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ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2014/05/11~05/17

2014-05-18 06:24:23 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2014/05/11~05/17

2014日々の聖句 05月11日(日)
わたしは山にむかって目をあげる。わが助けは、どこから来るであろうか。わが助けは、天と地を造られた主から来る。(詩編121:1~2)

主よ、どこへおいでになるのか、わたしたちにはわかりません。どうしてその道がわかるでしょう」。イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハネ14:5~6)

私の黙想:

今日の聖句は、我が母校関学の「学院聖句」ともいうべき言葉である。この聖句を読むと「上ヶ原牧場」と呼ばれた図書館前の広場から図書館の背後に控えている甲山を思い出す。甲山はそれほど高い山ではないが、その丸い山形は優しく学院全体を包み込むような姿になっている。関学生にとって上ヶ原牧場はいろいろな行事の中心となっている。各種の部活の練習場となり、暖かい日差しの下では臨時のゼミルームになり、お弁当を開く学生もいる。図書館に向かって右側の真ん中に小じんまりした、しかし威厳のなる神学部があり、学院全体のハートになっている。今頃は、芝生も青々としてさぞ美しいことであろう。



2014日々の聖句 05月12日(月)
御力を表される主をあがめよ。力ある御業をたたえて、我らは賛美の歌をうたう。(詩21:14)

詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。(エフェソ5:19)

私の黙想:

どうでもいいことではあるが、「あがめて」、「たたえて」、「賛美」、「歌」、「歌う」と要するに同じ内容の言葉が並ぶ。ヘブライ語原文ではこの節はたった6語、2文で構成され、最初の文の語順通りの直訳は「高く上がり給え、主よ、あなたの力で」であり、後の文は「我らは歌う(ナシーラ)、また賛美しよう(ウネザメラー)、あなたの力強い業を」の3語である。ヘブライ語のことはよくわからないが、スッキリしていることは確か。

英語の「 hymn 」の邦訳「讃美歌」が名訳である。もっとも「聖歌」という表現もそのものずばり優れた訳である。「讃美歌21」では、「賛美」ではなく「讃美」という言葉が用いられており、一種のこだわりを感じる。



2014日々の聖句 05月13日(火)
主があなたたちの数を増してくださるように、あなたたちの数を、そして子らの数を。(詩115:14)

御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。(1ヨハネ3:1)

私の黙想:

単刀直入に民族の繁栄は国民の人口の増加によって示されている。戦争、飢饉、流行病、災害の結果は単純に人口現象によって現れてくる。マイナス面だけでなく、人間は幸せが保障されてこそ安心して子どもを産み、育てたいと思う。そのような国民の正直な気持ちは、成人と子どもとの人口比によって現れる。国民の幸せ度は株価の上昇によるのではない。若者たちが安心して子どもを生み、育てることが出来る社会、つまり「平和と教育の充実」にこそある。産んだ子どもが、そして育てた子どもが戦場に行くことが定まっている社会、産んでも教育するチャンスが偏っている社会で誰が子どもを産み育てたいと思うだろうか。現在の日本の危険性、不安定性、不幸度は子どもの数の現象によってはっきりと示されている。為政者は誰の声よりもそのことに敏感であってほしい。



2014日々の聖句 05月14日(水)
主なる神はこう言われる。災いだ、何も示されることなく、自分の霊の赴くままに歩む愚かな預言者たちは。(エゼキエル13:3)

イエスの言葉:かの日には、大勢の者がわたしに、「主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか」と言うであろう。そのとき、わたしは言おう。「あなたたちのことは全然知らない。」(マタイ7:22~23)

私の黙想:

職業:預言者。しかし「何も示されたことがない」。フランシスコ会訳では「幻を見もしない」と訳している。新改訳では「自分で何も見ないのに」とある。これは酷い。酷いというより言葉の矛盾である。彼の語る言葉は全て「自分の霊の赴くまま」、フランシスコ会訳では「自分の意のままに行動する」とある。それはそうであろう。彼には民衆に語るべき神の言葉を聞いていないのだから。自分の意志によって語り、行動するしかない。彼らに対して預言者エゼキエルを通して語られる主の言葉は唯一つ「主の言葉を聞け」。

主の言葉を聞くとは「自分が」聞くことである。牧師という仕事の核心は聖書において「神の言葉を聞く」ということにある。これは古文書学者が古文書を解釈するのとは次元が違う。「聞く」ためには集中力が必要である。日本語には「聞く」という言葉と「聴く」という言葉がある。通常は「聞く」はBGMのように自然に耳に入ってくることを意味し、「聴く」は耳をそばだてて、意思して「きく」ことを意味してるらしい。その意味では「主の言葉を聞け」という場合には「聴け」の方が適切であろう。むしろ、ここでは(預言者とは違って)、イエスがファリサイ派の人々に「律法にはなんと書いてあるか。あなたはどう読むか」(ルカ10:26)という言葉を思い起こす。「あなたは」、「今」、「ここで」、「あの言葉」をどう読んでいるのか。 私自身はこの点で苦しむ。しかしこの苦しみが喜びでもある。何故なら、それが私の仕事だから。


2014日々の聖句 05月15日(木)
弱者を憐れむ人は主に貸す人。その行いは必ず報いられる。(箴言19:17)

サマリア人は、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。「この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。」(ルカ10:35)

私の黙想:

意味明瞭、メッセージははっきりしている。一つだけ面白こと、「その行い」という言葉を口語訳と文語訳では「その施し」、新改訳では「その善行」、岩波訳では「ヤハウェに貸しをすること」と訳し、もっとも面白いのはフランシスコ会訳で「彼が立て替えたもの」と訳している。大同小異、同じようなものであるが、面白い。現在でも「慈善事業」といい、「社会事業」とも言う。ともかく社会的弱者に対する「愛の行為」には「対他を装う対自」とか「上から目線」という「後ろめたさ」が伴うものだ。これらの諸邦訳を比較して、一つだけ共通の思想がある。それは「その行為」は「主に貸す」という点である。相手が神なら「上から目線」はありえないし、そのことによって「神から報いられ」ても、遠慮はいらない。大いに神に「貸そう」ではないか。

2014日々の聖句 05月16日(金)
御救いの喜びを再びわたしに味わわせ、自由の霊によって支えてください。(詩51:14)

憐れみと平和と愛が、あなたがたにますます豊かに与えられるように。(ユダ2)

私の黙想:

フランシスコ会訳が良い。「救いの喜びをわたしに返し、あなたのおおらかな霊によって、わたしを支えてください」。この「おおらかな霊」という表現がここにぴったり来る。新改訳は「喜んで仕える霊」と訳している。「自由の霊」(新共同訳、口語訳、文語訳)よりは良い。「おおらかな霊」は、神の側の霊であり、喜んで仕える霊はこちら側の霊である。霊においてはあちら側もこちら側もなく両者を繋ぐ関係であるから、結局どちらにも通じる。例によって直訳臭い岩波訳では「高貴な霊」と訳し、47:10の「貴人」(新共同訳では「民の君」と訳されている)と同じ語であり、「進んで働く」とも訳されており、70人訳では「導く霊」と訳されているらしい。つまり、ここでは深刻な罪を犯した者(ダビデ王という設定)がヤハウェの赦しを願っている場面であり、罪は罪として率直に認めながら、今後のこととして「寛大な処分」をお願いしているのである。再びこんな「若気の至りのような罪」を犯しませんと決意し、これからは今まで以上に親密な関係になることを願っている。


2014日々の聖句 05月17日(土)
サムエルの言葉:あなたたちはこのような悪を行ったが、今後は、それることなく主に付き従いなさい。わたしもまた、あなたたちのために祈ることをやめない。(1サムエル12:20,23)

大祭司は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることができるのです。(ヘブル5:2)

私の黙想:

イスラエルの最大の罪は「(他国に倣って)王を求めたこと」、ヤハウェも預言者もそれに反対したが、民の要求は強く、結局、王の存在を認めた。そのような状況の中でサムエルは「わたしは年老いて、髪も白くなった」ので「今からは王が、あなたたちを率いて歩む」と引退宣言しをする。しかし引退しても「なお、続けて祈ることはやめない」というのが本日の聖句。その時の預言者サムエルの心は破れている。その破れの気持が今日の聖句で省かれている20節後半から22節に書かれている。「(今後はますます)心を尽くして主に仕えなさい。むなしいものを慕ってそれて行ってはならない。それはむなしいのだから何の力もなく、救う力もない。主はその偉大な御名のゆえに、御自分の民を決しておろそかにはなさらない。主はあなたたちを御自分の民と決めておられるからである」。この句の中にイスラエルにおける「王制」と「ヤハウェによる神制」との矛盾が見事に描かれている。人間は常に「神に代わる代理人」を立てたがる。それが人間の最大の罪だ。人間は「神の代理人」を「神そのもの」であるかのように「崇める」。しかし、断じて、「神の代理人」は神ではない。

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