今週のローズンゲン 08/12~08/18
losungenj 2012.08.12(sun)
神の水路は水をたたえる。(Ps65:10)
わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。(Joh1:16)
私の黙想:
今日のテーマは「満ちあふれる恵み」。この詩全体がただそのことだけを歌っている。神の圧倒的な恵みに何ものも対抗できない。この溢れる恵みの源泉は「聖なる神殿」だという。主の家から溢れ出る恵みの水が全世界を潤す。幸いなるかな、この源泉に触れる者は。
losungenj 2012.08.13(mon)
主はこう言われる。わたしは、あなたの若いときの真心花嫁のときの愛種蒔かれぬ地、荒れ野での従順を思い起こす。(Jer2:2)
死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう。(Rev2:10)
私の黙想:
「初めの愛」という言葉が心に浮かぶ。神は私たちの初めの愛を忘れない。その後、どんなことがあろうが、神は私たちの純真な愛を覚えている。ここに私たちの神への「甘え」の根拠がある。もっと、もっと、神に甘えたらいい。困った時の神頼み、それでもいい。神さま、身勝手な私をお許し下さい。
losungenj 2012.08.14(tue)
天よ、喜び歌え、地よ、喜び躍れ。山々よ、歓声をあげよ。主は御自分の民を慰め、その貧しい人々を憐れんでくださった。(Isa49:13)
パウロの手紙:わたしの喜びはあなたがたすべての喜びでもあると、あなたがた一同について確信しています。(2Cor2:3)
私の黙想:
喜びへの呼びかけ。私は神から特別な恵みを頂いた。だから喜んでいる。それはいい。それが「なぜ」他者への喜びの呼びかけになるのか。非常に不思議な人間の感情だ。喜びは共に喜んでくれる他者において本当の喜びになる。他者の喜びを共に喜ぶことによって自己の喜びになる。「無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んで下さい」(Lk15:9)。世の中には共に喜べない人もいる。
losungenj 2012.08.15(wed)
今、あなたは知らなかった国に呼びかける。あなたを知らなかった国はあなたのもとに馳せ参じるであろう。あなたの主のゆえに。(Isa55:5)
パウロの手紙:あなた方と一緒にいた時、わたしは衰弱し、恐れ、凄く不安でした。わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵の言葉によらず、霊と力の証明によるものでした。(1Cor2:3-4)
私の黙想:
今日は「終戦記念日」、10歳だった今日、私の人生は変わってしまった。その日を私は北朝鮮のピョンアンで迎えた。満州の新京を脱出してピョンアンにたどり着きまだ数日しかたっていなかった。この日の朝、その日が運命の日になるとは予想もしていなかった。
losungenj 2012.08.16(thu)
声をあげよ、角笛のように。わたしの民に、その背きを告げよ。(Isa58:1)
わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。キリストは御自身を否むことができないからである。(2Tim2:13)
私の黙想:
言葉というものは語られている状況や歴史的背景を全て削り取ってしまうと「危ない言葉」になる。今日のイザヤが語る主の言葉も、これだけを取り出してしまうと「罪の告発」だけが神の民の使命になってしまう。神は罪も告発するが、慰めも語り、赦しも宣言する。
losungenj 2012.08.17(fri)
わたしは正しさを認められ、御顔を仰ぎ望み、目覚めるときには御姿を拝して、満ち足りることができるでしょう。(Ps17:15)
言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。(Joh1:14)
私の黙想:
ここ数日、孫たちと共に過ごし、存在するとは「自己主張」であるということをつくづく思わされる。花は花なりに、虫は虫なりに自己主張している。私も私なりに、存在している以上何かを主張しているのであろう。だから「私の主張」が認められるか認められないかということは、私にとって行為の正邪を超えて、存在をかけた大問題なのだ。
losungenj 2012.08.18(sat)
恐れるな。わたしがあなたと共にいて、必ず救い出す。(Jer1:8)
あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。(Rom8:15)
私の黙想:
「恐れるな」という語の前にある「彼らを」(ローズンゲンでは省略されている)とは神とエレミヤにとって、誰を指しているのだろうか。ここでエレミヤが恐れている相手とは神の言葉を語るべき相手、イスラエルの民である。牧師にとって説教を聞く信徒が恐ろしい。神よりも恐ろしい。
losungenj 2012.08.12(sun)
神の水路は水をたたえる。(Ps65:10)
わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。(Joh1:16)
私の黙想:
今日のテーマは「満ちあふれる恵み」。この詩全体がただそのことだけを歌っている。神の圧倒的な恵みに何ものも対抗できない。この溢れる恵みの源泉は「聖なる神殿」だという。主の家から溢れ出る恵みの水が全世界を潤す。幸いなるかな、この源泉に触れる者は。
losungenj 2012.08.13(mon)
主はこう言われる。わたしは、あなたの若いときの真心花嫁のときの愛種蒔かれぬ地、荒れ野での従順を思い起こす。(Jer2:2)
死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう。(Rev2:10)
私の黙想:
「初めの愛」という言葉が心に浮かぶ。神は私たちの初めの愛を忘れない。その後、どんなことがあろうが、神は私たちの純真な愛を覚えている。ここに私たちの神への「甘え」の根拠がある。もっと、もっと、神に甘えたらいい。困った時の神頼み、それでもいい。神さま、身勝手な私をお許し下さい。
losungenj 2012.08.14(tue)
天よ、喜び歌え、地よ、喜び躍れ。山々よ、歓声をあげよ。主は御自分の民を慰め、その貧しい人々を憐れんでくださった。(Isa49:13)
パウロの手紙:わたしの喜びはあなたがたすべての喜びでもあると、あなたがた一同について確信しています。(2Cor2:3)
私の黙想:
喜びへの呼びかけ。私は神から特別な恵みを頂いた。だから喜んでいる。それはいい。それが「なぜ」他者への喜びの呼びかけになるのか。非常に不思議な人間の感情だ。喜びは共に喜んでくれる他者において本当の喜びになる。他者の喜びを共に喜ぶことによって自己の喜びになる。「無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んで下さい」(Lk15:9)。世の中には共に喜べない人もいる。
losungenj 2012.08.15(wed)
今、あなたは知らなかった国に呼びかける。あなたを知らなかった国はあなたのもとに馳せ参じるであろう。あなたの主のゆえに。(Isa55:5)
パウロの手紙:あなた方と一緒にいた時、わたしは衰弱し、恐れ、凄く不安でした。わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵の言葉によらず、霊と力の証明によるものでした。(1Cor2:3-4)
私の黙想:
今日は「終戦記念日」、10歳だった今日、私の人生は変わってしまった。その日を私は北朝鮮のピョンアンで迎えた。満州の新京を脱出してピョンアンにたどり着きまだ数日しかたっていなかった。この日の朝、その日が運命の日になるとは予想もしていなかった。
losungenj 2012.08.16(thu)
声をあげよ、角笛のように。わたしの民に、その背きを告げよ。(Isa58:1)
わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。キリストは御自身を否むことができないからである。(2Tim2:13)
私の黙想:
言葉というものは語られている状況や歴史的背景を全て削り取ってしまうと「危ない言葉」になる。今日のイザヤが語る主の言葉も、これだけを取り出してしまうと「罪の告発」だけが神の民の使命になってしまう。神は罪も告発するが、慰めも語り、赦しも宣言する。
losungenj 2012.08.17(fri)
わたしは正しさを認められ、御顔を仰ぎ望み、目覚めるときには御姿を拝して、満ち足りることができるでしょう。(Ps17:15)
言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。(Joh1:14)
私の黙想:
ここ数日、孫たちと共に過ごし、存在するとは「自己主張」であるということをつくづく思わされる。花は花なりに、虫は虫なりに自己主張している。私も私なりに、存在している以上何かを主張しているのであろう。だから「私の主張」が認められるか認められないかということは、私にとって行為の正邪を超えて、存在をかけた大問題なのだ。
losungenj 2012.08.18(sat)
恐れるな。わたしがあなたと共にいて、必ず救い出す。(Jer1:8)
あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。(Rom8:15)
私の黙想:
「恐れるな」という語の前にある「彼らを」(ローズンゲンでは省略されている)とは神とエレミヤにとって、誰を指しているのだろうか。ここでエレミヤが恐れている相手とは神の言葉を語るべき相手、イスラエルの民である。牧師にとって説教を聞く信徒が恐ろしい。神よりも恐ろしい。