備前の古社を訪ねる(備前国内神名帳の研究)

備前の由緒ある神社を巡礼する

コラム183.川子岩

2009-05-31 23:11:27 | Weblog
川子岩(ごうごいわ)。
場所:倉敷市藤戸町天城。県道74号線(倉敷飽浦線:茶屋町街道)と六間川が交差する場所にホームセンター「ジュンテンドー茶屋町店」がある。そこから川沿いに南下、「瀬戸中央自動車道」にぶつかる辺り(倉敷東第2ポンプ場がある。)で六間川が東に向きを変える。そこから川沿いに(舗装道路は家並みを抜けるが、堤防を進む。)約300m。新しい水門の前の川の中にある。
いくら磐座好きでも、この岩をも磐座というのは行き過ぎだろうが、前項で佐々木盛綱に触れたので、ついでに。
現在では「児島」は一部が倉敷市に属しているが、かつては「吉備の中山」の南は海で、倉敷市藤戸町の辺りは備前国児島の北西端、小島や岩が波間に見え隠れする場所であったらしい。「藤戸」の「戸」は「渡」であって、海峡の狭い場所を意味し、潮流の流れる様が、藤の花が風に揺れるように見えたので、「藤戸」になったという。現在の倉敷市中心部や早島町から南側は干拓されて地続きになったが、六間川が備前国と備中国の境界でもあった。
「ゴーゴ」というのは河童のことで、県北では「ゴンゴ」とも言うらしい。この川子岩に河童が多く棲みついていたとの伝承があるので、その名がついたという。単に岩の名前だけでなく、今も近くに「川子岩公民館」もあり、この地区の地名にもなっているようだ。ただし、河童といい、川子というが、この岩はかつては海にあり、「漁師を困らせた」いうのだから、この河童は海にいたことになる。いずれにせよ、河童という有名妖怪が現れた、一種の「磐座」と言ってもよいのではないだろうか。


「杉原姓とラーメン」さんのHPから(カッパ伝説・ゴーゴ岩):http://www1.harenet.ne.jp/~sugi/obie/gogo.htm

高橋春雄さんの「謡蹟めぐり」HPから(藤戸):http://www.harusan1925.net/0617.html
出典不明ですが、「藤戸源平合戦古戦場図」が掲載されています。


写真上:「倉水門」。石積みがなかなか良い味わい。「川子岩」に行く途中にある。


写真中:「川子岩」。右(南)岸から正面。


写真下:「川子岩」。横から見ると、細長い。手前の白い小さな岩で2匹の亀が甲羅干しをしていたのだが、近づいたら警戒して逸早く逃げてしまった。結構大きな鯉もいるようだ。

コラム182.備前国の磐座拾遺(その11・馬の足形岩)

2009-05-26 21:58:38 | Weblog
馬の足形岩(うまのあしがたいわ)。
場所:岡山市中区赤坂南新町。山陽学園大学の北、「東山墓地」といわれる墓地公園のなか、「トヨタ石材」・「法要庵」という会社の向かって右(西側)から墓地の小道を進む(徒歩1~2分)。岩の傍らに説明板あり。岡山市営墓地駐車場を利用。
この岩(写真)は、備前国児島の藤戸合戦で名を上げた佐々木盛綱(1151~1216年)が騎乗して駆け上り、藤戸海峡を眺めたという伝説があり、その馬の足形が岩の窪みとして残っているというのである。幾ら勢いがあっても、まさか馬の足形が付く訳はないが、古くからその存在が知られていた岩なのだろう。
もともと、この地は操山山系の南西端にあり、海に面していた。「網干の浜」が「網浜」となり、「馬の足形岩」のすぐ横にある古墳は「網浜茶臼山古墳」(操山108号墳)と名づけられている。この古墳が重要なのは、近くの操山109号墳(平井)とともに、数多い操山の古墳群の中でも最古クラスであり、「箸墓古墳」との相似や出土品(特殊器台型埴輪等)のためであり、位置的に、この地の海人族の首長の墓だろうと思われていることにある。ここに古社がないのは、ひょっとすると、古過ぎて神名帳以前の聖地だったからなのではなかろうか。
さて、佐々木盛綱のほかの伝説をいくつか。①岡山市北区七日市西町にある旧県社「春日神社」に戦功を祈願して白羽の矢を奉納した、②同様に、古社「豊原北島神社」には甲冑(「色々威甲冑」。国重文)・武具を奉納した、③源氏方勝利の後、佐々木盛綱は児島を領することになったが、児島湾に浮かぶ「高島」に春日明神を祀り、灯明台を設けた(このため「高島」は「灯明島」とも呼ばれた、等々。


写真上:「馬の足形岩」正面。思ったよりは小さな岩だった。


写真中:上面。丸い窪みがある。


写真下:岩の後ろにある小高いところが「網浜茶臼山古墳」。「馬の足形岩」は、前方後円墳の方形部分の南側にある。

コラム181.備前国の磐座拾遺(その10・御瀧山花広場)

2009-05-25 20:27:39 | Weblog
御瀧山花広場(おたきやま はなひろば)。
場所:岡山市中区福泊。県道28号線(岡山牛窓線)沿いのガソリンスタンド「JOMO福泊SS」の左隣(西)に石灯篭があり、そこに(文字が消えかけているが)案内板がある。その奥から登り、徒歩で数分。駐車場なし。古社「石高神社」の東約600m、「曹源寺」の東約400mにある。
地図では「御瀧堂」と記されていることが多く、ブロック造の小堂の中になかなか立派な薬師如来像が安置されている。その横の巨岩に石仏が祀られており、この辺りから清水が湧き出していたらしい。この清水が「御瀧」といわれるものだろう。その上方にも大きな岩が露出しており、南側を見下ろすようになっている。地名でわかるように、かつて南側はすぐ海であり、ここには港があったのだろう。
これが古代からの磐座であったかは不明だが、聖山・操山にある、あまり知られていない「聖地」の1つだろう。なお、ここからも操山に登れ、真っ直ぐ北へ進むと、操山山系・笠井山頂上(磐座がある。2008年10月17日記事参照)に至る。


富山学区連合町内会のHPから(お瀧山 花広場):http://townweb.e-okayamacity.jp/tomiyama-r/landscape/landscape11/landscape11.html


写真上:巨岩に穴を穿ち、石仏が置かれている。


写真中:写真上の岩の辺りから清水が湧き出していたようで、岩の下に今も水取り場がある。


写真下:上の方も大きな岩が露出しており、かつては、ここから海が目前に見えただろう。

コラム180.備前国の磐座拾遺(その9・阿弥陀様)

2009-05-24 22:32:39 | Weblog
阿弥陀様(あみださま)。
場所:岡山市北区建部町建部上。「七社八幡宮」境内右手(電波塔の方)から、山道を徒歩5~10分。
前項で記した「七社八幡宮」から北の方の尾根に向かうと、旭川に突き出したところに、通称「阿弥陀様」(写真中・下)がある。側面に磨崖仏立像が彫られた高さ2.6m、幅1.8m、周囲7.2mの花崗岩で、いつ頃彫られたかは不明だが、様式的には鎌倉時代頃かといわれる。山道の途中に「妙見堂」(写真上)や湧き水もあり、その先、ちょうど「八幡橋」の辺りから旭川~福渡方面の眺望のよい場所に四角い岩が祀られている。「妙見堂」は松田氏以来の日蓮宗由来だろうが、北方の守護神であり、戦国時代以降は「阿弥陀様」・「妙見堂」ともに見張台の役目をしていたのだろう。「阿弥陀様」が古代祭祀と関連のある磐座なのかはわからないが、その在る場所(神社の上にあることも含めて)・岩の形などから、如何にも、と思われる。
なお、「七社八幡宮」は「法寿山」(212m)の東麓にあるが、そこから南側に少し歩くと題目石が並んでいるところがあり、その上の雑木林の中に「願成寺跡」がある。今は石造五輪塔(室町時代後期以降)などがあるだけで、寺院跡のイメージは湧きにくい(願成寺は字地名で、そういう名の寺院があったか不明。)が、平安時代後期の瓦が出土しているらしい。古代山陽道のシリーズで少し触れたが、この時代の瓦は寺院か官衙にしか使われていなかったとされているので、当時の郷の氏寺であった可能性がある。また、「法寿山」の東~東南斜面には32基もの古墳があることも知られている(法寿山古墳群)。こうしたことから、この地も早くから開け、「法寿山」も聖なる山だったかもしれない。

岡山市のHPから(建部町観光情報:石造美術):http://www.city.okayama.okayama.jp/takebe/kankou/bunka/sekizou.html


写真上:途中にある「妙見堂」内部。


写真中:「阿弥陀様」横から。


写真下:「阿弥陀様」正面。印相は「施無畏与願印」で、釈迦如来像に多いが、これを阿弥陀様とした理由は何だろう。

コラム179.備前美作国境(その2・建部上)

2009-05-23 22:11:04 | Weblog
「福渡」(岡山市北区建部町福渡)は津山往来の宿場町として栄えたが、備前国側は岡山池田藩が北を警戒し、福渡から南に約3kmのところに陣屋を置き、今もその古い町並みの一部が残る(建部町中田)。福渡の対岸(建部町建部上)はやや寂しいが、こちらにも八幡宮がある。今は「八幡橋」で渡るが、かつては舟の「八幡の渡し」(渡し場はJR津山線鉄橋付近)があった。

七社八幡宮(しちしゃはちまんぐう)。
場所:岡山市北区建部町建部上8。JR津山線「福渡」駅の西、旭川の東岸(国道53号線)と西岸(国道484号線)を渡す「八幡橋」の西詰の南約500m。駐車場あり。
「福渡八幡宮」の対岸に、「七社八幡宮」という八幡神社がある(写真上)。正面に向き合っているわけではないが、ともに旭川を見下ろす形で建てられている。「七社」というのは応神天皇のほか、建部町に縁の深い日本武尊など全部で7柱の神を祀っているかららしい。それよりも、この神社は、中世以来、郷の総社格にあり、その秋季例大祭として行われる「建部祭」(岡山県指定重要無形民俗文化財)で有名である。郷内の7社の神輿が当神社に集まり、当神社を合わせた寄宮祭を行う。因みに、この7社の中に古社「多自枯鴨神社」が含まれているが、「多自枯布勢神社」の名はない。中世まで遡るかはわからないが、かなり前から「多自枯布勢神社」は実質的に消滅していた可能性がある。
さて、当神社に行ってみると、威厳と親しみやすさのバランスが取れた、良い雰囲気である。本殿の後ろには、磐座と思われるような四角い巨岩があった(写真下)。岩の前に賽銭箱?が置かれていたので、信仰の対象になっているはずである。ところで、当神社には宝物として能の翁面(白色尉)が伝えられている。室町時代後期の様式とのことだが、伝承によれば、この面を水で洗うと雨が降るというので、雨乞い神事にも使われたという。あるいは、もともと、巨岩に雨乞いの祭祀があったのかもしれない(妄想)。
余談だが、当神社の東南、旭川河畔に「八幡温泉郷」がある。この温泉は、寛文年間(1661~1672年)に、「仏住山蓮昌寺」第23世日船聖人が発見したことを起源とすると伝えられている。


七ちょめさんの「古い町並みを歩く」HPから(建部町):http://takahira.cool.ne.jp/furuimatiB/tyuugoku1/takebe.htm

岡山県神社庁のHP:http://www.okayama-jinjacho.or.jp/cgi-bin/jsearch.cgi?mode=detail&jcode=07033


写真上:「七社八幡宮」正面。


写真中:社殿は「法寿山」の緩やかな斜面に建てられている。この奥に磐座?


写真下:社殿後ろ、やや右手に少し登ったところに磐座?がある。

コラム178.備前美作国境(その1・福渡)

2009-05-22 22:03:37 | Weblog
岡山市は、合併によって同じ市内に一宮が2つあるという稀有な市となった。当然ながら備前備中国境が市内にあるわけだが、備前美作国境も市内にある。建部町の福渡地区(旧福渡町)は、もと久米郡に属し、美作国の南端にあった。旭川の対岸(旧建部町)が備前国で、渡し舟があり、「行こか岡山、戻ろか津山、ここが思案の深渡し」と詠われた。「深渡し」が「福渡」になったわけである。
現在、備前国の中心都市・岡山市と美作国の中心都市・津山市を結ぶ国道53号線(もとの「津山往来」)は県の南北の大動脈だが、明治時代まではむしろ川の水運の方が盛んだった(それも旭川ではなく、吉井川が主)。特に、江戸時代は南北の折り合いが悪く(福渡は天領だった時期もある。)、道路はあまり整備されなかったようだ。
古代山陽道も現赤磐市の日古木峠から南下するのがメインルートで、官道ではないが、そのまま西に向かい、現岡山市北区御津金川で旭川を渡るルートも古くからあったと思われる(そのルート沿いに備前国内神名帳に載る古社が多い。)。
こちらの備前美作国境の氏神は、互いに八幡宮である。「福渡八幡宮」は白鳳6年(655年)に宇佐神宮から勧請したと伝えられる。美作分国が和銅6年(713年)だから、さすがに、これは古すぎてなかなか信じがたいが、この地区の名社であることは間違いないと思われる。

八幡神社(はちまんじんじゃ)。通称:福渡八幡宮。
場所:岡山市北区建部町福渡1103。国道53号線から「福渡病院」と老人ホーム「旭水荘」の間の道に入り(北へ)、ほぼ直進約200m。神社前の道は狭く、駐車場はない。

岡山県神社庁のHP:http://www.okayama-jinjacho.or.jp/cgi-bin/jsearch.cgi?mode=detail&jcode=27068


写真上:福渡八幡宮


写真中:潜水橋(増水すると水に浸かる)「幸福橋」。建部町産業観光物産案内所の裏側あたり。


写真下:高瀬舟(復元)。福渡の少し下流、旭川右岸(西岸)側の「建部町文化センター」(岡山市北区建部町建部上899)にある。

コラム177.一宮(その11・備後国・素盞嗚神社)

2009-05-21 21:20:27 | Weblog
素盞嗚神社(すさのおじんじゃ)。
場所:広島県福山市新市町大字戸手1-1。JR福塩線「上戸手」駅の北西、徒歩数分。駐車場あり。
社伝によれば、創建は天武天皇の治世、7世紀頃。「釈日本紀」に引用された「備後国風土記」逸文のいわゆる「蘇民将来」説話にいう「疫隈國社」(えのくまのくにのやしろ)が当社であるとされる。延喜式神名帳に「須佐能袁能神社」(すさのおのじんじゃ)と記された式内社である。論社もあるが、当神社の所在地が「江熊」(えのくま)であり、神仏混淆の中で「祇園社」・「天王社」等とも呼ばれていたこともあって、多分間違いないと思われる。祇園(精舎)、(牛頭)天王、武塔神など、仏教系の言葉が頻出するが、明治の神仏分離で「素盞嗚神社」に戻ったわけだが、「蘇民将来」説話や「茅の輪潜り」などの元祖として、全国の祇園社・牛頭天王社の総本宮を自称している「広峯神社」(兵庫県姫路市)や「八坂神社」(京都市)の元宮であるともいわれる。
それほどの由緒を持つ当神社が備後国一宮を主張されるのも、よくわかる。当神社の「祇園例大祭」は今も熱狂的に行われているようだが、その最後に約2km離れた「備後吉備津宮」から宮司らが当神社を参拝し、祝詞奏上を行う。当神社の宮司らとは言葉を交わさないので「無言の神事」とも言われているが、他の神社の宮司らが祝詞を上げに来ること自体が不思議なことである。これは、被征服側の神(まして荒ぶる神である。)の熱狂を、征服側の神が鎮めに来るのではないか、ともされる。
「一宮」は、こうした政治性を抜きには考えられないところがあって、当神社よりも後に「備後吉備津宮」が創建されたとしても、それでも「備後吉備津宮」が一宮であるということは、十分考えられることである。

ところで、備後国には式内社が17社あるが、名神大(社)は1つもない。一方、隣の安芸国では式内社は3社なのに、すべて名神大(社)である。この差は、どういうことなのだろうか。


素盞嗚神社のHP:http://www.fuchu.or.jp/~eguma/index.htm

「玄松子」さんのHP:http://www.genbu.net/data/bingo/kibitu_title.htm


写真上:「素盞嗚神社」正面


写真中:鳥居前の石碑には「式内社・備後一宮」とある。


写真下:社殿

コラム176.一宮(その10・備後国・吉備津神社)

2009-05-19 23:20:09 | Weblog
吉備津神社(きびつじんじゃ)。
場所:広島県福山市新市町宮内400。JR福塩線「新市」駅から、県道26号線(新市七曲西城線)を約2km北上。厳島神社がある神池を左折(西へ)、門前の狭い道路を通り抜けて、石鳥居を潜ると駐車場がある。
このブログで「一宮」について書いたとき、備後国には触れなかったので、補足。備後国でも、一宮は「吉備津神社」(備前・備中と紛らわしいので「備後吉備津宮」ということにする。)とされ、通称も「一宮(いっきゅう)さん」という。しかし、「備前吉備津宮」と同様、式内社ではない。このことから、境内の案内板でも、創建時期(「備中吉備津宮」からの分祀)が延喜式成立後なのではないか、という説を掲げ、境内を発掘しても12世紀以降のものしか出てこない、などと、随分自信のないことを書いている。
ところで、当神社の境内に式内社「多理比理神社」(写真下)がある。当神社は式内社ではないことにも絡めて、「多理比理神社」=「備後吉備津宮」とする説もある。ただし、「多理比理神社」は、いつの頃からか所在不明(実質的に消滅)になっていたようで、このため祭神も不明。「比理」というのは「比」であるとして、「タリ」と音が似ている部分がある息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)、即ち、神功皇后ではないか、する説が有力。息長帯比売命の弟に、息長日子王という人物がおり、吉備品遅君の祖とされるので、関連は深いようではある。
備後国は、今は広島県の一部になっているので、なんとなく吉備国の感じがしないのだが、たとえ式内社でないとしても、吉備国から分国された以上、共通して一宮は「吉備津神社」なのだろう。
ところで、「備後吉備津宮」の神様は、神無月にも出雲に行かないらしい。出雲の神様が、「備後吉備津宮」の神様が来ないのを怪しみ、偵察のために配下の神を遣わしたところ、「備後吉備津宮」では酒色を与えて籠絡してしまった。こうしたことから、今でも「備後吉備津宮」では出雲に行かないし、随神門も2つある(1つは籠絡された出雲の神)のだ、という。


「玄松子」さんのHPから(吉備津神社):http://www.genbu.net/data/bingo/kibitu_title.htm

「むかし村」さんのHPから(吉備津神社):http://mukashi.jp/mura/40jouhou/04furusato/kibitu/annai/98keidai.html


写真上:備後吉備津宮の鳥居。第一(2つある)随神門の先、向かって左側が駐車場。


写真中:社殿(本殿と拝殿が一体化している。)


写真下:境内に式内社「多理比理神社」がある。

コラム175.仏住山蓮昌寺

2009-05-18 20:32:47 | Weblog
仏住山蓮昌寺(ぶつじゅうざん れんじょうじ)。主院を「龍華樹院」(りゅうげじゅいん)といい、道路を隔てた向かい側に塔頭「覚善院」(かくぜんいん)がある(外見はビルのようだが。)。日蓮宗の寺院で、本尊は大曼荼羅(開基日像上人が「南無妙法蓮華経」と大書したもの。高さ7m×幅4m)。
場所:岡山市北区田町1-4-12。岡山市の中心市街地にあり、柳川筋(国道53号線)の岡山中央郵便局の向かい側、柳川筋の1本西側の道路に面している。この辺りは一方通行の道路が多く、自動車だと迷いやすい。駐車場あり(有料)。
前項の「笠井薬師」のついで。寺伝によれば、「蓮昌寺」は富山城主(のち金川城主)松田左近将監元喬により正慶年間(1332~1333年)に創建された(なお、松田元喬の法名から「蓮昌寺」と名づけられたという。)。当時は松田氏の支城が「石山」にあり、当寺は「岡山」にあった。その後、宇喜田直家が進出し、「岡山」に築城を始めると、「榎の馬場」(現・県立図書館付近)にあった当寺は旭川の対岸である森下に移された。更に慶長6年(1601年)、小早川秀秋が岡山城下に寺町を形成したことにより現在地に再移転した。
「備前法華」といわれる日蓮宗の巨刹で、戦前まで旧国宝の本堂・三重塔があったが、昭和20年(1945年)の空襲により焼失した。現在の本堂は昭和43年(1968年)落成の鉄筋コンクリート製であるが、その隣に大仏殿釈迦堂があり、笠井山大仏殿にあった「ビルマ仏」が安置されている(写真中)。
更に、その隣に「一丸稲荷」を祀る「一丸堂」がある(写真下)。寺伝では、当寺創建時に「水宝(または水穂)大善神」という稲荷大明神を寺の守護神として祠ったのが始まりで、明治期に「最尊一丸大明王」と改称された。一説に、鳥取城の「一の丸」にあったのでこの名があるとされるが、眷属に月丸明王・星丸明王とあるところから、「一丸」とは太陽のことであり、天の三光(太陽と月と星)を名とした稲荷神である、とする。この説明では、なぜ「稲荷神」であるのか、よくわからないのだが(因みに、「一丸堂」を守っているのは狐ではなく、狛犬である。)、稲荷神と星信仰が関係があるなら、それは(天台宗がベースであるとしても)日蓮宗の発想だろう。日蓮宗では、妙見菩薩を尊重し、妙見とは日天子・月天子・明星天子の三光天子である、と説く。そもそも「日蓮」という名は、日月蓮華から取ったという。宗教学の専門家でも何でもないので、これ以上の詮索はしないが、興味は尽きない。


蓮昌寺のHP:http://www.renjyoji.com/

s-minagaさんの「がらくた置場」HPから(備前蓮昌寺):http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/n_renzyoji.htm


写真上:蓮昌寺本堂


写真中:大仏殿釈迦堂のビルマ大仏。平成12年に笠井山大仏殿から遷座。


写真下:一丸稲荷(一丸堂)

コラム174.笠井薬師

2009-05-17 11:36:24 | Weblog
笠井山薬師院妙法寺(かさいさん やくいしん みょうほうじ)。通称:笠井薬師。天台宗の寺院で、本尊は薬師如来。
場所:岡山市北区畑鮎67。玉柏側から「金山寺」に上る途中で、「岡山市笠井山霊園」方面に進む。いくつかある霊園の区画を通り過ぎ、笠井山(340m)山頂付近にある。当寺には駐車場はないが、山頂に「笠井山展望台」があり、付近に駐車スペースがある。
備前古社巡礼のブログだったのに、だんだん寄り道が酷くなって、パワースポット巡りのようになってきているが、せっかく聖山・金山に行くなら「金山妙見宮」・「金山八幡宮」・「金山寺」・「畑石鉄神社」などに加えて、「笠井薬師」(写真上)にも寄りたい。
寺伝によれば、天平勝宝元年(749年)に報恩大師が備前48ヶ寺を創建した際、その根本道場である「金山寺」の境外庵室として建立された。弘治年間(1555~1557年)に、日蓮宗への改宗を強いた金山城主松田左近将監に焼き討ちされ、堂宇は灰燼に帰した。現在は本堂と庫裏のみが残されている。しかし、「一畑薬師」(島根県出雲市)、「立石寺(通称:山寺)」(山形県山形市)と共に日本三大薬師の1つであるとする。
本堂前の石段の脇に温泉の井戸(湯壷)とされるものがある(写真中)。現在は温泉は出ていないようだし、かつても(温泉ではなく)鉱泉だったかもしれない。いずれにしても、温泉・鉱泉と薬師如来は関係が深い。温泉・鉱泉が出た場所に薬師如来を祀ったかもしれない。
さて、当寺は他にも「金山北辰稲荷大明神」も祀っている。そして、「最上稲荷」が報恩大師の開基であることによせて、「金山寺」がその根本道場であることから、こちらが「最上稲荷」の本家である、とする。北辰とは、北極星(または北斗七星)であり、金山には「妙見宮」がある。一方、ダキニ天は「辰狐王菩薩」の異名もある。関係がないようでいて、こんなところで繋がっている。


牧石学区連合町内会のHPから(薬師院):http://townweb.e-okayamacity.jp/makiishi-r/midokoro-yakusiin.html

同(笠井山展望台):http://townweb.e-okayamacity.jp/makiishi-r/


写真上:「笠井薬師」山門


写真中:湯の井戸


写真下:笠井山山頂近くにある大仏殿(パゴダ)。「笠井薬師」とは無関係。