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ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2015/10/18~10/24

2015-10-25 08:21:12 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2015/10/18~10/24

2015日々の聖句 10月18日(日)
主を仰ぎ見る人は光と輝き、辱めに顔を伏せることはない。(詩34:6)
希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。(ロマ15:13)
私の黙想:
今日の聖句、あまりにも立派すぎて、取り付く島もない。完璧な人格者、影のない人。付き合いたくない人。人格には欠けたところがある方が良い。口語訳を読むと、「主を仰ぎ見て、光を得よ、そうすれば、あなたがたは、恥じて顔を赤くすることはない」。これならいい。付き合う気になる。あるいは、私もそういう人になりたいと思う。完璧さは目標でいい。今は欠点だらけで、恥ばっかりかいている方が人間らしい。これは翻訳上の問題ではない。ただ、私はそう願うということである。
「キリスト者の完全」という言葉がある。聖公会の司祭、ジョン・ウエスレーに発する言葉である。しかし、ウエスレーの人生を読むとき、彼が欠点だらけの人間であったことを知り、ホッとする。でも、彼は超真面目人間ではあったらしい。彼が学生時代に創設したグループは「メソジスト」と呼ばれた。意味は真面目ということだ。それが現在のメソジスト教会の源流である。真面目のことは良いことだ。しかし、朝から晩まで、年がら年中真面目で過ごすのはかなり肩がこるだろう。どこかで息抜きをしないとこの厳しい社会を生き抜けない。
朝の時間ぐらい私の真面目に聖書の言葉を一つ紹介しておこう。「わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。 わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている」(ピリピ3:12~13)。

2015日々の聖句 10月19日(月)
主は寄留の民を守り、みなしごとやもめを励まされる。(詩146:9)
みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です。(ヤコブ1:27)
私の黙想:
寄留の民、今でいえば、難民。みなしご、やもめ、今でいえば戦争で家族の主柱を失った遺族。あるいは、何らかの事情によって家庭崩壊し、居所を失った人々。
主は彼らを「励まされる」。他の訳はほとんど「支える」となっているのに、なぜ「励ます」に変えたのだろうか。それは、まぁ、いい。
今日の聖句のポイントは、それに続く後半の句との関係である。前半と後半を結ぶ接続詞は単純な「ヴ」である。ほとんどの邦訳は「しかし」と訳している。確かにこれらは対比されている。フランシスコ会訳、岩波訳では接続詞を省き、直結している。つまり後半は後半というよりも「支える」ということの具体的な方策が述べられていると見るべきであろう。何故、彼らが寄留の民となったのか、何故、彼らはみなしごなのか、何故、彼女らはやもめなのか。彼らをそのような境遇に押し込んだ悪い連中の「企て」を、覆させる。原語の意味は「(強制的に)曲げる」。主は彼らの政策を転覆させる。

2015日々の聖句 10月20日(火)
聖なる方は主のみ。あなたと並ぶ者はだれもいない。(1サムエル2:2)
永遠の王、不滅で目に見えない唯一の神に、誉れと栄光が世々限りなくありますように、アーメン。(1テモテ1:17)
私の黙想:
神をほめ讃える言葉がどれ程大袈裟でも、大袈裟すぎるということはあり得ない。だから逆に神をほめ讃える言葉は難しい。今日の聖句にしてもそうである。だから、どういう局面で、神のどういう側面を、どう表現するのか、ということが問われる。
今日の言葉は、サムエルの母ハンナが、神との約束の上与えられた息子を自分の手から離し、神に捧げたときの祈りである。その時の母親の不安と信頼、約束を果たしたという気持ちと後は神の責任ですよという非常に複雑な心境が表現されている。その祈りが何故、神の聖性を讃える言葉となるのだろうか。この場合の神の聖性とは何か。結局、ハンナは聖なる神に対面している。私が息子を献げる神は、世の中一般に見られるような邪神ではない。それが神の聖性を讃える言葉となっている。

2015日々の聖句 10月21日(水)
ヨセフは捕らえられ監獄にいた。しかし、主がヨセフと共におられた。(創世記39:20~21)
自分も一緒に捕らわれているつもりで、牢に捕らわれている人たちを思いやりなさい。(ヘブル13:3)
私の黙想:
創世記37章以下のヨセフ物語のカギとなる言葉が「主がヨセフと共に居られた」(39:2,3であるが、考えて見るとアブラハムもイサクもヤコブも、すべての族長たちの人生をリードするカギの言葉が「主が共に居られた」である。とすると、これがアブラハム族の「遺産」だということが出来る。いわゆる「家督の権」だ。新共同訳では「長子の権」(創世記25:31)。ヤコブには12人の息子がいたがヤコブ家の「家督の権」を受け継いだのは末子の一つ上の、11番目の息子だったという。いわゆるブービー賞だ。創世記では特にそういう言い方をしていないが、そうに違いない。これは実は私の長年の疑問であった。アブラハム族の「家督の権」とは何か。その内容がハッキリしていなかった。が、これでハッキリした。
言い方を変えると、インマヌエル信仰(神共にいますという信仰)である。イエスが生まれたとき、主の天使が父ヨセフに告げたイエスの名前は「インマヌエル」(マタイ1:23)であった。つまりイエスはアブラハムの信仰の正統な後継者であることを意味しているのである。

2015日々の聖句 10月22日(木)
見よ、国々は革袋からこぼれる一滴のしずく、天秤の上の塵と見なされる。(イザヤ40:15)
わたしはまた、別の天使が空高く飛ぶのを見た。この天使は、地上に住む人々、あらゆる国民、種族、言葉の違う民、民族に告げ知らせるために、永遠の福音を携えて来た。(黙示録14:6)
私の黙想:
神の目から見たら、世界はどう見えるのか。世界戦争だとか、国境問題だとかいうが、そんな争いは、コップの中の争いとも言えない、コップの外の滴のようなものだ。何という大きなスケールだろうか。これが第2イザヤの基本的世界観である。
で、今朝は極度に細かいことを取り上げる。ここに「革袋」が出てくる。山羊や仔牛の丸はぎした皮の、四肢の部分を縛り、首の部分を口にした袋状のもので、飲料水や牛乳、ワイン等を運搬するときに使う入れ物。時にはその中に入れていたミルクが発酵し、チーズになったりする。新共同訳以外の邦訳では、これを「手桶」「おけ」等と訳している。革袋と手桶、どうしたら同じものに見えるのだろうか。もっと細かいことを言おうか。天秤の上の塵、何故「天秤」なのか。天秤なら右と左の皿の上のものを比較してその重さを量る道具である。その場合、右も左も塵の積もり具合は同じだから、結果の差は無視できる。しかし「秤」は必ずしも「天秤」に限定する訳には行かないであろう。また、塵と埃とは違う。埃は無視できるが、塵は無視できない。まぁ、何と私は細かいことを考えているのであろう。天の天から、この世界を見ている神のスケールの大きさを強調している聖句の中の細かいことに目をつけて、私はアホやな。

2015日々の聖句 10月23日(金)
主の企てはとこしえに立つ。(詩33:11)
天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。(マタイ24:35)
私の黙想:
最近のローズンゲンの編集者は代わったのだろうか。聖句に対する絞り込みが鋭いように思う。今日の聖句などその典型だ。ワンポイント。その意味で、読者である私と編集者とが一対一で向かい合っているように感じる。
「主の企て」、この企てはまだ動いている。形成途中である。天地創造の前にすべてが決定され、その設計図(=摂理、経綸)に従って世界の歴史は動いているのではない。むしろ、主は「歴史」の動きを見ながら、御自分の「企て」を形作っている。従って、ここでの「立つ」は「不動の立つ」ではなく、「動的立つ」である。文法的な意味ではなく、歴史的に「永遠に向かって動いている」という意味での未完了である。
その意味で、「主の企て」は10節の「諸国民の企て」に対応(対決)している。ヘーゲルはこの動的歴史を哲学的な表現で「弁証法」という言葉で表現したのだろうか。ともかく人間の歴史は固定していない。ダイナミックに変化・展開しつつ、主の企ては、最終的には「立つ」、つまり勝利する。

2015日々の聖句 10月24日(土)
あなたたちは、あなたたちの神、主に従い、これを畏れ、その戒めを守り、御声を聞き、これに仕え、これにつき従わねばならない。(申命記13:5)
わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。(ヨハネ15:14)
私の黙想:
ローズンゲンを朝食後に読むという経験は、殆ど初めてである。かなり受け止め方が違う。どうしても「理屈っぽく」なる。「主に従い」以下の5項目はすべて「主に従い」を大項目とする細目、「主に従う」と言うことに含まれる具体的態度、行動であろう。従って最後の「つき従い」は「主に従い」の重複ではなく、それの細目であろう。だとすると、ここでの「畏れ」とは恐怖による服従ではない。主の偉大さに圧倒された姿勢であり、「戒めを守る」というのも信頼関係の表現であり、「御声を聞き」は最高の愛情の姿勢であり、「仕え」に至っては相手の喜ばせよう自発的な工夫、「つき従う」とは決して離れないという生活態度であろう。

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