ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2015/04/12~04/18

2015-04-20 06:46:23 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2015/04/12~04/18

2015日々の聖句 04月12日(日)
主はアブラハム言われた。:わたしはあなたを祝福し、あなたは祝福の源となる。(創世記12:2)
あなたがたは地の塩である。(マタイ5:13)
私の黙想:
今日の聖句、聖書の言葉(新共同訳)と比べると省略も多いし、かなり違う。この聖句は 「わたしは(あなたを大いなる国民とし、)あなたを祝福し、(あなたの名を大きくしよう。)あなたは祝福の基となるであろう」となっている。カッコ内は省略されている。口語訳は「祝福の基となるであろう」の部分が新共同訳では「祝福の源となるように」で、ローズンゲンでは「祝福の源となる」。フランシスコ会訳では「祝福の基となる」、新改訳は「あなたの名は祝福となる」。
このややこしい訳文の違いは次の言葉で明瞭になる。「あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う」。
ややこしい問題をすべてすっ飛ばし、この「あなた」を「イエス・キリスト」あるいは「イエス・キリストの御名」に差し替えると、キリスト教信仰の基となる。つまり、私がキリスト者であるということが、私の周辺のすべての人にとって「祝福の基」になっているのかどう。その点が問われている。

2015日々の聖句 04月13日(月)
相手に損害を与えてはならない。あなたの神を畏れなさい。(レビ25:17)
何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考えなさい。(フィリピ2:3)
私の黙想:
今日の聖句、先ず頭をよぎる問題は前段と後段との関係である。この章全体はヨベルの年に関する命令である。50年に一度の大精算と安息の年で在り、その年には奴隷を解放し、負債関係をゼロにし、土地の価格等をすべて「元の価格」しなければならない。そのために様々な悲喜劇が起こる。ヨベルの年が近づくと借金が難しくなり、土地の価格が暴落する。悪い奴はこのヨベルの年を利用して物価を操作し、暴利をむさぼることになる。本来は「平等」のための施策が逆に貧富の差を生み出す結果となる。今日の聖句はそのような状況に対する「歯止め」の言葉である。そこで後段の「あなたの神を畏れなさい」という戒めの言葉が意味を持つ。
「ヨベルの年」という思想の成立の根拠は一応「神に発する」と考えられるが、人間がそれを運用する場合に「悪の温床」となる。民主主義にせよ、自由主義にせよ、社会主義にせよ、すべて理想は理想であるが、それを運用する人間によって善ともなり悪ともなる。それがまさにヨベルの年の教訓である。「神を畏れる」ということが社会からななくなるとき、人間の社会は悪魔的になる。現代の日本を考えるとき、まさにその危機に直面しているといわざるを得ない。

2015日々の聖句 04月14日(火)
主よ、生死にかかわるこの争いを、わたしに代わって争い、命を贖ってください。(哀歌3:58)
わたしたちが持っているこの希望は、魂にとって頼りになる、安定した錨のようなものであり、また、至聖所の垂れ幕の内側に入って行くものなのです。(ヘブル6:19)
私の黙想:
前後の文脈を見ると確かに「生死にかかわる争い」だと分かる。著者は窮地に追い込まれている。彼が最後に頼りにしているのは主である。しかし発端はその主が著者を追い込んだのである(1~2節)。伝統的にはエルサレムの崩壊という出来事を経験して、それを嘆く哀歌であるとされる。もう既に、エルサレムは崩壊している。残るのはただ、「心の中のエルサレム」だけである。いわば、組織としてのエルサレムは既に崩壊し、ただ「理念としてのエルサレム」だけが残っている。そのエルサレムさえも瀕死の状態にある。まるで「隠れキリシタン」の心境というべきか。
新共同訳以外には「生死にかかわる」という言葉はない。新改訳はこの部分を「魂の訴えを弁護して」と訳している。訴えは「魂の問題」である。信仰を維持するための組織はすでに崩壊している。残るのは内面としての信仰だけである。その内面としての信仰も何時まで持つのか分からない。現時点では何とか持ちこたえている。このこと事態が奇跡である。ギリギリのところ心の奥底から「呼び求めるわたしに近づき恐れるなと言ってください」(57節)。
信仰者が社会的組織としての「教会」に失望し、信頼を寄せることができなくなったとき、「教会」から離れ、心の中にある「理念としての教会」だけが頼りとなる。それは悲劇である。

2015日々の聖句 04月15日(水)
もろもろの王よ、聞け君主らよ、耳を傾けよ。わたしは主に向かって歌う。イスラエルの神、主に向かってわたしは賛美の歌をうたう。(士師記5:3)
真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた。(使徒16:15)
私の黙想:
イスラエルの民が侵入したカナンの地には先住民が住んでいた。イスラエルの民は「ここはヤハウェから与えられた『約束の地』だと宣言するが、はっきり言って、彼らは侵略者である。当然、占領地を取ったり取り返したり、戦争が繰り返される。その時登場するのが士師たちである。彼らはそれらの戦争の勝敗をヤハウェによるものだと信じている。ただ、この「信じている」という一点だけで、士師記は「信仰の書」となる。今日の聖句は、勝った時のいわゆる戦勝歌「デボラとバラクの歌」である。ただ、それだけのこと。日本史で言うと、蒙古来襲、日露戦争等の時の、提灯行列やどんちゃん騒ぎと同類の歌である。強いて解釈すれば、人生における苦難に勝利したときの「信仰の歌」として読むことも可能である。

2015日々の聖句 04月16日(木)
主は正しい。わたしが主の口に背いたのだ。(哀歌1:18)
わたしはここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました」と。(ルカ15:18)
私の黙想:
「主の口に背いた」、何となく分かるが、こんな訳は新共同訳だけだ。古語訳では「み言葉に背いた」、文語訳は「その命令(おおせ)」、フランシスコ会訳では「その掟」、新改訳は「主の命令に逆らった」。なぜ、「主の口に背いた」なんて、気取った訳を採用するのか、言語感覚を疑う。
哀歌は恐ろしい文書だ。冒頭の言葉がこうだ。「ああ、むかしは、民の満ちみちていたこの都、国々の民のうちで大いなる者であったこの町、今は寂しいさまで座し、やもめのようになった。もろもろの町のうちで女王であった者、今は奴隷となった」(口語訳)。この「ああ」という言葉が「哀歌」という名前の由来である。2章、4章の冒頭の言葉もこの「ああ」である。文語訳では「ああ、哀しきかな」と言葉を補っている。この語は「まぁ、何と、どうして」という感嘆、疑問を示す語である。その意味で「哀歌」という書名は相応しい。今日の聖句に続く言葉も「聞け、諸国の民よ見よ、わたしの痛みを」と単刀直入にその「痛み」を述べている。
この悲痛さの原因は「ヤハウェの言葉に逆らった」というただその一点にある。

2015日々の聖句 04月17日(金)
主よ、諸国の民を裁いてください。(詩7:9)
律法を定め、裁きを行う方は、おひとりだけです。この方が、救うことも滅ぼすこともおできになるのです。隣人を裁くあなたは、いったい何者なのですか。(ヤコブ4:12)
私の黙想:
この「諸国の民」には自国は入っていない。これに続く言葉がこうなっている。「主よ、裁きを行って宣言してくださいお前は正しい、とがめるところはないと」。これが「諸国の民を裁いてください」という願いの目的である。この願いはかなり激しい。7節にはこんな言葉がみられる。「主よ、敵に対して怒りをもって立ち上がり、憤りをもって身を起こし、わたしに味方して奮い立ち、裁きを命じてください」。この詩全体を見るときそれも致し方ないと思う。
が、口語訳によるとこうなっている。「主はもろもろの民をさばかれます。主よ、わたしの義と、わたしにある誠実とに従って、わたしをさばいてください」。ここでは「もろもろの民」の中に自国も含まれ、後半でははっきりと「わたしをさばいてください」という。翻訳の仕方で、こんなにも違う。どちらが正しいのか、私には判定できない。参考にフランシスコ会訳は、口語訳と同じ解釈である。新改訳では、前半はほとんど同じであるが、後半では「私を弁護してください」となっている。
この違いに拘るのは、現実に私自身が社会の中で不当な扱いを受けた場合に、その不当を訴える基本的な姿勢にかかわるからである。裁かれるべきなのは「敵」だけではない。私自身も神の前では裁かれるべきものである。従って、「主よ、諸国の民を裁いてください」であってはならない。この部分は、願望文ではなく平叙文であるべきである。そして、その上で、神の公正な裁きに身を委ねる、これが信仰者のあるべき姿であろう。

2015日々の聖句 04月18日(土)
モーセへの主の言葉:さあ、行くがよい。このわたしがあなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう。(出エジプト4:12)
わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。(ヨハネ15:26)
私の黙想:
モーセは口下手だった。特に「口が重く、舌が重い」というので、発声に問題があったのかも知れない。このことは民族の指導者(政治家)として欠陥であろうか。ヒトラーは演説が上手かったという。ある意味で演説でドイツ国民を魅惑したと言われている。演説が巧いと言うこと、爽やかな弁舌はポピュリズムの武器となった。名演説かは自らの演説に酔ってしまう。そして、それがあたかも「真理」であるかのように錯覚してしまう。
モーセの兄アロンは雄弁だったと言われている。その雄弁さが災いして、モーセの留守中、人々を偶像礼拝の方に導いてしまい、民族的な危機となった。その時、訥弁なモーセが登場に、口が上手く動かないので、ヤハウェから授かった十戒が記された石版を民衆に投げつけた。重要なのは演説の上手さではなく、国民を思う心とそれに促された行動である。ヤハウェはモーセのその行動を非難なさらなかった。そして石版を再び授けた。
モーセは口下手だったが、心があった。民を思う「涙」があり、「怒り」があった。そのためには演説の上手さなど無力であった。
今日のこの聖句は説教者にとって肝に銘じるべき非常に重要な言葉である。

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