今週のローズンゲン2013 07/14~07/20
日々の聖句2013 07月14日(日)
新しい土地を耕せ。主を求める時が来た。(ホセア10:12)
時をよく用い、外部の人に対して賢くふるまいなさい。(コロサイ4:5)
私の黙想:
良い実を収穫するためには剪定、切り込みが必要である。栄養を注ぎ伸ばすべき時もあるし、思い切って切り取るべき時もある。預言者は言う。イスラエルは「のびほうだい」だ。何が伸びているのか。ここが重要だ「祭壇を増し国が豊かになるにつれて、聖なる柱を飾り立てた」(1)。神殿や祭壇が増築され豪華になっている。つまり神殿が神への信仰の象徴ではなく権力者の権威づけの道具になっている。まず最初にカットされるべきもの、それは権力者の権威である。人間の栄光がカットされたとき、神の栄光が現れる。3節の言葉は注目すべきである。「我々には王がいなくなった。主を畏れ敬わなかったからだ。だが王がいたとしても、何になろうか」 。完全に洗脳されている人々の言葉である。「原発がなくなったらどうしよう」。権力者は国民の不安を煽る。馬鹿らしい。
国民の間から不要なものが剪定された後、「新しい土地を耕せ。主を求める時が来た」という言葉が生きてくる。
日々の聖句2013 07月15日(月)
心配は人をうなだれさせる。しかし親切な言葉は人を喜ばせる。(箴言12:25)
あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合いなさい。(コロサイ3:12-13)
私の黙想:
「弱り目に祟り目」という諺がある。「泣きっ面に蜂」、あるいは「踏んだり蹴ったり」ともいう。悪いことあると、あるいは心配事のために弱っていると、さらに心配事が重なる。それを断ち切る力は励ましの言葉ではなく、親切な言葉、あるいは優しい言葉である。弱っている人には一言の親切な言葉が立ち上がる力となる。しかし多くの人は人の弱みにつけ込む。少なくとも教会はそういう社会であってはならない。
日々の聖句2013 07月16日(火)
悪に報いたい、と言ってはならない。主に望みをおけ、主があなたを救ってくださる。(箴言20:22)
だれも、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。お互いの間でも、すべての人に対しても、いつも善を行うよう努めなさい。(1テサロニケ5:15)
私の黙想:
報復の否定。これは非常に難しい。報復はほとんどの場合、「正義」を旗標とする。無関係な者まで心の中で「報復」を承認している。ここに「報復」の恐ろしさがある。そのために、最初の「悪」の確認が疎かになってしまう。それは本当に「悪」だったのか。多くの場合、最初の「悪」の確認は不可能に近い。それは個人間でも、国際間でも同じことである。報復は報復を生み、報復の連鎖が始まる。それをとどめる能力は人間にはない。第3者による「裁判」もほとんど無意味である。だから聖書は報復の論理を根本的に否定する。しかし赦せとは言わない。「主に望みをおけ」という。
日々の聖句2013 07月17日(水)
わたしは多くの戒めを書き与えた。しかし、彼らはそれを無縁のものと見なした。(ホセア8:12)
律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。(ロマ2:13)
私の黙想:
ここでのイスラエルとは全イスラエルではなく分裂後の「北のイスラエル」で、アッシリアによる滅亡前の状況を描いている。彼らは口では「わが神よ我々はあなたに従っています」(2節)と 唱えるが、実態は偶像礼拝に走っている。8節の「イスラエルは食い尽くされる。今や、彼らは諸国民の間にあってだれにも喜ばれない器のようだ」という預言者の言葉は厳しい。神の民が神の民としての姿勢を失ったら「不要な器」になってします。預言者の言葉はさらに厳しい。「彼らはエジプトに帰らねばならない」。これは大国の奴隷になるという意味である。弱小国には弱小国としての矜持がある。その矜持を守ることによって諸外国から尊敬される。「何とかの傘」などと言って大国に依存するとき、諸国から「不要の器」と見なされ、自らエジプトへの道を進むことになる。
日々の聖句2013 07月18日(木)
神の道は完全。(詩18:31)
だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。(マタイ6:34)
私の黙想:
主なる神は、弱り果て小さくされたダビデ一人のために、天の全軍、宇宙万物を動員して、救出された。イエスがローマの兵隊によって逮捕されたときの情景を思い起こす。弟子の一人が剣を抜いてローマの兵隊に抵抗した時、イエスは言われた。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう」。神が歴史に直接介入するということは、こういうことが起こるという信仰である。しかし神は敢えてここまで介入されない。なぜなら、イエスがローマ兵の手にかかって殺されるということも「神の計画」(聖書の言葉)だからである。
聖書のテキストに沿っての私の黙想は、そこまで。
日々の聖句2013 07月19日(金)
主はヨナに言われた。「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。ならば、どうして私が、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。」(ヨナ4:10-11)
イエスの言葉:私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。(ルカ5:32)
私の黙想:
人間は悔い改めることが出来る。悔い改めて、それまでの人生の方向転換をする。ヨナ書の重要なポイントは、そのとき神も悔い改めるということである。人間の悔い改めに従って、神も人間の歴史に対して予定変更する。そしてもう一つ、神にも「惜しい」と思う心がある。だから、人間の歴史において「絶望」はない。「彼は望むべくもあらぬ時になほ望みて信じたり」(ロマ4:18)。
日々の聖句2013 07月20日(土)
家を建てる者の退けた石が、隅の親石となった。これは主の御業わたしたちの目には驚くべきこと。(詩118:22-23)
キリストのもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。(1ペトロ2:4)
私の黙想:
神の御業は全て私たちには驚くべきことであるが、特に、家作りの専門家が不要のものとした石が建築物の最も重要な「要石」となった、ということには特別な驚きがある。いや、驚きはもっと深い。人間が不要のものとしたもの、価値無きものとして 棄てた、そこに存在していることが目障りだとしたもの、それを神は人間にとって最も必要とする「救いの土台」とされたのだ。
日々の聖句2013 07月14日(日)
新しい土地を耕せ。主を求める時が来た。(ホセア10:12)
時をよく用い、外部の人に対して賢くふるまいなさい。(コロサイ4:5)
私の黙想:
良い実を収穫するためには剪定、切り込みが必要である。栄養を注ぎ伸ばすべき時もあるし、思い切って切り取るべき時もある。預言者は言う。イスラエルは「のびほうだい」だ。何が伸びているのか。ここが重要だ「祭壇を増し国が豊かになるにつれて、聖なる柱を飾り立てた」(1)。神殿や祭壇が増築され豪華になっている。つまり神殿が神への信仰の象徴ではなく権力者の権威づけの道具になっている。まず最初にカットされるべきもの、それは権力者の権威である。人間の栄光がカットされたとき、神の栄光が現れる。3節の言葉は注目すべきである。「我々には王がいなくなった。主を畏れ敬わなかったからだ。だが王がいたとしても、何になろうか」 。完全に洗脳されている人々の言葉である。「原発がなくなったらどうしよう」。権力者は国民の不安を煽る。馬鹿らしい。
国民の間から不要なものが剪定された後、「新しい土地を耕せ。主を求める時が来た」という言葉が生きてくる。
日々の聖句2013 07月15日(月)
心配は人をうなだれさせる。しかし親切な言葉は人を喜ばせる。(箴言12:25)
あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合いなさい。(コロサイ3:12-13)
私の黙想:
「弱り目に祟り目」という諺がある。「泣きっ面に蜂」、あるいは「踏んだり蹴ったり」ともいう。悪いことあると、あるいは心配事のために弱っていると、さらに心配事が重なる。それを断ち切る力は励ましの言葉ではなく、親切な言葉、あるいは優しい言葉である。弱っている人には一言の親切な言葉が立ち上がる力となる。しかし多くの人は人の弱みにつけ込む。少なくとも教会はそういう社会であってはならない。
日々の聖句2013 07月16日(火)
悪に報いたい、と言ってはならない。主に望みをおけ、主があなたを救ってくださる。(箴言20:22)
だれも、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。お互いの間でも、すべての人に対しても、いつも善を行うよう努めなさい。(1テサロニケ5:15)
私の黙想:
報復の否定。これは非常に難しい。報復はほとんどの場合、「正義」を旗標とする。無関係な者まで心の中で「報復」を承認している。ここに「報復」の恐ろしさがある。そのために、最初の「悪」の確認が疎かになってしまう。それは本当に「悪」だったのか。多くの場合、最初の「悪」の確認は不可能に近い。それは個人間でも、国際間でも同じことである。報復は報復を生み、報復の連鎖が始まる。それをとどめる能力は人間にはない。第3者による「裁判」もほとんど無意味である。だから聖書は報復の論理を根本的に否定する。しかし赦せとは言わない。「主に望みをおけ」という。
日々の聖句2013 07月17日(水)
わたしは多くの戒めを書き与えた。しかし、彼らはそれを無縁のものと見なした。(ホセア8:12)
律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。(ロマ2:13)
私の黙想:
ここでのイスラエルとは全イスラエルではなく分裂後の「北のイスラエル」で、アッシリアによる滅亡前の状況を描いている。彼らは口では「わが神よ我々はあなたに従っています」(2節)と 唱えるが、実態は偶像礼拝に走っている。8節の「イスラエルは食い尽くされる。今や、彼らは諸国民の間にあってだれにも喜ばれない器のようだ」という預言者の言葉は厳しい。神の民が神の民としての姿勢を失ったら「不要な器」になってします。預言者の言葉はさらに厳しい。「彼らはエジプトに帰らねばならない」。これは大国の奴隷になるという意味である。弱小国には弱小国としての矜持がある。その矜持を守ることによって諸外国から尊敬される。「何とかの傘」などと言って大国に依存するとき、諸国から「不要の器」と見なされ、自らエジプトへの道を進むことになる。
日々の聖句2013 07月18日(木)
神の道は完全。(詩18:31)
だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。(マタイ6:34)
私の黙想:
主なる神は、弱り果て小さくされたダビデ一人のために、天の全軍、宇宙万物を動員して、救出された。イエスがローマの兵隊によって逮捕されたときの情景を思い起こす。弟子の一人が剣を抜いてローマの兵隊に抵抗した時、イエスは言われた。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう」。神が歴史に直接介入するということは、こういうことが起こるという信仰である。しかし神は敢えてここまで介入されない。なぜなら、イエスがローマ兵の手にかかって殺されるということも「神の計画」(聖書の言葉)だからである。
聖書のテキストに沿っての私の黙想は、そこまで。
日々の聖句2013 07月19日(金)
主はヨナに言われた。「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。ならば、どうして私が、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。」(ヨナ4:10-11)
イエスの言葉:私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。(ルカ5:32)
私の黙想:
人間は悔い改めることが出来る。悔い改めて、それまでの人生の方向転換をする。ヨナ書の重要なポイントは、そのとき神も悔い改めるということである。人間の悔い改めに従って、神も人間の歴史に対して予定変更する。そしてもう一つ、神にも「惜しい」と思う心がある。だから、人間の歴史において「絶望」はない。「彼は望むべくもあらぬ時になほ望みて信じたり」(ロマ4:18)。
日々の聖句2013 07月20日(土)
家を建てる者の退けた石が、隅の親石となった。これは主の御業わたしたちの目には驚くべきこと。(詩118:22-23)
キリストのもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。(1ペトロ2:4)
私の黙想:
神の御業は全て私たちには驚くべきことであるが、特に、家作りの専門家が不要のものとした石が建築物の最も重要な「要石」となった、ということには特別な驚きがある。いや、驚きはもっと深い。人間が不要のものとしたもの、価値無きものとして 棄てた、そこに存在していることが目障りだとしたもの、それを神は人間にとって最も必要とする「救いの土台」とされたのだ。