今週のローズンゲン 2018/7/8~7/14
2018 日々の聖句 7月8日(日)
主は、家畜のためには牧草を茂らせ、地から糧を引き出そうと働く人間」のために、さまざまな草木を生えさせられる。(詩104:14)
わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。(ルカ11:3)
私の黙想:
主はさまざまなことをなさる。主のなさることに制限はない。今日の聖句はそのことを語っているのではい。むしろ人間にそんなことを語る能力はない。人間は日々に感じる神の業だけを語ることが出来る。
「地から糧を引き出そうと働く人間」、それが人間が「生きる」ためにしている「けなげな姿」である。
2018 日々の聖句 7月9日(月)
主は正義を愛される。(詩37:28)
あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。(エフェソ5:1)
私の黙想:
「主は正義を愛される」という表現にはそのそれ並みに意味がある。しかし、この詩全体を読むと、その意味ることほそんなに生やさしくない。むしろ「主は正義である」とゆうこたである。人間は正義とは何かとう。
神には「正義とは何か」という問いはない。神ご自身が正義であり、正義は永遠に続き、不正義は消え去るという。
「せいぎ」という言葉もいろいろに訳されている。新改訳では「公儀」、岩波訳は「公正」。それぞれ工夫した結果あろうが、原文では「ミシュパット」で、ヘブライ語の中でも特に訳しにくい単語であるようだ。口語訳だけでも55個以上の単語があてはめられている。
とくに裁判に使われるようである。おおらく裁判の場合に、双方が正義を主張し合い何が何だら分からなくなった状況を想像出来るだろう。日本人なら「歴史が証明する」というところだろうか。
2018 日々の聖句 7月10日(火)
施し散らして、なお富を増す人があり、与えるべきものを惜しんで、かえって貧しくなる者がある。(箴言11:24)
旅人をもてなすことを忘れてはいけません。(ヘブル13:2)
私の黙想:こんなことをして設ける人間も居れば、あんなことを損をする人間も居る。これは人間の社会普通のこと。貧しくなることを警戒しすぎて、施すことを惜しむ者もいる。為すべきことをせず、してはならないことをする。
人間社会の経済を巡って、イヤ巡りすぎて、人間の幸不幸がある。
だからここで言いたいことは、人間社会は経済だけで回っているわけではない。人間の幸不幸は善と悪との巡り会わせている神が居られることをわすれてはならない。
2018 日々の聖句 7月11日(水)
イザヤの言葉:災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は王なる万軍の主を仰ぎ見た。(イザヤ6:5)
偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。(エフェソ4:25)
私の黙想:
この「災いだ」という言葉を発しているのは預言者イザヤ自身である。この残酷で、悲劇的言葉が彼の口から飛び出しているのだろう。ウジヤ王とイザヤとの関係は明瞭ではない。王から愛されていた小姓な様な存在だったのかもそれない。ともかく、ウジヤ王の遺体が安置されていたであろう部屋に一人で入っていく。それは「いけないこと」であったのかも知れない。おそらく若いイザヤは恐る恐る部屋に潜り込むように入り込む。
そこで、見た厳かな雰囲気にあっとうされてしまう。それまでに見ていなかった訳ではないだろうが、その時はイザヤの寂しさもあったのか、身が震える経験であったらしい。この「災いだ」は単に禁じられていた部屋に入ったというのではないだろう。イザヤの気分としては、自分自身の意志を越えた何か強い霊に引かれて入ってきたという気分だったのだろうと思われる。これがイザヤの預言者としての召命経験となった。
2018 日々の聖句 7月12日(木)
エッサイの若枝の上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊思慮と勇気の霊主を知り、畏れ敬う霊。(イザヤ11:2)
群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである。(ルカ6:19)
私の黙想:
「エッサイの若枝」とはダビデ王の詩的標語である。エッサイというのはダビデの父親で、もう高齢者になり枯れ木のようになり抜き去る運命のように見える。
ところがその枯れ木に突如若芽が生え出てきたという。どうせそんな若芽、チョット日照りが続けば枯れてしまうだろうと思っていたに違いない。
ところが、その若芽が以外に強く、いろいろな困難にも拘わらず育っていく。その様を見ていた人々は、「若枝の上に主の霊がとどまる」姿を見たのであろう。父親も10人の兄たちとは年齢差も大きくj特別に可愛勝手居たのであろう。
小さい小さいと思いながらもだんだん日がたつと、簡単な父の手伝いもできるようになる。その頃になると「知恵と識別の霊思慮と勇気の霊主を知り、畏れ敬う霊」が宿るようになる。
正直に言って、この辺りの表現には父祖ヤコブの息子ヤハウェねと重なる。
それ以後のダビデの事情は長くなるので省略する。
2018 日々の聖句 7月13日(金)
大地を造り、その上に人間を創造したのはわたし。(イザヤ45:12)
神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。(使徒17:27)
私の黙想:
「ハイ、その通りです。だから、これからもよろしく」。
さて、これ以上何を書こうか。書くことがない。ただ、今もあなたは大地をお守りの筈です。大地の神よ、天災のために苦労し、取り組んでいるすべての人々をお守りください。
2018 日々の聖句 7月14日(土)
(まことに、)主は正義の神。なんと幸いなことか、すべて主を待ち望む人は。(イザヤ30:18)
あなたがたは、御子が正しい方だと知っているなら、義を行う者も皆、神から生まれていることが分かるはずです。(1ヨハネ2:29)
私の黙想:
「主は正義の神」という。では「正義ではない神」が存在するのか。そうです、「不正義の神」が山ほど存在していた。そして今も結構はやっている。私たちは「神」というと、「義なる神」のみを想像するが、考え方としては「王なる存在」が神であり、必ずしも「正義の神」ではない。そのような社会的背景を考えると、今日の聖句が特別な輝きを示してくる。私たちの社会は正義が正義としてそのままに認められるなんて、「なんと幸いなことか」。
2018 日々の聖句 7月8日(日)
主は、家畜のためには牧草を茂らせ、地から糧を引き出そうと働く人間」のために、さまざまな草木を生えさせられる。(詩104:14)
わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。(ルカ11:3)
私の黙想:
主はさまざまなことをなさる。主のなさることに制限はない。今日の聖句はそのことを語っているのではい。むしろ人間にそんなことを語る能力はない。人間は日々に感じる神の業だけを語ることが出来る。
「地から糧を引き出そうと働く人間」、それが人間が「生きる」ためにしている「けなげな姿」である。
2018 日々の聖句 7月9日(月)
主は正義を愛される。(詩37:28)
あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。(エフェソ5:1)
私の黙想:
「主は正義を愛される」という表現にはそのそれ並みに意味がある。しかし、この詩全体を読むと、その意味ることほそんなに生やさしくない。むしろ「主は正義である」とゆうこたである。人間は正義とは何かとう。
神には「正義とは何か」という問いはない。神ご自身が正義であり、正義は永遠に続き、不正義は消え去るという。
「せいぎ」という言葉もいろいろに訳されている。新改訳では「公儀」、岩波訳は「公正」。それぞれ工夫した結果あろうが、原文では「ミシュパット」で、ヘブライ語の中でも特に訳しにくい単語であるようだ。口語訳だけでも55個以上の単語があてはめられている。
とくに裁判に使われるようである。おおらく裁判の場合に、双方が正義を主張し合い何が何だら分からなくなった状況を想像出来るだろう。日本人なら「歴史が証明する」というところだろうか。
2018 日々の聖句 7月10日(火)
施し散らして、なお富を増す人があり、与えるべきものを惜しんで、かえって貧しくなる者がある。(箴言11:24)
旅人をもてなすことを忘れてはいけません。(ヘブル13:2)
私の黙想:こんなことをして設ける人間も居れば、あんなことを損をする人間も居る。これは人間の社会普通のこと。貧しくなることを警戒しすぎて、施すことを惜しむ者もいる。為すべきことをせず、してはならないことをする。
人間社会の経済を巡って、イヤ巡りすぎて、人間の幸不幸がある。
だからここで言いたいことは、人間社会は経済だけで回っているわけではない。人間の幸不幸は善と悪との巡り会わせている神が居られることをわすれてはならない。
2018 日々の聖句 7月11日(水)
イザヤの言葉:災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は王なる万軍の主を仰ぎ見た。(イザヤ6:5)
偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。(エフェソ4:25)
私の黙想:
この「災いだ」という言葉を発しているのは預言者イザヤ自身である。この残酷で、悲劇的言葉が彼の口から飛び出しているのだろう。ウジヤ王とイザヤとの関係は明瞭ではない。王から愛されていた小姓な様な存在だったのかもそれない。ともかく、ウジヤ王の遺体が安置されていたであろう部屋に一人で入っていく。それは「いけないこと」であったのかも知れない。おそらく若いイザヤは恐る恐る部屋に潜り込むように入り込む。
そこで、見た厳かな雰囲気にあっとうされてしまう。それまでに見ていなかった訳ではないだろうが、その時はイザヤの寂しさもあったのか、身が震える経験であったらしい。この「災いだ」は単に禁じられていた部屋に入ったというのではないだろう。イザヤの気分としては、自分自身の意志を越えた何か強い霊に引かれて入ってきたという気分だったのだろうと思われる。これがイザヤの預言者としての召命経験となった。
2018 日々の聖句 7月12日(木)
エッサイの若枝の上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊思慮と勇気の霊主を知り、畏れ敬う霊。(イザヤ11:2)
群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである。(ルカ6:19)
私の黙想:
「エッサイの若枝」とはダビデ王の詩的標語である。エッサイというのはダビデの父親で、もう高齢者になり枯れ木のようになり抜き去る運命のように見える。
ところがその枯れ木に突如若芽が生え出てきたという。どうせそんな若芽、チョット日照りが続けば枯れてしまうだろうと思っていたに違いない。
ところが、その若芽が以外に強く、いろいろな困難にも拘わらず育っていく。その様を見ていた人々は、「若枝の上に主の霊がとどまる」姿を見たのであろう。父親も10人の兄たちとは年齢差も大きくj特別に可愛勝手居たのであろう。
小さい小さいと思いながらもだんだん日がたつと、簡単な父の手伝いもできるようになる。その頃になると「知恵と識別の霊思慮と勇気の霊主を知り、畏れ敬う霊」が宿るようになる。
正直に言って、この辺りの表現には父祖ヤコブの息子ヤハウェねと重なる。
それ以後のダビデの事情は長くなるので省略する。
2018 日々の聖句 7月13日(金)
大地を造り、その上に人間を創造したのはわたし。(イザヤ45:12)
神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。(使徒17:27)
私の黙想:
「ハイ、その通りです。だから、これからもよろしく」。
さて、これ以上何を書こうか。書くことがない。ただ、今もあなたは大地をお守りの筈です。大地の神よ、天災のために苦労し、取り組んでいるすべての人々をお守りください。
2018 日々の聖句 7月14日(土)
(まことに、)主は正義の神。なんと幸いなことか、すべて主を待ち望む人は。(イザヤ30:18)
あなたがたは、御子が正しい方だと知っているなら、義を行う者も皆、神から生まれていることが分かるはずです。(1ヨハネ2:29)
私の黙想:
「主は正義の神」という。では「正義ではない神」が存在するのか。そうです、「不正義の神」が山ほど存在していた。そして今も結構はやっている。私たちは「神」というと、「義なる神」のみを想像するが、考え方としては「王なる存在」が神であり、必ずしも「正義の神」ではない。そのような社会的背景を考えると、今日の聖句が特別な輝きを示してくる。私たちの社会は正義が正義としてそのままに認められるなんて、「なんと幸いなことか」。