備前の古社を訪ねる(備前国内神名帳の研究)

備前の由緒ある神社を巡礼する

コラム270.一宮(その33・出羽国・鳥海山大物忌神社)

2015-10-25 13:06:16 | Weblog
鳥海山大物忌神社(ちょうかいさんおおものいみじんじゃ)。
場所:山形県飽海郡遊佐町大字吹浦字鳥海山1(「鳥海山」山頂)。登山ルートはいくつもあるが(鳥海国定公園観光開発協議会のHPでは9つの登山口が紹介されている。)、最も初心者向けとされるのが「象潟口(鉾立)ルート」。国道7号線から「鳥海ブルーライン」に入り、鉾立駐車場(5合目:1,150m)から登山道を約4時間半歩く。
社伝によれば、景行天皇の御世(71~130年?)に出羽国に「神」が出現し、欽明天皇25年(564年)に「鳥海山」山上に鎮座したとする。祭神は「大物忌大神」であるが、この神は「記紀」には登場しない。「大物忌」というのは清浄を保つことを意味するとし、通説では倉稲魂命(ウカノミタマ)または豊受姫命(トヨウケヒメ)と同一神とする。古くから(ヤマト政権の支配が及ぶ前から)五穀豊穣の神として信仰され、後に北辺の神として国家守護の神となったらしい。「鳥海山」(2,236m)は現在も活火山とされているが、6世紀後半から8世紀初めにかけて盛んに噴火しており、それを鎮めるために祀られたともいう。噴火は戦乱の予告とされたほか、「続日本後紀」によれば石鏃を降らせたり、海賊に襲われた遣唐使船を助けたり(その根拠が不明だが)といった神威を現したとされ、噴火のたびに神階が上がり、「本朝世紀」天慶2年(939年)条の時点で既に正二位勳三等という極めて高い神階を受けていた。
ところで、「鳥海山」という山名が何時頃から使われていたか、また、山名の由来も、よくわかっていないらしい。古代には専ら「大物忌神」と呼ばれており、鳥海山自体が信仰の対象であったことがわかる。「日本三大実録」貞観13年(871年)の条に「従三位勲五等大物忌神社在飽海郡山上。巌石壁立。人跡稀到」とあって、一般に、このときには既に鳥海山山頂に神社があったとされる。ただし、原文には句読点は無いから、「大物忌神社は飽海郡の山上に在り」ではなく、「大物忌神社は飽海郡に在り、山上は巌石が壁立し、・・・」と読むことも可能。いずれにせよ、冬には雪で道が閉ざされ、参拝などできない(現在でも10月下旬~4月下旬まで冬季閉鎖)。よって、常設の神社は山麓にあったと思う。そもそも山自体が信仰の対象なのだから、元々は山上に神社を建てる必要はなかったはずである。
「延喜式」神名帳では、出羽国9座(9社)のうち、「月山神社」と並び「名神大」社とされている。また、出羽国では最も神階の高い神社で、出羽国一宮とされることに異論はない。ただし、中世以降は神仏混淆し、特に修験が隆盛して「鳥海山大権現」と称され、「薬師如来」が本地仏とされた。近世には、山麓(登山口)での祭祀に宗派の争いなどが絡んで紛争が生じ、山頂の当神社が出羽国一宮と定められた経緯がある。現在では、「鳥海山」山頂の「御本社」と、山麓の「吹浦」・「蕨岡」の2つの社を「口之宮」として、3社一体で「鳥海山大物忌神社」となっている。


玄松子さんのHPから(鳥海山大物忌神社)


写真1:「鳥海山大物忌神社」(御本社)社号標


写真2:同上、社殿。下界は晴れていたのだが...山上は霧になってしまった。


写真3:「鳥海山大物忌神社」(吹浦口之宮)境内入口の鳥居と社号標。(場所:山形県飽海郡遊佐町大字吹浦字布倉1。JR羽越本線「吹浦」駅の北、約500m。駐車場有り。)


写真4:同上、社殿。本殿が2つ並んでいるのは、「大物忌大神」とともに「月山大神」を祀っているため。


写真5:「鳥海山大物忌神社」(蕨岡口之宮)境内入口の鳥居と社号標。神門も見えるが、元は山門だろう。それだけ神仏混淆(修験)の影響が強かったのだろうと思われる。(場所:場所:山形県飽海郡遊佐町大字上蕨岡字松ヶ岡51。国道345号線から山形県道373号線(杉沢南鳥海停車場線)に入り、道なりに約3km進み、右折。駐車場有り。)


写真6:同上、社殿



コラム269.一宮(その32・陸奥国・鹽竈神社)

2014-08-16 23:11:31 | Weblog
鹽竈神社(しおがまじんじゃ)。
場所:宮城県塩竈市一森山1-1。JR仙石線「本塩釜」駅の西、約920m(表参道の石鳥居まで)。または、JR東北本線「塩釜」駅の北、約1.1km。駐車場は宮城県道3号線、「塩竃市壱番館庁舎」西側の十字路から北に向かい、最初の信号を左折(西へ)。
社伝によれば、「鹽竈神社」は、武甕槌命と経津主神による東北地方平定の折、道案内をした塩土老翁神(シオツチノオジ)が当地に留まって村人に漁業や製塩を教えたことに始まるという。勿論、これは「神話」で、神社としての創建時期は不明。不思議なのは、「延喜式」の神名帳には当神社の名がない、即ち、式外社ということになる。ところが、「延喜式」より前の「弘仁式」(820年頃編纂開始)の主税式には「鹽竈神を祭る料壱萬束」とあり、これは「延喜式」主税式にも受け継がれている。この祭祀料は陸奥国正税の約10分の1に当たるという莫大なものである。にも拘らず、神名帳に名がないというのは大きな謎である。
神亀元年(724年)、当神社の西南約5kmのところに「多賀城」(現・宮城県多賀城市市川)が築城され、陸奥国府・鎮守府として機能した。塩釜湾が国府津であったといわれており、当神社は陸奥国府と強い関係があったと考えられる。国府が衰退した後も、奥州藤原氏、鎌倉幕府、伊達氏の強い庇護を受けたことから、「東北鎮護」・「陸奥一宮」と称されたものと思われる。ただし、「一宮」を式内社に限る、とする立場からすれば、当神社は除外されることになる(その場合、一般には式内社「都々古別神社」(現・福島県棚倉町)が「陸奥国一宮」とされる。)。備前国一宮「吉備津彦神社」(2009年3月20日記事)も式内社ではないが、一宮であることは殆ど疑いがない。そうすると、単に「延喜式」に記載漏れがあったのかもしれず、実態をみれば、当神社が「陸奥国一宮」にふさわしいとも言えるだろう。


「陸奥国一宮 鹽竈神社」のHP


写真1:「鹽竈神社」正面(南側)の表参道「表坂」前にある「東北鎮護鹽竈神社」の社号標


写真2:同上、表坂の下にある鳥居。扁額に「陸奥國一宮」とある。


写真3:同上、豪壮な随神門


写真4:同上、唐門


写真5:同上、残念ながら参拝時には、左右宮拝殿が修繕中。左宮に武甕槌神・右宮に経津主神を祀る。


写真6:同上、別宮。塩土老翁神を祀る。まず主祭神である、こちらに参拝した後、左右宮にお参りする。別宮は西向きに建てられており、塩釜湾を背負う形。別宮と左右宮の3本殿・2拝殿の形は全国的にも珍しいという。


写真7:同じ境内に鎮座する式内社「志波彦神社」の鳥居。現在では、「志波彦神社鹽竈神社」が正式名称で、2社で1つの宗教法人となっている。明治期に「志波彦神社」のほうが遷座してきた。。


写真8:「志波彦神社」社殿


写真9:「志波彦神社」前から東に塩釜湾が見える。

コラム268.一宮(その31・上野国・一之宮貫前神社)

2013-01-12 23:36:42 | Weblog
一之宮貫前神社(いちのみやぬきさきじんじゃ)。
場所:群馬県富岡市一ノ宮1535。国道254号線「一ノ宮」交差点から南西に約600mで右折(北へ)、約200m。または、国道254号線「田島」交差点から北に約800m。駐車場有り。
社伝によれば、物部姓の磯部氏が氏神の経津主神を現・群馬県安中市鷺宮に奉斎したのが始めで、その後南下し、安閑天皇元年(531年)に現在の蓬ヶ丘綾女谷(よもぎがおかあやめだに)に祀ったのを創建とする。延喜式式内社(名神大)「貫前神社」とされるが、鎌倉時代から江戸時代までは「抜鉾明神」と称されていた。「貫前神」と「抜鉾神」は本来は別神で、「抜鉾神」は男神で経津主神、「貫前神」は女神で、配祀されている比売(姫)大神であるともいう。比売大神の名は伝わっていないが、おそらく元々この地にいた神で、綾女谷の名のとおり、養蚕機織の神とされる。また、鏑川の水源の神として、水神、農業神の性格もあるともいわれる。「貫前神」が女神であるというのは、次のような説話によっても知られる。即ち、上野国では元々「赤城明神(赤城神社)」が一宮であったが、「貫前神」は「財の君(さいのきみ)」であり、他国に取られてはならないということから、一宮を譲ったという。


一之宮貫前神社のHP

玄松子さんのHPから(一之宮貫前神社)


写真1:「一之宮貫前神社」正面参道。台地の中段から見上げると巨大な鳥居(大鳥居)が見える。


写真2:同上、総門。台地上にある。


写真3:総門を過ぎると、石段を下って社殿に向う。


写真4:同上、楼門。参拝時には社殿は改修中で、シートで覆われていた(残念)。楼門・社殿は国の重要文化財。


コラム267.一宮(その30・上総国・玉前神社)

2012-06-28 23:47:46 | Weblog
玉前神社(たまさきじんじゃ)。
場所:千葉県長生郡一宮町一宮3048。JR外房線「上総一ノ宮」の北西、約500m。国道128号線「玉前神社前」交差点を西に少し入る。駐車場有り。
永禄5年(1562年)の兵火のために古文書類が焼失したため、創建時期等は不明。一説によれば、境内にある御神水は「白鳥の井戸」と呼ばれるが、これは日本武尊が一羽の白鳥となって上空に現れ、白く美しい羽がこの井戸に舞い落ちたという。こうした所縁を知った景行天皇が当神社を創建したとされる。
当神社の東にある九十九里浜は、かつては「玉の浦」と呼ばれ、当地はその南端にある。「玉前」(玉崎)という名は、これに因むもの。祭神も玉前神=玉依姫命(タマヨリヒメ)とされるが、1200年以上続くとされる神幸祭(十二社祭)では大宮・若宮という2基の神輿が出御することから、1つは玉依姫命、もう1つは鵜茅葺不合命(ウガヤフキアエズ)(神武天皇という説もある。)であるとして、この2神を祀るともいわれる。ウガヤフキアエズは神武天皇の父神に当たるから、ヤマト政権による東国平定の守護神であることには違いないが、日本武尊との関係はやや薄い気がする。おそらく、玉依姫命も後付けで、原始には単に水上交通・漁労の神であったように思われる。
国造本紀によれば、成務天皇の時代に阿波国造の祖・伊許保止命(イコホト)の孫である伊己侶止命(イコロト)が伊甚(いじむ、いじみ)国造に任じられたというが、その本拠地が当地・上総国埴生郡(現・長生郡、茂原市の一部)であったとされる。阿波国造は安房国(千葉県南部)を支配した一族で、その同族ということになる。「玉前神社」は、海伝いに西からやってきた海人一族が奉斎した神社だったのだろうと思われる。
ともあれ、延喜式神名帳に記載されて式内社・名神大社として篤い信仰を集め、現在までも崇敬を受けている。


玉前神社のHP

玄松子さんのHPから(玉前神社)


写真1:「玉前神社」一の鳥居。社号標は「上総国一之宮 玉前神社」。鳥居は東向き、即ち、海(九十九里浜)の方を向いている。


写真2:二の鳥居


写真3:社殿は黒漆塗の権現造という珍しいもので、貞享4年(1687年)に建立されたもの。千葉県指定有形文化財。参拝時には、平成の大修理中で、全面にシートが張られていた。(社殿は南向き)


写真4:境内の塚。当神社の公式HPにも何の説明もないが、古墳であるという説もある。露出した岩をみると、磯の岩である。これが元々あったものなら、かつては当神社の目の前まで海が迫っており、当神社は正に岬の上に鎮座していたのではなかろうかと思われる。


写真5:天台宗「玉崎山 観明寺」山門。江戸初期の四脚門で、一宮町最古の建築物といわれ、一宮町指定文化財。「観明寺」は、天平6年(734年)行基菩薩の開基、慈覚大師の中興という。「玉前神社」の南側にあり、江戸時代までは当神社の別当寺だったようだ。

コラム266.美作国分寺跡

2012-04-28 23:39:02 | Weblog
美作国分寺跡(みまさかこくぶんじあと)。
場所:岡山県津山市国分寺483。国道53号線「国分寺」交差点から南に約1km。河辺小学校の西隣。駐車場なし。
美作国の国府(現・真言宗「龍起山 国府台寺(りゅうきさん こうだいじ)」付近)、「美作国総社」、更に美作国一宮「中山神社」は、いずれも現在の津山市街地(JR姫新線「津山」駅の北、吉井川を渡ったところ)の北にあるが、「美作国分寺」は少し離れ、国府址の東南、約5km(直線距離)のところにある。JRの駅でいうと「東津山」駅のほうが近い(同駅の東南、約1.3km)。それでも、「国分寺」という名の寺院が現存すること、その周辺から礎石と思われる大きな石や古瓦が見つかっていたこと等から、昭和51~54年に発掘調査が行われ、その結果、方2町の寺域に、南から南門、中門、金堂、講堂が一直線に並び、中門と金堂を回廊で連結して、その東南に塔が位置するという典型的な国分寺式の伽藍配置であったことがわかったという。
現在の「国分寺」は、「龍寿山 国分寺(りゅうじゅさん こくぶんじ)」と称し、全国の現存する国分寺の中では珍しい天台宗の寺院である。寺伝によれば、天平9年(737年)、聖武天皇の詔により行基菩薩を開基として創建。本尊は薬師如来。承安2年(1172年)に兵火に遭って堂塔伽藍悉く焼失し、以後寺勢は衰えたが、元和9年(1623年)に国主森氏により再建されたという。


「津山瓦版」さんのHPから(史跡 美作国分寺跡)


写真1:「国指定史跡 美作国分寺址」の案内板。旧国分寺の寺域は、今は殆どが民有田で、公園化などはなされていない。


写真2:石碑と「国分寺」山門。石碑の背後にある石も旧国分寺の礎石らしい。山門の奥に石の鳥居がみえるが、これは聖天を祀るもの。


写真3:こちらは上面が平らで巨大な旧国分寺礎石

コラム265.一宮(番外編・蝦夷国・北海道神宮)

2012-01-01 17:43:41 | Weblog
北海道神宮(ほっかいどうじんぐう)。
場所:北海道札幌市中央区宮ヶ丘474。JR函館本線「札幌」駅の西、約4km。札幌市営地下鉄東西線「円山公園」駅下車、徒歩15分。広い駐車場もある。
江戸時代までは「蝦夷地」と呼ばれていた地が「北海道」と名づけられたのは明治2年。同じ年に、明治天皇の詔により東京で北海道開拓の守護神として「開拓三神」(大国魂神・大那牟遅神・少彦名神)を祀る北海道鎮座祭が挙行された。明治4年には、現在地に社殿が建立され、「札幌神社」となった。昭和39年に、明治天皇を増祀し、社名も「北海道神宮」と改称された。
蝦夷地はアイヌの居住地であり、もとより律令制の国の一宮が存在するはずはない。しかし、その格式(旧・官幣大社)から、「北海道神宮」は、「全国一の宮会」より「蝦夷国新一の宮」に認定されている。


「北海道神宮」公式HP


写真1:「北海道神宮」正面鳥居。北東を向いているのは、ロシアに対する守りの意味があるという。


写真2:広大な森に囲まれた社殿


写真3:境内社「開拓神社」。開拓功労者を祀る。


コラム264.一宮(番外編・琉球国・波上宮)

2011-09-02 23:39:51 | Weblog
波上宮(なみのうえぐう)。
場所:沖縄県那覇市若狭1ー25ー11。国道58号線「泉崎」交差点から北西へ約1km。駐車場有り。
琉球国は、ヤマト政権の支配が及んでいなかったため、いわゆる律令国のうちに入っておらず、「一宮」とされる神社もなかった。しかし、「全国一の宮会」から当神社が「琉球国新一の宮」に認定されている。沖縄県には「琉球八社」という王府から特別待遇を受けた有力な神社8社があったが、当神社がその首座を占め、明治時代には官幣小社に列格された。現在も「沖縄総鎮守」として、沖縄県では最も初詣客が多い神社となっている。通称「なんみんさん」。
創建時期は不明だが、「琉球八社」はいずれも真言宗寺院に併置されており、社寺同時に創建されたと考えられていることから、当神社も察度王(在位:1350~1395年)の時代に創建されたとみられる。社伝によれば、「往古、南風原村に崎山の里主なる者があって、毎日釣りをしていたが、ある日、里主は浜辺で光を放つ『ものを言う石』を得た。この霊石に祈ると豊漁になったので、これを知った神々が霊石を奪おうとしたが、里主は波上山(「花城(はなぐすく)」ともいう。)に逃れた。このとき、「我は熊野権現である。この地に社を建てて祀れ。そうすれば、国家を鎮護するであろう。」との神託があった。里主はこの神託を王府に奏上し、社殿を建てて篤く祀ったという。「波上山」あるいは「花城」というのが、現在の当神社の鎮座地で、写真3のように、今は崖下がビーチになっているが、かつては海に突き出した巨岩であったらしい。「花城」の「はな」というのは、元は「鼻」または「端」であって、海のかなたにある「ニライカナイ」(理想郷)に祈りを捧げる場所であったようだ。したがって、社伝にいう通り現在の祭神は熊野の三神(伊弉册尊・速玉男尊・事解男尊)であるが、神仏混淆の社寺が創建される遥か以前から沖縄独特の信仰の中心であったと考えられる。
因みに、「琉球八社」のうち7社が熊野神社系で、1社のみ八幡神社となっている。沖縄では、仏教もなかなか浸透せず、現在も独自の信仰(祖先崇拝)が根強いようである。


玄松子さんのHPから(波上宮)

天空仙人さんのHPから(波上宮)


写真1:「波上宮」正面鳥居


写真2:社殿。沖縄らしい赤瓦。今では、台風対策のため、街中では赤瓦は殆ど見かけなくなっている。


写真3:海に突き出した巨岩の上にある。本殿は塗り直し作業中で、シートに覆われていた。


写真4:巨岩の東側には穴もある。今はビーチになっているが、かつては海から切り立った崖であったらしい。

コラム263.和気清麻呂公の銅像(東京都千代田区)

2011-07-24 23:04:16 | Weblog
和気清麻呂公の銅像(わけのきよまろこうのどうぞう)。
場所:東京都千代田区大手町一丁目。気象庁の西向かいで、東京メトロ東西線「竹橋」駅の2番出口付近。駐車場なし。
和気清麻呂(天平5年:733年~延暦18年:799年)は、備前国藤野郡に生まれ、藤野別真人(ふじのわけまひと)と称し、孝謙天皇に女官として仕えていた姉の広虫の推挙で、武人として宮中に出仕した。
神護景雲3年(769年)、重祚した称徳天皇のもとで重用されていた道鏡について、「道鏡を帝位に就ければ天下太平になる」との「宇佐神宮」(豊前国一宮、八幡宮の総本社)のお告げがあった、と奏上するものがあった。これは、道鏡の弟で大宰帥(大宰府の長官)であった弓削浄人の陰謀であったとされているが、いわゆる「宇佐八幡宮神託事件」である。称徳天皇は広虫(法均尼)にこの神託を確認させようとしたが、豊前国まで行く体力がないとして、代わりに弟の清麻呂を派遣した。清麻呂が「宇佐神宮」に参宮すると、身の丈3丈(約9m)、顔が満月のように輝く僧形の神が現れ、「皇族ではない者に天皇になる資格はない(から、道鏡に皇位を継がせてはならない)。」という神託を下した。帰京した清麻呂はこの神託の通りに報告したが、称徳天皇の怒りに触れ、別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と改名させられたうえ、大隅国に流刑となった。宝亀元年(770年)、称徳天皇が崩御し光仁天皇が即位すると、清麻呂は都に呼び戻され、その後、平安京遷都を奏献したり、大規模な治水工事を行ったりして治世に尽くし、最終的には正三位を賜っている。
延暦18年(799年)に亡くなると、京都・神護寺に葬られたが、嘉永4(1851年)、孝明天皇から正一位と「護王大明神」の神号を贈られ、神護寺境内の和気清麻呂廟は「護王神社」と改称された(明治19年に京都御所蛤御門前に遷座。)。
さて、東京都千代田区にある和気清麻呂公の銅像(佐藤清蔵作。高さ4.2m)は、昭和15年、紀元2600年記念事業として建立された。道鏡による帝位簒奪を阻止し、国体を護持した忠臣として、戦前は紙幣の肖像画にもなっている。岡山県和気町の「和氣神社」(2009年7月5日記事)にも和気清麻呂公の銅像(朝倉文夫作。高さ4.63m)があるが、東京都千代田区のものはやや太り肉で堂々とした姿に作られている。


岡山県のHPから(和気清麻呂像)

コラム262.一宮(その29・武蔵国・氷川神社)

2011-06-30 11:35:21 | Weblog
氷川神社(ひかわじんじゃ)。
場所:埼玉県さいたま市大宮区高鼻町1-407。東武鉄道野田線「北大宮」駅の東、約500m(徒歩約10分)、またはJR東北本線「大宮」駅の北東、約1.3km(徒歩約20分)。駐車場有り。
社伝によれば、創建は第5代孝昭天皇の3年(紀元前473年)とされるが、いくら何でも古すぎだろう。また、第12代景行天皇(在位:71~130年)のとき、日本武尊が、東征の折りに当神社を祈願所としたともいうが、これも伝説の域を出ない。ただし、景行天皇の頃に出雲の氏族が武蔵国に移住して当地を開拓したといい、第13代成務天皇(在位:131~190年)のときに出雲の兄多毛比命(エタモヒ)が武蔵国造となり、当神社を崇敬したという。社号の「氷川」は、出雲の「簸川(ヒカワ)」に因むといい、現在の主祭神が須佐之男命(スサノオ)であることから、創建が景行天皇の時代に遡れるのかもしれない。もっとも、当神社は、古代には広大な「見沼」のほとりにあり(境内の神池は、見沼の名残だとも言う。)、元々は沼の水神を祀っていたのではないかともいう。また、当神社の東南に中山神社(祭神:大己貴命、見沼区中川)と氷川女体神社(祭神:奇稲田姫命、緑区宮本二丁目)が約7kmの距離に一直線に並ぶが、元は3社で1つの「氷川神社」だったという説もある。
さて、社伝では、聖武天皇(在位:724~749年)のときに当神社が「武蔵国一宮」に定められたとするが、室町時代より前には「小野神社」(多摩市)が一宮、「二宮神社」(旧・小河大明神、あきる野市)が二宮で、当神社は三宮だったとする説も有力。小生は、「一宮」は制度ではなく、一種の名誉社格のようなものと思っているので、時代によって変わることもあり、有力な神社が複数あれば、一宮の称を争うこともあり得ると考えている。必ずしも名神大(社)ばかりではなく、場合によっては式内社ではないこともあり得る。
しかし、実際に参拝すると、当神社のかつての権勢がよく判る。まずJR「さいたま新都心」駅の少し北のところに参道入口(写真1)があるが、ここに「是より宮まで十八丁」と刻された丁石がある。18丁といえば、約2km(徒歩約30分)である。この長い参道の先に立派な楼門(写真3)や社殿(写真4)がある。また、境内の周囲は野球場やサッカー場などもある広大な「大宮公園」となっているが、元は当神社の社有林であったという。元々、式内社・名神大であるから、延喜式の当時から有名な神社ではあったのだろうが、中世以降は武家の篤い崇敬を受けて「武蔵国総鎮守」とされ、徳川幕府、明治政府が江戸・東京に置かれると、その権威が更に高まったものと思われる。


社団法人さいたま観光コンベンションビューローのHPから(武蔵一宮氷川神社)

玄松子さんのHPから(氷川神社(大宮))


写真1:「氷川神社」参道入口(一の鳥居前)にある石碑。「武蔵国一宮」「氷川大明神」などと刻されている。


写真2:二の鳥居前にある社号標。「官幣大社 氷川神社」とある。


写真3:楼門。神池を渡ったところにある。


写真4:社殿


コラム261.一宮(その28・下総国・香取神宮)

2011-05-05 23:03:58 | Weblog
香取神宮(かとりじんぐう)。
場所:千葉県香取市香取1697。東関東自動車道「佐原香取IC」を下りてすぐの県道55号線(佐原山田線)を北西へ約1km。駐車場あり。
社伝によれば、創建は神武天皇18年(紀元前643年)。祭神は経津主大神(別名:伊波比主大神)で、創建時の事情は明確ではないが、大宮司が祭神の子孫と伝えられており、常に常陸国一宮「鹿島神宮」とセットで語られてきたことから、「鹿島神宮」の創建とも深い関係があったのだろうと思われる。因みに、現在では「神宮」号を称する神社も多いが、平安時代以降~明治時代まで、「神宮」と称していたのは、伊勢神宮(単に「神宮」といえば、伊勢神宮を指す。)・鹿島神宮・香取神宮の3社だけだったされる。
フツヌシは、いわゆる国譲り神話に登場する神で、タケミカヅチとともに葦原中国平定を成し遂げた神である。「フツ」というのは、刀剣が物を断ち切る音を表し、その刀剣の鋭さをいう言葉であるという。「出雲国風土記」等によると、本来、葦原中国を平定したのはフツヌシが主役だったのが、後に中臣氏(藤原氏)の勢力拡大によって、その祖神であるタケミカヅチのほうが主役とされるようになったとされる。フツヌシは、霊剣「フツノミタマ」を神格化したものであるとか、タケミカヅチの別名であるとか、言わば「フツヌシはいなかった」説もある。「フツノミタマ」剣の神霊は、備前国式内社「石上布都魂神社」や大和国式内社「石上神宮」で祀られ、いずれも物部氏に縁が深いので、中臣氏の伸張と物部氏の衰退によって、タケミカヅチとフツヌシの関係が逆転したのだろうという。
元々は農業神だったとか、水上交通(古代には、現在の利根川の北側は「香取海」という広大な内海があったといわれている。)の神だったとかともいわれているが、国譲り神話から、タケミカヅチとともに国家鎮護の武神として信仰された。現在の本殿等は、「鹿島神宮」・「香取神宮」ともに、江戸時代初期に徳川幕府により造営されたもので、印象が良く似ている。ただ、奥宮と要石の位置は、「鹿島神宮」のように本殿の奥ではなく、狭い旧参道脇のややわかりにくい場所にある。当神宮の要石(写真4)は、「鹿島神宮」の要石ほど知られていないようだ。当神宮の要石は、上面が凸型で、地上に出ている部分は小さいが「深さ幾十尺」とされ、貞享元年(1684年)に水戸黄門こと徳川光圀公が石の周囲を掘らせたが、根元を見ることができなかったという。当神宮と「鹿島神宮」の要石は地中でつながっているというトンデモ説(両神宮は利根川を挟んで約13km離れている。)もあるらしい。
ともあれ、「香取の神」・「鹿島の神」の御神徳により、震災が早く終息し、復旧・復興されるよう、お祈りいたします。


香取神宮のHP


写真1:社号標は「香取神宮」。正面参道両側に並ぶ土産物店の先にある朱塗りの大鳥居。


写真2:楼門


写真3:社殿


写真4:要石。朱塗りの大鳥居を入ってすぐ左の狭い道に入った先にある。


写真5:奥宮。当神宮の摂社で、経津主大神の荒御魂を祀る。朱塗りの大鳥居の手前から、向かって左の狭い道を上っていった先にある。


写真6:雨乞塚。奥宮の向かい側に現存最古の武術である天真正伝香取神道流の祖、飯篠家直の墓があり、その先にある。説明板によれば、天平4年(732年)、大旱魃のときに祭壇を設けて雨乞いを行った場所であるという。フツヌシが雷神=農業神としての性格を持っていることを示すものかもしれない。