備前の古社を訪ねる(備前国内神名帳の研究)

備前の由緒ある神社を巡礼する

84.布勢神社(岡山市)

2008-06-15 23:13:06 | Weblog
布勢神社(ふせじんじゃ)。
場所:岡山市東区大多羅町541。徒歩だと、JR赤穂線「大多羅」駅から、真北に急な階段参道を登っていく。ただし、大多羅駅前には駐車場がないので、自動車の場合は、旭東中学校の北側から山上へ上る道路から境内横の駐車場に行く。
当社が鎮座する芥子山は、姿の美しい山で、西大寺観音院の会陽(裸祭り)の「宝木(しんぎ)」の原木は芥子山中腹の広谷山如法寺無量寿院に取りに行く。山頂には磐座もあり、往古から神聖な山だったのだろう。

岡山県神社庁のHP:http://www.okayama-jinjacho.or.jp/cgi-bin/jsearch.cgi?mode=detail&jcode=13023

Web魁さんのHP:http://websakigake.sakura.ne.jp/07-073.html

コラム7.柿本神社・梨本神社

2008-06-15 22:34:45 | Weblog
現在では、ともに大神神社境内の小祠になっているが、かつては大神神社の300mほど南の「馬場道」(鳥居道)の左右、西に梨本神社、東に柿本神社が鎮座していたという。土地の小字に、梨本(「四御神第8遊園地」あたり)と柿本(「竜ノ口コミュニティハウス」あたり)があるという。
神名帳西大寺本では「大神神社」の名はなく、「土師宮柿本明神」「梨子本明神」と記載されている。神名帳に式内社は必ず含まれているはず、という考えからすれば(コラム6を参照)、「土師宮」は柿本神社ではなく、大神神社のことであり、大神神社と柿本神社を1セットと考えるしかない。しかし、上記のように、むしろ1セットなのは柿本・梨本神社であり、あえて梨本神社を1社としてカウントするのはどうなのか。
上道郡坐13社(冒頭9社のうち八幡雄島宮と深田神社を除く)としているので、大神神社・柿本神社・梨本神社を3つに分けるとすれば1社多くなり、3社を1つと考えれば1社足りなくなる。数を合わせるなら、大神神社を1社、柿本神社と梨本神社を1セットで1社と数えるのが妥当と思われるが、それも不自然だ。
よって、私見としては、3社を1社として考え、あるいは柿本神社・梨本神社はカウントしないというのが正しいと思われる。

写真上:柿本神社(祭神は事代主命)


写真下:梨本神社(祭神は味須岐高毘古禰神)

83.大神神社四座

2008-06-15 21:42:45 | Weblog
大神神社(おおがじんじゃ)。
場所:岡山市中区四御神381。周辺の道路は狭かったり、行き止まりがあったりなどして、自動車での道案内が案外難しい。わかりやすいと思うのは、県道81号線(東岡山御津線)を「岡山東養護学校」のところで西に曲がる。800mほど進んで、左側(南)にある頭高山を過ぎたあたりで右折(北へ)。駐車場はなく、当社の前の道は狭いので、駐車できない。手前の鳥居と備前焼の狛犬がある、やや広めの道路に駐車。
旧上道郡唯一の式内社。四座となっていることも含め、大和国大神神社(奈良県桜井市)との深い関係を窺わせる。当社の背後の山中に備前最古クラスの前方後方墳「備前車塚古墳」がある。この古墳は、(前方後円墳であるが)箸中山古墳(箸墓古墳。これも所在地は奈良県桜井市)との相似が指摘されており、三角縁神獣鏡が11面も出土したことで有名である。一方、倭迹迹日百襲姫命(あるいは卑弥呼)の墓ではないかとされる箸中山古墳からは、岡山市付近から運ばれたと推測される吉備型の特殊器台型埴輪等が出土している。かつて当社は「土師宮」と称され、周囲には土器製作工房が立ち並んでいたといわれるので、あるいはここから運ばれたのかもしれない。

岡山県神社庁のHP:http://www.okayama-jinjacho.or.jp/cgi-bin/jsearch.cgi?mode=detail&jcode=01081

Web魁さんのHP:http://websakigake.sakura.ne.jp/06-025.html

コラム6.式内社と国内神名帳Ⅱ

2008-06-15 12:16:25 | Weblog
吉備武彦様よりコメントをいただきました。ありがとうございます。
小生が「国内神名帳には式内社がすべて含まれているはず」とした部分についての反論と思います。延喜式と国内神名帳の成立時期に大きな差がある(可能性が)あるので、同様には考えられないだろうと。
コメントには明確には書かれていませんが、国内神名帳の成立年代が延喜式よりも相当以上下るとすると、その間に、式内社といえども、衰退、極端に言えば消滅すらあり得たのではないか・・・。
この問題は、旧赤坂郡の鴨布勢神社よりもむしろ、旧児島郡の式内社2社についてがいっそう重要な問題です(国内神名帳に詳しい方なら、すぐ了解していただけると思います。)。
正直、小生もかなり迷ってはいたのですが、当面、見解は変えないことにします。理由は、次の通りです。国司の公式行事としての巡拝の便宜のために「総社宮」が成立したとすると、その合祀された神社名のリストは公式帳簿として国衙に備え付けられた。それが本来の国内神名帳であって、修正会用(言わば、本来のものの転用)の西大寺本などよりは、総社本などのほうが旧来の様式を伝えているようだ。総社本の特徴として、特別9社を冒頭に記載する形式でないこと、神階の記載がないこと、ということが重要なのではなく、神祇官の在/不在が記載されていることが重要なのではないか。在神祇官の神社とは即ち「官社」(式内社)ということであり、仮に国内神名帳成立時に衰退していた式内社があったとしても、少なくとも神社名だけは名簿に載せるのではないか(それが役所らしい仕事ではないか)と思うからです。
江戸時代になると、式内社も、実際には消滅してしまっていた神社も多い。それでも復興されたというのは、式内社ならでは、ということもあります。研究も、式内社中心なので、式外社の研究ももっと盛んになるとよいと思います。