ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン2013 11/24~11/30

2013-12-01 06:24:45 | ローズンゲン
今週のローズンゲン2013 11/24~11/30

日々の聖句2013 11月24日(日)

主は人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた。(出エジプト33:11)
イエスはトマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」 (ヨハネ20:27)
私の黙想:
「友と語るように」「顔と顔とを合わせて」、いずれも神と人間との関係という場面を想定すると凄い言葉である。「臨在の幕屋」の内部での出来事である。その情景は想像もできない。ところが、同じ章のすぐ後に「あなたは私の顔を見ることは出来ない。人はわたしを見て、なお生きていることは出来ないからである」(20節)と言われている。また、この場面でのヤハウエとモーセとの「交渉」の内容は、出エジプトした民が目的地に到着するまでヤハウエが同行するかどうかということである。この問題についてはヤハウエは14節で「同行する」と宣言しているのに、モーセはさらに執拗に同行を迫る。
どうもこの部分は資料的な問題か表現上の問題か、理解困難である。ともかく選んだヤハウエと選ばれたモーセとの特別な親密さが強調されている。神は決して全ての人に平等に関わっておられるのではなさそうである。アブラハムには「隠す必要がない」(創18:17)と言われ、モーセには「友のように」語る。「神の語り」には特別な人に特別に伝えられる特別なものがあるようだ。

日々の聖句2013 11月25日(月)

この神はわたしたちの神、救いの御業の神、主、死から解き放つ神。(詩68:21)
わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。(ヘブル4:14)
私の黙想:
詩68についてフランシスコ会訳の註で「本詩は絵物語のように美しいが、全詩編のうちで一番意味不明であるといわれている」とされるが、それはこの詩全体を解釈しようとする場合の問題で、個別的な各節は 難しいわけではない。むしろ非常に分かりやす。「死から解き放つ神」という言葉は光っている。フランシスコ会訳では「わたしたちを死から救い出すのは主なる神」少々説明的だが分かりやすい。新改訳は「死を免れるのは、私の主、神による」という訳も棄て難い。岩波訳が面白い。「我が主ヤハウエにこそ死からの出場所(がある)」。
人間にとって最後の敵、死ぬことをいかに克服するか。この死の問題に真っ正面から立ち向かい、自ら十字架の上で死ぬことを通して、復活の希望を示したキリスト、ここにこそ、「死からの出場所がある」。「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」(1コリント15:54~55)

日々の聖句2013 11月26日(火)

散らしてなお、加えられる人もあり、締めすぎて欠乏する者もある。(箴言11:24)
どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。(ルカ12:15)
私の黙想:
これは典型的なユダヤの格言である。ヘブル語原文がどうなっているかというより、汎用性がある方がいい。あまり説明的なのは良くない。その意味では新共同訳がいい翻訳である。「散らす」に施しの意味を加えたり、「締めすぎ」を「必要以上に節約しても」(フランシスコ会訳)としたり、「正当な支払いを惜しむ」(新改訳)、「与えるべきものを惜しんで」(口語)とする必要はない。
問題はこの格言をどういう気持ちで口にするのか、どういう状況の中で思うのか、ということにある。悪人が栄え、善人が衰えることもある。金持ちは益々金持ちになり、貧乏人は益々貧しくなる。世の中とはそういうもんだ。そういう現実の中で、もがき、「勝ち組」に入るために努力する人もいる。毎日毎日、不平を言って暮らす人もおれば、私は私、そういう世の中には振り回されないと決意する人もおれば、そういう社会は間違っていると社会革命を目指す人もいる。

日々の聖句2013 11月27日(水)

主は代々限りなく統べ治められる。(出エジプト15:18)
イエスの言葉:すべてのことは、父からわたしに任せられています。(ルカ10:22)
私の黙想:
「代々限りなく」と「永遠に」(フランシスコ会訳、口語訳)と「とこしえまでも」(新改訳)は同じことか。今日の聖句は文脈・意味も明快で黙想する余地もない。出エジプトした武力も組織力もない、無力な集団を追い、襲うエジプトの大軍をヤハウエが全滅されたという歓喜の詩である。だから表現も大げさになる。それは当然のこと。
それでどうでもいいことに引っ掛かってしまった。古代イスラエルに「永遠」とか「とこしえまでも」という観念はあったのだろうか。むしろ父の代、祖父の代、その前の代、あるいは下って子供の代、孫の代、その子の代というように、無数の時代が連なっている感覚ではないだろうか。先祖の時代の王はこうだった、あるいは孫の時代はこの民族はどうなっているのだろうというような時間感覚の中で生きていたのではないだろうか。今は、モーセの時代である。しかしモーセにもどうにもならなかった民族の危機を乗り越えさせて下さったのはヤハウエである。このヤハウエが私たちの民族の本当の指導者だという感覚、それがこの聖句には込められている(ように思う)。
今の時代、自民党が勝ち誇ったように日本を牛耳っている。民の声も耳に入らないかのようである。しかし今、日本を本当に支配しているのは彼らではない。隣国中国が日本の南の隅っこの制空権を犯しているというとき、その問題を解決するのは日本ではなくアメリカであると言う。今の政権は秘密保護法という国民の目と耳と口をふさいで全く無力化した上で、どうぞご自由にお使いくださいと献じるつもりなのか。

日々の聖句2013 11月28日(木)

生ける神は救い主、助け主。(ダニエル6:28)
わたしたちはまた、御父が御子を世の救い主として遣わされたことを見、またそのことを証ししています。(1ヨハネ4:14)
私の黙想:
ダニエルが獅子の穴から無傷で出てきたのを見てダレイオス王がダニエルの信じる神は生きている神だということを認め、全国民へ「この神を恐れかしこめ」という布告を発する。この物語の面白いところは王と官僚との関係である。王は官僚の悪巧みにコロリと騙される。しかし、事実が事態をひっくり返す。政治家は官僚の言いなりになるが、官僚が企画した計画は現実によって悪が露呈し、官僚は処罰を受けるという痛快物語。

日々の聖句2013 11月29日(金)
心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず、常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。(箴言3:5~6)
自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。(ロマ12:16)
私の黙想:
箴言第3章は「わが子よ」という言葉と「そうすれば」という言葉の組み合わせで出来ている。ざっと読んで、これは一種の「家訓集」のようなものである。今日の聖句で注意を引く言葉は「主を覚えてあなたの道を歩け」。文語訳では「汝すべての途にてエホバを認めよ」で、口語訳も新改訳もフランシスコ会訳でもこの流れに従っている。新共同訳は同じようでかなり違う。その違いが「覚え」と「認める」との違い、あるいは「私の道」と「すべての道」との違いに現れている。主を覚えつつ歩くのか、歩いている道で主を認めるのか。いわばお守りを携帯して旅に出るのか、旅先でそこに主を発見するのか。「私が行くところどこにでも主がついて来られる」(アブラハム型)のか、あるいは「世界中どこに行っても、そこで主と出会う」(ヤコブ型)のか。

日々の聖句2013 11月30日(土)

霊が人間を去れば人間は自分の属する土に帰り、その日、彼の思いも滅びる。(詩146:4)
上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。(コロサイ3:2)
私の黙想:
朝から嫌な言葉に出会ってしまった。今日の聖句の前半は「霊魂不滅」の思想に見えるが、後半を読むと、身体の滅びとともに「思い(霊魂)」も滅びるという思想ではないか。人間は死んだら土に帰り、そのときその人が一生かけて考えてきたことも一緒に無くなってしまう。残るものは、私が誰かの心に、あるいは身体に残したものだけだ。いや、それって凄いことじゃないのか。古代ユダヤ人はその「誰か」をヤハウエとした。ヤハウエのうちに残したものだけがヤハウエと共に永遠に残る。私はそれを私と共に生きる人々、私が死んだ後にも生きている人たちの心に残す。

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