ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン2013 04/14~04/20

2013-04-23 09:30:53 | ローズンゲン
今週のローズンゲン2013 04/14~04/20

日々の聖句2013 04月14日(日)
むなしいものを見ようとすることから、わたしのまなざしを移してください。(詩119:37)
あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。(ルカ6:41)
私の黙想:
先ず、私が何に注目しているかということによって私の思想も生き方も決まる。何をなくてならないものと考え、何をむなしいものと判断するのかで、私の人格は形成される。今、私が最も関心を寄せていることが、はたして重要なことか、どうでもいいことか。ポール・ティリッヒは、宗教とは「究極的関心事(Ultimate Concern)」であるという。私の内側から出てくる私の主観的な関心事(concern)であるが、それは私を超えた究極的(utimate)事柄であるという。政治・経済・原発・国際関係・平和等、様々な問題が私の関心事となる。結局、それらの全ての問題は、「これからどうなるのだろう」という私たちの「存在の不安」であり、その不安を通してその先にある「究極的なもの」へ、私の関心は向けられる。「わたしのまなざしを移してください」。

日々の聖句2013 04月15日(月)
わたしの裁きを行い、わたしの掟に従って歩むなら、彼は父の罪のゆえに死ぬことはない。(エゼ18:17)
わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。(ロマ14:8)
私の黙想:
この章はユダヤの格言から始まる。「先祖が酢いぶどうを食べれば子孫の歯が浮く」。この格言を二度と口にするなという。現在の不幸を先祖の行為の結果とするという歴史観を否定する。今、ここで、生きている人間の行為・生き方が問われている。憲法を成立過程の不義を問うことによって新しい憲法を作ろうという。そこには今、その憲法によって生きている国民の生き方、つまり憲法そのものの内容が無視されている。憲法の問題は過去ではなく現在である。現在、私たちがこの憲法の「内容」をどう理解し、どう生きているのか。この憲法によって「かろうじて」平和が維持されているという現実が重要である。

日々の聖句2013 04月16日(火)
武力によらず、権力によらず、ただわが霊によって、と万軍の主は言われる。(ゼカ4:6)
清い心で主を呼び求める人々と共に、正義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。(2テモ2:22)
私の黙想:
バビロン捕囚から帰還した民に対する、民族再生へ向けての神の指針。
日本国憲法第9条【戦争の放棄、戦力及び交戦権の否認】
①日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
②前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
第11条【基本的人権の享有】
国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与えられる。

私たちはすごい憲法を手にしている。この二つの条において繰り返し「永久に」という言葉が使われている。第11条では「現在及び将来の国民」とまで規定されている。預言者ゼカリヤに託された言葉をそのまま現在の日本に適用されている。この憲法は「アメリカ発」というよりも「聖書発」というべきであろう。もし、これを棄てたら日本は永久に神から棄てられるであろう。

望月 克仁 文屋先生 いつも心に迫るメッセージを有難うございます。「これを棄てたら日本は永久に神から棄てられるであろう。」同感です。
ところで、上記の第9条①の「武力による威嚇又は~」の「嚇」が抜けてしまいました。お時間のございます時に校正しておいて戴ければ幸いです。だれでもご存知の文章ですから、その必要もないかと思いましたが、私の大切にしている文屋先生の「日々の聖句・私の黙想」ですので、あえて記しました。
文屋 善明 ありがとうございます。「かつ」の字が見つかりませんでしたので、ひらがなのままにしておきました。「威嚇」です。あなたの文章からコピーして、単語登録しておきました。
望月 克仁 お手数をお掛けしました。有難うございました。
糸原 由美子 威嚇=いかくですね?威喝ではないですね?
文屋 善明 そうそう、漢字の弱さが露呈してしまいました。「いかく」です。「いかく」で転換したら一発で「威嚇」が出て来ました。ありがとう。威喝は大声で叱ること、威嚇は武力でおどすこと。
Satoshi Tanaka 今まで、踏みにじられてきた憲法の旗を高く掲げ、この崇高な憲法を戴く日本国民であることを誇りとし、気高い民として世界に存在し続けることこそ、『誇り高い日本』の使命だと思います。決して、他の国と同じく常に戦争できる普通の国に転落するのではなく。これこそが、大戦で奪われた数千万人の命の悲願であり、そのときのことをわたしたちはもう忘れてしまったのか、と訴えたいと思います。
小野 周一 「聖書発」に感銘をうけました。憲法9条について思うのですが、戦後60数年の間に、解釈改憲が相当進んでしまったことも事実であります。この事実をキリスト者としてどのように受け止めるべきなのでしょうか?聖書から与えられた憲法、すなわち神様から与えられた憲法も随分変質してしまいました。自衛隊が海外で活動できるまでに変質しています。今また、現政権によって新たな解釈の変更が加えられようとの動きも出始めているようです。そういった現実に目を向ける時、現9条を守るべきと主張することの意味を考えさせられます。戦後長い時間を掛けて、ここまで9条への解釈が変わってきたことについて、私は、人間が根源的に持つ「弱さ」を感じます。もう一つは、現実の世界における日本の果たすべき(と期待されている)役割が60数年の間に変化してきたのも見逃せない、或いは避けられなかった事実なのかもしれないと思うのです。貿易立国として生きる他ない日本としては、世界が平和で貿易がスムーズに行える状況にあることが望ましいに決まっています。しかし、現実には海洋での主権を拡大しようとしている国が存在していることも無視できない事実であります。ひょっとすると輸入する石油を運んでくるタンカーの通り道を今よりもっと遠回りせざるを得なくなる可能性だって無い訳ではありません。そうなると石油の価格が更に上昇せざるを得なくなりかねません。
別の観点から、日本さえ平和なら良いのか?との疑問もぬぐえません。GNPが世界第3位の日本が一国平和主義を主張して、世界各国の理解が得られるのでしょうか?また、9条をかえることが即ち戦争ができる国→戦争をしたがる国になることを意味するのでしょうか?平和的に公正に自由に貿易ができる条件を守ることを、世界の人々のために一定の役割を日本国として果たさなくていいのでしょうか?現代に生きる人間村の住民として、近隣の人たちから支持されるのでしょうか?次から次へと疑問が湧いてきます。
文屋 善明 貿易による収益と恩恵とを以下にして世界の諸国に再分配できるのか、しかもそれをアメリカ(ドル)を媒介としないで直接に分配できる構造を作り出すこと。そこに鍵があるように思う。

日々の聖句2013 04月17日(水)
呼び求めるわたしに答え、あなたは魂に力を与え、解き放ってくださいました。(詩138:3)
すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。(ロマ10:12)
私の黙想:
「呼び求める」が鍵。これは単に「祈る」ということではない。呼び求めるということには「自己破綻」あるいは「自力の限界」の意識がある。初めからの「あなた任せ」ではない。自力ではどうにもならなくなったとき、助けてくれる人(神)がいるということは心強い。「主は言われた。『わたしは(中略)、彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った」(出3:7)。

日々の聖句2013 04月18日(木)
呼び求めるわたしに近づき、恐れるなと言ってください。(哀3:57)
神御自身、「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」と言われました。だから、わたしたちは、こう言うことができます。「主はわたしの助け手。わたしは恐れない。人はわたしに何ができるだろう。」(ヘブ13:5-6)
私の黙想:
聖書の神は「過干渉ではない」。どこまでも私を信じて手も口も出さない神である。一寸やそっとでは助けてくれない。今日の聖句は何度も何度も呼びかけても姿を現さない神に対する「最終的な呼びかけ」。しかしいよいよというとき、必ず近づき、「恐れるな」と言って下さる。参照:マタイ14:31。

日々の聖句2013 04月19日(金)
耳の聞こえぬ者を悪く言ったり、目の見えぬ者の前に障害物を置いてはならない。(レビ19:14)
神がわたしたちを招かれたのは、汚れた生き方ではなく、聖なる生活をさせるためです。ですから、これらの警告を拒む者は、人を拒むのではなく、御自分の聖霊をあなたがたの内に与えてくださる神を拒むことになるのです。(1テサ4:7-8)
私の黙想:
今日の聖句は社会的弱者に対する当然の姿勢を語る。隣人の弱みに対する態度は神に対する態度に通じる。
新自由主義、市場経済、経済における自由競争が語られ、問われる。ここで見落とされてはならない最も重要且つ根本的な掟、社会を成立させている根本原理、それは弱者に対する配慮である。弱者に対する配慮が失われた社会は、共に生きる人間の共同体ではなく、弱肉強食のジャングルである。一般大衆(=国民)を「耳の聞こえない」「目の見えない」状況に押し込んで、国民が汗水流して納めた税金を自由気ままに食い散らす権力構造は、もはや国家とは言えない。

日々の聖句2013 04月20日(土)
神はわたしたちの知りえない、大きな業を成し遂げられる。(ヨブ37:5)
イエスの言葉:目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。(ルカ7:22-23)
私の黙想:
これは古代人の雷体験であろう。自然現象の規模の大きさを知れば知るほど、驚き、神の「知り得ない大きさ」を実感する。これは現代人も同じ。
マグマの活動、トラフの危険性、富士山の爆発、まさに自然現象は人間の想定をはるかに超えている。宇宙衛星といい、宇宙旅行を夢見るが、そこで言う「宇宙」とは地球の引力内の出来事である。人間はブラックボックスと言い、ビッグバーンを想像するが、それらは私たちの実感をはるかに超えた現象であり、「わたしたちの知り得ない」こであり、神がなされた「大きな業」としか言えない。

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