備前の古社を訪ねる(備前国内神名帳の研究)

備前の由緒ある神社を巡礼する

コラム11.神社と寺院

2008-06-23 23:01:57 | Weblog
現存する神社には住所があり、それを目指して行く訳であるが、ナビゲーション・システムに登録されているものは殆どない。近隣の住所までいけば大体わかるとはいうものの、「人里離れた」という言葉がぴったりくるような場所も少なくなく、迷いながら2回、3回と訪ねることになる。
神社と寺院の違いは、神社はたいてい無住で、寺院には「住職」が居る、ということだろう。もちろん、寺院にも栄枯盛衰・廃絶もあるとはいうものの、神社の場合は火災で縁起文書などが焼失、という例が極めて多い。これは無住であることも一因ではないだろうか。
かつては神仏混交で、多くは寺院が別当として神社の管理も行っていた。それを、明治以来、神仏分離となり、却って(今となっては)神社も衰退した例も多いのではないか。研究書も、神社は神社、寺院は寺院、で分かれており、全体像がつかめない気がする。
さて、備前48ヶ寺との関係に触れようと思ったのだが、ついつい長くなったので、また別の機会に。

110.多自枯布勢神社

2008-06-23 22:03:14 | Weblog
多自枯布勢神社(たじこふせじんじゃ?)。
場所:不明。「建部町史地区誌・資料編」415ページ以下に記事があり、写真もあるが、小祠である。「田地子大穴に鎮座」としているが、詳しい場所は記されていない。神名帳総社本には、「多自枯鴨神社の末社となり、竜王(神社)という」というような脚注がある(写真上)。
ところで、多自枯鴨神社の更に先(西)に進むと、約2.5kmで急に道路が狭くなり、上り坂になるところに着く。このあたりが字「大穴」である。そこに自動車を停めて登り始めるとすぐ、右手の傍らに平らな石を並べた「モニュメント」?がある(写真下)。字が消えかけた木碑があり、「大穴牟遅命この地にましまし・・・」というようなことが記されている。あるいは、ここに祠があったのかもしれない。
もともと「建部」というのは日本武尊(倭健命)の名代(なしろ)の地という伝説がある。しかし、田地子は山深いところで、怪物妖魅が跋扈して民を苦しめていたとき、大穴牟遅神が現れて怪物等を退治し、また、水を与えたところから、この地(字大穴)に祀ったという。
ちなみに、その道路の先には牧場があり、吉備中央町案田(「化氣神社」がある。)方面への近道「吉備高原北部広域農道(奥吉備街道)」に出られるが、その途中の道はとても狭く、未舗装のところもあるので、好んで通るような道ではない。

写真上::「多自枯鴨神社」境内の竜神社


写真下:路傍に石を祀った場所がある。