時に預言者ミカの言葉でもある。注意すべき点はここではヤハウェは全世界を巻き込んで、「自分の民であるイスラエル」に対して告発している。非常にダイナミックな法廷論争である。
「わが民よ、わたしはお前に何をしたというのか。(わたしは)何をもっておまえを疲れさせたのか。わたしに答えよ」(3節)。かなり激しい言葉である。ヤハウェは本気になって怒っている。ここで「疲れさせた」という言葉をフランシスコ会訳も、新改訳も岩波訳も「煩わせた」という言葉を使っている。この方がピッタリする。また、「答えよ」は、文語訳では「証せよ」と訳している。これがヤハウェがイスラエルつまり人間に対する告発である。これほどヤハウェを怒らせた原因は何か。聖書は何も語らない。4節から5節にかけてヤハウェはご自分の民であるイスラエルにしてきたことをるる述べている。このどこにヤハウェが民を煩わせているものがあるのか。ヤハウェは問う。「何をもってお前を煩わせていると言うんだ」。
この言葉は面白い。ヤハウェはこの問いをなぜ問うのだろうか。ここには何か裏がある。ヤハウェを怒らせた原因がある。おそらく誰かがヤハウェに通報したのであろう。「人間はヤハウェとの付き合いを煩わしく思っている」、という陰の通報があったのであろう。誰が、どうヤハウェに伝えたのか。今で言うと、ブラックメールがヤハウェに届いた。つまり、そのめーるによってヤハウェは告発されたのである。ヤハウェにはその心当たりがない。それでヤハウェが動き始めた。それがこの激しい告発であろう。「人々が私(ヤハウェ)のために疲れているってどういうことだ。 私が何かイスラエルが煩わせるようなことを要求したか」(5節)。
それに対する、人間側からのヤハウェに対する一種の「言い訳」が6~7節に述べられている。その内容は、「いえいえ、私たちはあなたとの付き合いを煩わしく思っているわけでは御座いません。むしろ、あなた様の恩義に答えるために、どういう捧げ物をしたらいいのか、困っているのです。あなたを喜ばせるために、私たちは何をしたらいいのか」ということで苦労しているだけです」。ここで述べられている人間側の言い訳とは、要するにこういうことである。ここにヤハウェと一般民衆との間の「ひずみ」がある。預言者ミカはこの点を鋭く突いている。この言い訳こそが一般民衆を疲れさせている原因である。権力者たちはヤハウェの名前を持ちだして、一般民衆にプレッシャーをかけている。つまり、彼らは宗教を利用して国民から搾取しているのである。彼らは自分たちの懐を暖めるために「ヤハウェの名」を利用している。

4. 当たり前のこと
それに対するヤハウェの答えが8節である。「人よ、何が善であり、主が何を求めておられるかは、お前に告げられている」(8節前半)。これはヤハウェの答えである。非常に単純で明快である。人間がヤハウェの前でなすべきこと、あるべきことは、くどくど説明されたり、論じられるまでもなく、誰でも人間であれば分かっているはずのことである。「人よ、何が善であり、主が何をお前に求めておられるかは、お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである」。ここに宗教の本質が明快に述べられている。

5.顕現後第4主日特祷
神よ、あなたはみ子を世に現して、悪魔の業を滅ぼし、わたしたちを神の子、永遠の生命を継ぐ者としてくださいました。どうかこの希望によって自らを清く保ち、み子が栄光と力をもって再び来られるとき、み姿に似る者とならせて下さい。父と聖霊とともに一体であって世々に生き支配しておられる主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン

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