ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2015/04/19~04/25

2015-04-25 09:24:30 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2015/04/19~04/25

2015日々の聖句 04月19日(日)
彼(ロバに乗る王)の支配は海から海へ、大河から地の果てにまで及ぶ。(ゼカリア9:10)
神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずきます。(フィリピ2:9~10)
私の黙想:
「ロバに乗る王」(9節)であるメシアの世界支配を歌っている。「ロバに乗る王」とはつまり「軍馬に乗らない王」という意味で、「平和の王」を象徴する。王という言葉に対する「平和」という形容詞は「支配」という言葉の意味内容を根本的に変える。
今、沖縄の人々が求めているものは「平和」である。沖縄が「軍事基地」であること、地政学的に見て沖縄が軍事力の最重要拠点であるということは、逆に沖縄が平和であるということは大平洋が平和であるということを意味する。今、日本に求められていることは沖縄を平和の基地化することである。沖縄の人々はそれを求めているのであろう。アジアの平和、世界の平和は「海から海へ、大河から地の果てにまで及ぶ」。

2015日々の聖句 04月20日(月)
わたしはあなたに感謝をささげる、あなたは答え、救いを与えてくださった。(詩118:21)
だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。(マタイ7:8)
私の黙想:
神と人間との間のこの関係は give and take の関係では決してない。その意味で「あなたは答え」という言葉には違和感を感じる。口語訳ではこうなっている。「わたしはあなたに感謝します。あなたがわたしに答えて、わが救となられたことを」。ほとんど同じ言葉が並べられているが、その意味するところには雲泥の差がある。どこがどう違うか。新共同訳では「あなたは答え」という言葉は「わたしの感謝」に対する神の応答となるが、口語訳ではこの「答え」は、わたしの祈りに対して神が答えてくださったことであり、つまり13節から20節に述べられている神の恵みを意味している。言い換えると、神が「わたしの救いになられたこと」に対する「わたしたちの感謝」である。新改訳ではその辺りのことを明白にするために、後半の文章を前半に対する理由として「わたしの救いとなられたからです」と訳している。文語訳は明白である。「我なんじに感謝せん、なんじ我にこたえてわが救いとなり給えばなり」。もちろん新共同訳もフランシスコ会訳でもそういう風に読むことはできないわけではないが、一寸した言葉の使い方で文意が明瞭になる。
神と人間との最も基本的な関係は、「恩寵の先行性」ということで、人間の感謝は、それに対する姿勢である。

2015日々の聖句 04月21日(火)
ヨブは主に答えて言った。「わたしは軽々しくものを申しました。どうしてあなたに反論などできましょう。わたしはこの口に手を置きます。」(ヨブ40:3~4)
主よ、わたしたちにも祈りを教えてください。(ルカ11:1)
私の黙想:
ヨブ記のクライマックス、ヨブが神に対して人生苦、万物の謎等々様々な疑問を神に直接ぶちまける。それを聞いていたこの世の知恵者エリフが人間の知恵(哲学)を述べることによってヨブをたしなめる。しかしヨブはそんなものでは満足できない。ヨブは黙っている。それを見て、遂に神が登場し、神の圧倒的な力と万物に対する配慮を語る。それが38章、39章である。真打ち登場によってヨブの疑問が解けたわけではない。しかし神ご自身の登場によりヨブは打ちのめされる。今日の聖句はヨブがその時発した言葉である。ヨブは人生の対する疑問の深さにおいて友人たちに対しても又この世の知者の誰に対しても負けていない。その意味では、疑問の深さそのものがヨブの誇りであったのかも知れない。しばしば人間は知っている知識の量よりも知らないことについての疑問の深さが誇りになる。人間の学問とは「知っていることの量」ではなく、「問いの深さ」であると言われる。その意味でヨブは「問う者」つまり「学者」の典型であろう。しかし、ヨブのメッセージは神の前における人間の「問い」の軽々しさである。

2015日々の聖句 04月22日(水)
モーセが手を海に向かって差し伸べると、主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返された。(出エジプト14:21)
自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。(ガラテヤ5:1)
私の黙想:
今日の聖句、有名なシーンだから、説明は不要であろう。ここを読むと思い出すことが一つある。私がまだ小学生のころ、母はよく聖書の話をしてくれた。それは日曜学校のように畏まった話ではなく、雑談風なお喋りだったと思う。雲に乗ってイエス様が再臨するんだとか、千年王国ってすごいよとか、水晶のような天国とか、今から考えるとその頃の聖書学院では、再臨信仰がかなり強烈に強調されていたようだ。
ある日、何を思ったのか今日の聖句の場面のことを話ながら、「こういうことなんだ」と独り言を言い、食器棚から広い皿を一枚とりだして、そこに水を満たし、口をすぼめて静かに息を吹きかけた。すると皿の水の息のかかったところの水が分かれた。そして私を呼び、「こういうことなんだ」と喋りかけた。前後の情景は全て忘れてしまったが、このシーンだけは小学校の頃の私の頭にこびりついてしまった。生意気な中学生の頃、私はこの時のことを思い出し、水が分かれるほど強い風が吹いたら、そこを歩く人間も吹き飛ばされてしまうのではないか、などと考えていたが、そのことは遂に母には言わないことにした。聖書学院出身の母は、聖書の不思議な奇跡話を何とか合理的に解明しようとしていたらしい。

2015日々の聖句 04月23日(木)
あなたの嘆きの日々は終わる。(イザヤ60:20)
神の愛によって自分を守り、永遠の命へ導いてくださる、わたしたちの主イエス・キリストの憐れみを待ち望みなさい。(ユダ21)
私の黙想:
今日の聖句、これだけが単独であるわけではない。20節はこうなっている。「あなたの太陽は再び沈むことなくあなたの月は欠けることがない。主があなたの永遠の光となりあなたの嘆きの日々は終わる」。なんと壮大な言葉であろう。一つ一つの語句の解説をまったく必要としない。そしてそれらの語句は全て、「あなたの嘆きの日々は終わる」という言葉において結晶化される。ここでの「あなた」とはエルサレムを指す。廃墟のエルサレムである。14節にはこういう言葉がある。「あなたを苦しめた者の子らはあなたのもとに来て、身をかがめ、あなたを卑しめた者も皆あなたの足もとにひれ伏し、主の都、イスラエルの聖なる神のシオンとあなたを呼ぶ」。22節にはこういう言葉もある。「最も小さいものも千人となり最も弱いものも強大な国となる。主なるわたしは、時が来れば速やかに行う」。
この聖句を下手に解釈すると現代の「シオニズム運動」を称賛することになってしまう。その意味では10~12節の言葉などは非常に危険な言葉となる。「異邦の人々があなたの城壁を築きその王たちはあなたに仕える。わたしは怒ってあなたを打ったが今、あなたを憐れむことを喜ぶ。あなたの城門は常に開かれていて昼も夜も閉ざされることはなく国々の富があなたのもとにもたらされその王たちも導き入れられる。あなたに仕えない国も王国も滅び国々はまったく廃虚となるであろう」。危ない、危ない。
これらの言葉はあくまでも、その歴史的情況に限定された言葉である。バビロン捕囚中の人々に語られた預言者の言葉であり、この言葉が励ましとなってユダヤ民族は再生したのである。

2015日々の聖句 04月24日(金)
主は世界中至るところを見渡され、御自分と心を一つにする者を力づけようとしておられる。(歴代誌下16:9)
キリストの言葉:わたしは、あなたの行いと労苦と忍耐を知っている。(黙示録2:2)
私の黙想:
ヤハウェの求人広告。ヤハウェは仕事をしておられる。そして信頼できる協力者を探しておられる。国籍、年齢、性別不問。いかがですか、あなた応募いたしませんか。ああそうか、この広告は求人募集ではなく、「援助相手」の募集か。事業内容は問いません。ただ一つの条件は「私と心を一つにできるかどうか」、ただそれだけです。いかがですか、あなた応募してみませんか。
ああ、残念。あなたは応募できません。だって、あなたがしたいことは「戦争」でしょう。ヤハウェは戦争への協力はいたしません。それで、結局あなたは自力で戦争準備をしなければならないことになりました。馬鹿だね。「平和のため」なら、ヤハウェはいくらでも援助してくれたのに。あなたのいう「積極的平和」は喧嘩の強い国と同盟を結んで「戦争しよう」ということの言い換えに過ぎないから援助申込みの資格はございません。

2015日々の聖句 04月25日(土)
わたしたちの主なる神のなさることはすべて正しい。(ダニエル9:14)
主人の言葉:友よ、あなたに不当なことはしていない。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。(マタイ20:13,15)
私の黙想:
それは分かっている。で、問題はそれがどうしたのいうのだろうか。それに対する「わたしたち」の姿勢が次に述べられている。 「それに対して、わたしたちは御声に聞き従いませんでした」。この言葉はダニエルの言葉である。ダニエルはバビロンの捕囚民の一人であるが、バビロンの王家から特別に採用され、バビロンでかなりの要職に就いている。そのダニエルが、次のように言う。「わたしダニエルは文書を読んでいて、エルサレムの荒廃の時が終わるまでには、主が預言者エレミヤに告げられたように七十年という年数のあることを悟った」(9:2)。彼はなぜ自分たちがバビロンにいるのか、そして将来どうなるのか、「文書を読んで悟った」という。つまり過去の歴史を文書で知り、将来のことを文書で見通すことができたという。もし、その文書がなければダニエルは何も分からないまま、生きていたということになる。
この出来事が何時のことか分からない。おそらくダニエルが現在の要職に就くよりはかなり前のことであろう。ダニエルは過去の自民族の歴史、しかもそれは「主なる神」の「御声に従わない歴史」を知った。しかも、それを「文書をとおして」。
いろいろなことを考えさせられる。歴史教育の重要性。それ歴史は輝かしい歴史ではなく「罪の歴史」「恥多き歴史」。若者はその歴史を知って、その生き方を決定する。ここでは「70年」という期間が重要である。考えさせられる「70年」である。この歴史認識が、バビロンでのダニエルの生き方を決めたのであろう。バビロン王家に従順な官僚でありながら、同時に自分の民族の神に忠誠を尽くす。そのためなら、死ぬことをいとわない生き方を。

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