ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2016/11/20~11/26

2016-11-27 06:45:32 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2016/11/20~11/26

016 日々の聖句 11月20日(日)
あなたの仰せによりすがらせ、命を得させてください。わたしの望みを裏切らないでください。(詩119:116)

どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。(1テサロニケ5:23)

私の黙想:
「寄り縋る」、珍しい言葉だ。何か生々しい男女関係を現在の女性には見られない古いタイプの女性のイメージだ。「見離されたら、もう生きていけない。私を裏切らないでください」と続くと、「金色夜叉」を思い起こす。口語訳もこんなんだったのかと思い開いてみると、「あなたの約束にしたがって、わたしをささえて、ながらえさせ、わが望みについて恥じることのないようにしてください」で、ここには「寄り縋る」なんていう言葉は出ていなし、男女の分かれの際の「裁判沙汰」などを想定してしまう。相手の不祥事によって分かれなければならなくなって、それが「私の恥となる」。面白ついでにフランシスコ会訳をみると、口語訳とほとんど同じだ。さすがに新改訳は行儀正しく訳している。ほぼ口語訳と同じだ。文語訳ではいきなり「聖言(みことば)」が出てきたわたしのような不謹慎な読み方にスキを与えない。岩波訳も古語訳とほぼ同じ。要するに、何時もと同じパターンで新共同訳だけがユニークなのだ。どんな人が、こういう訳をしているのか、顔が見たい。案外、私と似ているのかも知れない。
案外これで私は生真面目なのだ。何故なら、文語訳が一番ピンと来る。「聖言にしたがいて我を支えて存えしめ給え、わが望みに尽きて恥なからしめ給え」。幼少の頃から、聖書の言葉一筋に生きてきた私、人生の最期に恥にならないようにしてください。これが今の私の祈りだ。

016 日々の聖句 11月21日(月)
主の御業は大きく、それを愛する人は皆、それを尋ね求める。(詩111:2)

野原の花がどのように育つかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。(ルカ12:27)

私の黙想:
ややこしい手続きを省略して、今日の聖句を口語訳と並べて見ると面白い。「主のみわざは偉大である。すべてそのみわざを喜ぶ者によって尋ね窮められる」。力点がかなり違う。口語訳の方では明らかに、「尋ね窮められる」の方に、重点がかかっており、新共同訳の方は「それを愛する人」にポイントがある。問題点を極論したら、口語訳の方はアカデミックな関心が強調され、新共同訳の方は情緒的関心が述べられている。どちらも、それぞれ魅力的である。一本の野の草を見て、その不思議さから野草の研究者になる人もいれば、その草の美しさに感動して詩を書く人もいる。私自身はどちらでもないが、どちらの人にも魅力を感じる。
一つの聖句についても同じである。それに感動して信仰に入る人もおれば、その言葉の思想的背景に興味をいだいて分析し疑問を感じる人もいる。同じように、十字架上のイエスを見て「あなたはきりすとではないか、。それなら自分を救い、またわれわれを救ってみよ」という人もおれば、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」という人もいる。
さぁ、私はどっちの人間だろう。

016 日々の聖句 11月22日(火)
山々はエルサレムを囲み、主は御自分の民を囲んでいてくださる。今も、そしてとこしえに。(詩125:2)

預言者ヨハネの言葉:そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。(黙示録21:3)

私の黙想:
エルサレムはもともと山岳地帯でダビデの砦があった場所。ダビデが即位してすぐにここに宮殿を建て、神殿も建てようとしたが、ヤハウェから差し止められた場所である。難攻不落かどうかは戦争技術の発展如何によるのであろうが、少なくともダビデとソロモンくらいまでは難攻不落であったのであろう。それで北のイスラエル王国がアッシリアから滅ぼされても、南のユダは守られたのだろうと思うわれるが、当時の人びとは「エルサレム(神殿)」があるから、ヤハウェは守ったという信仰が成立した。
詩125は美しい詩ではあるが、善人は守り、悪人は追放してくださいという祈りで、非常に排他的な詩でもある。

016 日々の聖句 11月23日(水)
ノアは、すべて神が命じられたとおりに果たした。(創世記6:22)

信仰によって、ノアはまだ見ていない事柄について神のお告げを受けたとき、恐れかしこみながら、自分の家族を救うために箱舟を造りました。(ヘブル11:7)

私の黙想:
ノアの信仰は、今で言うと、占類に属す。しかも、そこでの託宣は、世界の滅亡。よくもまぁ、信じたものだと思う。私たちなこの話を子供に話聞かせるとき、ノアが家族以外の人びとに、一生懸命「世界の滅亡を語り、箱船製造に協力して、一緒に救われよう、と「伝道」したということを強調する。それを強調しなければ、この話はまとまらない。しかし、そんなことは聖書に書いていない。書いていないのに、人びとはそれを信じている。今日の新約、ヘブル書では「自分の家族を救うために」ということが強調されているが、同胞の救いには触れられていない。
ノアという人の人となりについて、聖書では「神に従う無垢の人」(新共同訳)と書いている。ところが口語訳ではこの部分「正しく、かつ全き人」、フランシスコ会訳では「正しく、かつ非の打ち所のない人」、新改訳は「全き人」、文語訳では「完全き者」である。そう言えばキリスト教用語で「全き人」という言い方があったなぁ、と思う。「完全な人」と「無垢の人」とはかなり違う。前者では人生の甘い辛いも皆知った上で完全な成人」と思うが「無垢の人」は、未だ罪を知らない未熟な人(赤子のような)をイメージする。さて、どちらであろう。ノアは純粋無垢な人なのか、聖人のような人なのか。そこに「ノアが伝道したのかどうか」がかかっている。やはりノアには「伝道」してもらわなければならない。
それで思い出すのが、ペトロの手紙1だ。「こうして、彼は獄に捕われている霊どものところに下って行き、宣べ伝えることをされた。これらの霊というのは、むかしノアの箱舟が造られていた間、神が寛容をもって待っておられたのに従わなかった者どものことである。その箱舟に乗り込み、水を経て救われたのは、わずかに八名だけであった」(1ペトロ3:19~20)。ノアは一生懸命伝道したのだが、その伝道は報われなかった。ノアの伝道では誰も救われなかった。それで復活したキリストはノアの伝道の業を完成させるために「陰府に下り」、そこで伝道されたのである。なんと、有難いことか。たとえ私たちの伝道の聖歌は上がらなくても、終わりの日にはキリストが自ら彼らに伝道してくださる。なんと有難いことか。(こんな話、誰も聞いたことがないでしょう。これは私の半分創作です。信じないように)

016 日々の聖句 11月24日(木)
わたしは知っている、わたしを贖う方は生きておられ(ついには塵の上に立たれるであろ)う。(ヨブ19:25)

パウロの手紙:「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。(1テモテ1:15)

私の黙想:
今日のヨブ記の言葉、ヨブ記の中で最も重要な言葉(私の主観)である。ここにヨブ記における「永遠観」が凝縮されている。ローズンゲンでは括弧内は省かれているが、ここがこの言葉の最重要ポイントである。その前の部分は、どうでもいい一般的な救済観(要するに、神は私の救済者である)であるが、その方が私の死後、必ず「塵の上に立つ」という信仰が重要である。この「塵の上に」を口語訳ではストレートに「地の上に」、フランシスコ会訳では「大地の上に」、新改訳は「ちりの上に」、文語訳では「地の上に」、岩波訳では「塵の上に」。要するに訳語はどうでもいい。この地上に、今、ヨブが立っているこの地上の上に、この地上とは私の身体と同じ「塵に過ぎない」が、この上に、救い主が立つ。その時には、私は既に死んで塵の一部になっているに違いないが、その上に「私を贖う方が立つ」。だらか、その時、私はこの方と共に「永遠に生きる者」となる。これがヨブの信仰であった。人間は死んだらそれですべて終わる。死んだ後は何もかも無に帰してしまうという徹底的なニヒリズムにおいて、ヨブは永遠の生命への突破口を見つけ出した。これがヨブ記のメッセージである。

2016 日々の聖句 11月25日(金)
人間の心は自分の道を計画する。主が一歩一歩を備えてくださる。(箴言16:9)

あなたがたは、「主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう」と言うべきです。(ヤコブ4:15)

私の黙想:
今日の聖句、前の言葉と後の言葉の関係が重要。この関係が述べられなかったら、何も語っていないのと同じ。という訳で、口語訳を見る。「人は心に自分の道を考え計る、しかし、その歩みを導く者は主である」。やはりそうか。主旨は口語訳と同じで、「しかし」で結ばれている。新改訳も「しかし」。文語訳は「されど」。岩波訳は丁寧に、「人の心は、その道を考え出すが、その歩みを導くのは、ヤハウェである」。要するに企画委員会と実行委員会との関係のようなものである。分かりやすい話、東京との場合、高い予算を使って学者・専門家を集めて企画書を作るが、それを実行する委員会(都の官僚と業者とが、自分たちで勝手に仕様を変更して工事を行うような関係を想像する。もちろん、企画者が人間で実行者がヤハウェであるから、有難い話ではある。が・・・
岩波訳では更に丁寧に、「これは1節の思想を発展させたもの」と注釈している。1節では、「心の備えは、人にあるが、舌の答えは、ヤハウェから(来る)」。これは、なかなか、面白い注釈である。「心の備え」と「舌の答え」、これは何かを語る原稿の準備とそれを実際に話す場合の実演との関係を述べている。実は、これは私たち牧師が説教を準備し、その説教を講壇から語る場合との関係にピッタリである。あまりにも完成度の高い原稿を準備すると、礼拝という場での聖霊の出番が少なくなる。だからと言って、いい加減な原稿を書くことは牧師の良心として許されない。良く準備した上で、最後の礼拝の場では自由に聖霊が働くように謙虚に話す。ここでは一応、聖霊の働きと言っておくが現実的には会衆席の信徒たちの反応であり、説教者自身がひとりの聴衆として、語りつつ聞くという姿勢である。これが1節のことである。今日の聖句である9節では、それがすべての場での人間の計画と神の導きとの関係が述べられている。

2016 日々の聖句 11月26日(土)
その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び葉もしおれることがない。(詩1:3)

霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。(ガラテヤ5:22~23)

私の黙想:
今日の聖句、教会暦における年度切り替えの「とき」に相応しい。美しい言葉だ。1年の終わりと始まり。顧みと展望、そこを一貫する「流れ」と「ほとり」。この流れは「み言葉の流れ」であり、そこで一度立ち止まり、流れのほとりに座り、流れと「私」とを考える。ただ流れているのではない。時々、立ち止まることも、座すことも大切である。
この聖句をじっくり読むと、「とき」がカギのように思えてくる。「ときが巡り来れば」、口語訳その他では「時がくると」、文語訳では「期(とき)にいたりて」、なかなか含蓄がある。カトリックの典礼委員会訳では「季節になると」、岩波訳では「その時」について「最もふさわしい時期の意」と説明している。浅野順一先生の私訳では「季節(とき)にいたりて」、ルターの詩編講解抄では、この句について「時が来ると実を結ぶ者」と訳した上で、「これはなんという愛すべき黄金の言葉であろう!」と感嘆している。
これは「流れる時間(クロノス)」ではなく、一回きりの絶好のチャンスを示す「カイロス」である。み言葉という川の畔に植えられている木は、絶好のチャンスに実を結ぶ。この「実を結ぶとき」が重要で、これを間違えると、花も実も、実らせない。

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