ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

ひろさちや著『人生哲学 阪神タイガース的』を読んで

2008-09-19 05:44:48 | ときのまにまに
ひろさちや氏が『人生哲学 阪神タイガース的』という奇妙な名前の本を出版した、というので早速アマゾンに注文し、読んだ。うかつにも、彼がこれほどの阪神タイガースファンだとは知らなかった。わたし自身は、昨年、九州に移住してからは、ソフトバンクホークスに移籍したが、阪神ファンであった頃の残映は残っている。
さて、読後第1の感想は、「痛快」、「納得」、「でも」の3つの言葉に集約されるだろう。先ず第1の「痛快」は、旧人類的あるいは化石的人類的阪神ファン(ちなみに、わたしは著者とほとんど同じ歳)のアンチ巨人派としての痛快さで、第2の「納得」は情報量の多さである。著者は阪神ファンとしては、わたしなど足下に及ばないほど「入れ込んでいる」。ちなみに、わたしは11歳の時満洲から帰国し、大阪に居付いた「流れ者」であるが、著者は生粋の浪速っ子、なにわなにわでも「船場」の生まれで、北野高校出身で、「生まれながらの阪神ファン」(らしい)で、羨ましい限りであるが、阪神タイガースの、いわば「インテリ追っかけ」である。これまでにも、阪神タイガースに関する著書があり、産経新聞にも数点「コラム」がある。さて、第3の「でも」。この「でも」は否定の「でも」ではなく、肯定の「でも」である。というのは、ここで論じられているのは、浮ついた阪神タイガースの「贔屓の引き倒し」ではなく、著者の本職である、宗教哲学、特に仏教思想との深い関連づけである。それは美事である。人生のあらゆる局面で生きる「負けたかて、かまへんやんか」という真理を、阪神タイガースとの付き合いで悟ったという。「そうだろう、そうだろう」、とわたしも思う。「でも」、「ナベツネはん」(これが何を意味するのか、意味不明)や野村監督に対する批判(いやみ)は、「そこまで言わんでもいいやんか。ちょっときつすぎまっせ。まぁ、しゃないけど、それがほんまやから」。<キリスト教的博愛主義の立場からの建前的批判>
書名の中の「阪神タイガース的」の「的」は、面白い。この書名の付け方、これからときどき使わせてもらいます。

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