備前の古社を訪ねる(備前国内神名帳の研究)

備前の由緒ある神社を巡礼する

コラム221.瀬戸町宗堂

2009-10-30 20:28:57 | Weblog
県道96号線(岡山赤穂線)「宗堂」交差点から少し北に入ると、「宗堂桜」(県天然記念物)で有名な妙泉寺跡がある。「宗堂桜」は八重桜の一種だが、約60枚の花弁のうち内側の約20枚が内側に反転して開ききらないのが特徴。妙泉寺の住職であった日鏡上人は、雨乞いなどで村民から慕われていたが、日蓮宗不受不施派であったことから、岡山藩主池田光政により毒殺された。折しも咲きかけた寺の桜は、日鏡上人の死を悲しんで、開ききらなくなった、という伝説がある。
その後、妙泉寺は廃絶し、今は、たぶん寺の鎮守であっただろう素盞嗚神社と、(伝)日鏡上人の墓、題目石などが残っているだけである。ただ、妙泉寺跡の「手洗い」は家形石棺の身で、その後ろにある「題目石」の石板は蓋である、という。「手洗い」は、古墳時代に石棺としてよく利用された兵庫県の竜山石(宝殿石:「石の宝殿」で有名な生石(おおしこ)神社付近で採取される。)製。「題目石」のほうは材質が異なるが、全体に赤っぽく、これは朱の色であるとされているので、身とは別のものかもしれないが、石棺の蓋であることは間違いないようだ。
さて、「宗堂」というのは、「総堂」または「惣堂」とも書き、総社宮に奉仕する寺のことをいう。妙泉寺の創建は永禄11年(1568年)とされるが、もとは日蓮宗以外の寺があったのではないか。瀬戸町宗堂の北隣の瀬戸町塩納には、白鳳時代の軒丸瓦などが出土した「吉岡廃寺」(塔心礎石の画像は2008年12月25日記事)もあり、「久伝池」(排水処理場の隣)付近に磐梨郡衙があったという説も有力になっている(通説は和気町本付近。ここには「石生」の地名がある。)。ちなみに、瀬戸町宗堂の南には「春日神社」がある(写真下)。瀬戸町森末と坂根の境、宮山という小高い丘に鎮座するが、社伝によれば和銅5年(712年)の創建という。この丘は古墳でもあって(「夏井遺跡」)、弥生時代以来の聖地であったようだ。


岡山県のHPから(おかやまの自然百選「宗堂桜」):http://www.pref.okayama.jp/seikatsu/sizen/hyakusen/hyakusen/015soudouzakura.html

岡山県神社庁のHP(素盞嗚神社(瀬戸町宗堂)):http://www.okayama-jinjacho.or.jp/cgi-bin/jsearch.cgi?mode=detail&jcode=10093

同(春日神社(瀬戸町坂根)):http://www.okayama-jinjacho.or.jp/cgi-bin/jsearch.cgi?mode=detail&jcode=10003


写真上:素盞嗚神社(瀬戸町宗堂)。社殿は鳥居の左手。右手の小高いところに「宗堂桜」が植えられている。


写真中:妙泉寺跡の手洗いと題目石。南面した神社社殿前の広場の端にある。


写真下:春日神社(瀬戸町坂根)。場所:岡山市東区瀬戸町坂根102。「宗堂」交差点から南に進むと、当神社の裏手に出る。駐車場あり。

コラム220.備前国の磐座拾遺(その12・瀬戸の竜王)

2009-10-24 23:00:36 | Weblog
瀬戸の竜王(せとのりゅうおう)。
場所:岡山市東区瀬戸町瀬戸。赤磐市南方及び立川との境界付近の「下山」(132m)の山頂にある。古社「松尾神社」(瀬戸町瀬戸)の西側にある墓地の一番のところ(鉄塔付近)から、山道を約15分登る。夏草が伸びているところもあるが、道ははっきりしており、迷うことはない。墓地及び「松尾神社」付近に駐車場あり。
瀬戸町宗堂にあった妙泉寺の住持、雲哲院日鏡上人は生年不明だが、日蓮宗不受不施派に属し、日奥上人の弟子であり、正保元年(1644年)に不受不施派に対する弾圧にあって亡くなった。生前は、雨乞いの法力があったといい、この竜王の磐座で降雨を祈ったという。
この伝説が事実かどうかは不明だが、古代からの磐座であったことは確実で、この(八大)竜王の石碑のある「下山」山頂付近には3つの古墳(竜王1~3号墳)があり、鉄刀2口が出土している。また、竜王の石碑の周囲から弥生式土器も発見されているという。立石は、その名の通り、人工的に立てられたものらしく、竜王の石碑の台座である岩こそ、本来の磐座だったのだろうとも思われる。
古社「松尾神社」が「下山」の南麓にあるのも、この磐座と関連があるのかもしれない。


写真上:「竜王社」内部


写真中:立石(左)と、その前に立てられた竜王の石碑(右)


写真下:立石の後ろにも多数の岩がある。

コラム219.金剛童子と燧岩(その4)

2009-10-17 21:31:33 | Weblog
三谷公園は吉井川の右岸(西岸)にあるが、その対岸は瀬戸町弓削の「宮の鼻」集落である。「宮の鼻」というのは、瀬戸町弓削の氏神「八幡宮」が鎮座する門前の集落だからであろう。この「(弓削)八幡宮」(写真1)は、「熊山」登山道の登り口の1つとなっており、熊山山系「龍神山」(344m)を経由してゆくルートになる。「(弓削)八幡宮」の創建時期は不詳であるが、社伝によれば、もとは宮の鼻山山上に鎮座していたが、正治元年(1199年)に現在地に遷座したという。
「(弓削)八幡宮」から登山道を約1.7km(約40分)登ると、「龍神山」の峰に行く脇道があり、更に200m登ると山頂。吉井川に向かって開けており、岩壁からの眺望が良い(落下注意)。山頂には立石と祠があり(写真3)、その下は(人工かどうかはわからないが)岩を積み重ねたようになっている(写真4)。これが磐座とすれば、雨乞い祭祀があったのだろう。伝説によれば、「龍神山」から三谷の「金剛童子」に大蛇が渡る、という。
得意の妄想をすれば、「龍神山」自体を立石とみれば、山と谷で陰陽を見立てているのではないだろうか。
ところで、瀬戸町弓削の吉井川の水の中に「三角岩」という岩があり、別名「ゴンゴウ岩」、「ゴンゴウタロウ」などとも言ったらしい(「ゴンゴウ」は河童のこと。)。そして、この岩の前の淵から東大寺再建のために焼かれた瓦が大量に見つかった。これは、水神の依り代である岩に奉げられたらしい。
要するに、それほど古くから、この辺りには龍神なり河童なり、水神が棲んでいたということなのだろう。

(「金剛童子と燧岩」シリーズは、瀬戸町の文化財を語る会「改訂瀬戸町の歴史散歩」(平成8年12月)、瀬戸町教育委員会「瀬戸町歴史事典」((平成18年12月)などを参考にさせていただきました。)

岡山県神社庁のHPから(「(弓削)八幡宮」):http://www.okayama-jinjacho.or.jp/cgi-bin/jsearch.cgi?mode=detail&jcode=10106


写真1:(弓削)八幡宮。鳥居の奥に駐車場がある。随身門の右手が熊山登山道になっている。


写真2:龍神山の山頂手前の山道から三谷公園が見える。


写真3:「龍神山」山頂の立石と祠


写真4:祠の下の磐座?

コラム218.金剛童子と燧岩(その3)

2009-10-12 09:11:47 | Weblog
三谷公園(岡山市東区瀬戸町南方)の近くに、名前のついた岩がもう1つあるので、ついでに。
三谷公園の正面、吉井川の少し上流に「波止巻石遺跡」(写真上)がある。これは、江戸時代の波止場の跡である。更に少し下ると、高瀬船の難所として舟霊様(「金剛童子」の元)が祀られた「五本松」(南方の保木)がある。かつては5本の松があったのだろうが、今は「大覚大僧正の法華題目石」などが立てられている(写真中)。そこから、更に下流をみると、吉井川の中に「亀石」が見える(写真下)。確かに亀のようにもみえるが、本来は「神石」であって、水神の依代だったのではないか、ともいわれる。古くから知られていたさしく、かつては、この石が南方と肩背の境界の基点になっていたらしい。なお、川の中にあるのは「雌亀石」で、陸上に「雄亀石」があったが、「雄亀石」は県道の拡幅工事で消滅してしまったらしい。


写真上:波止巻石遺跡の石碑


写真中:「五本松」(南方の保木)にある石碑。ここから、少し下流に「亀石」が見える。


写真下:吉井川の中にある「亀石」

コラム217.金剛童子と燧岩(その2)

2009-10-11 00:39:28 | Weblog
「金剛童子社」のある三谷公園(岡山市東区瀬戸町南方)は、上流でカクレ谷・オバガ谷・カラス谷という3つの谷が集まっているため、その名があるが、そのうちオバガ谷の奥に「燧谷」があり、そこに「燧岩」という巨岩がある。およそ幅6m×高さ6m×奥行き5mの大きさで、薄い褐色をしている。「燧岩」と呼ばれるのは、これが所謂チャートという石英質の堅い石で、文字通り火打ち石として使われたからである(最近でも、2005年岡山国体の炬火(聖火)の採火にも使われた。)。また、割れるときにはガラスのように鋭い破片になるため、鏃などにも使われた。今も、岩の周囲には細片が散らばっている。
と、いうことで、これは是非見たいと思って出かけた。「燧岩」に至る道の入口には案内板もあり、15分ほど、というので、楽勝かと思ったのだが、途中(ちょうど、あと10分の案内板のところ)で藪に覆われ、道がなくなっていた。最初に行ったのは9月で、再チャレンジで10月に行ったところ、入山禁止になっていた(写真下)。「処罰されます」というのは穏やかではないが、多分、この山も松茸山なのだろう。松茸シーズンが終わったら、ひょっとしたら道も通れるようになっているかもしれない。それに期待したい。
この三谷には古社はなく、「燧岩」も実用に使われたので、これが磐座だったとは断定できない。しかし、ちょうど谷を遡って行った奥にあること、また、ここを「一の倉」という呼び方があったことから、磐座と考えてよいと思う。「くら」は谷の意味らしいが、磐座の意味だったかもしれない。


「ジョワおば」さんのHPから(あんな話・こんな話21「三谷山の不思議なこと」):http://seto40zuka.at.infoseek.co.jp/anna-4.html


写真上:秋には紅葉の名所となる。境内の庭園の築山だが、頂上に2つの岩が立てられており、塚のようになっている。この奥に燧岩への道がある。


写真下:燧岩の案内板


コラム216.金剛童子と燧岩(その1)

2009-10-10 00:39:44 | Weblog
金剛童子と燧岩(こんごうどうじ と ひうちいわ)。
場所:岡山市東区瀬戸町南方。国道2号線「吉井」交差点から県道252号線(万富吉井線)に入り、約5km。駐車場があるが、普段は閉鎖されている。「金剛童子」の扁額がかかった鳥居(写真上)付近に1~2台の駐車スペースがあるほか、鳥居を通って拝殿の前などにも駐車スペースがある。
「金剛童子社」を中心に、3つの谷が集まる「三谷公園」として整備されている。この辺りは、吉井川が大きく湾曲し、岩山がせり出した難所で、高瀬舟の安全を祈願して船頭らが船霊(ふなだま)様を祀った。天正年間(1573~1591年)に三谷山の山上に祠を移した(このころ、備前福岡の妙興寺の僧が「金剛童子」と名付けたという。)が、後に村人が境内の木を切ったところ、山が鳴動したので、現在地に祀り直したとされる。
「金剛童子」の正体がよくわからないが、多分、庚申信仰の本尊である「青面金剛(童子)」のことだろう。「青面金剛」は道教の神とされるが、仏教(密教)・修験道・陰陽道・神道・民間信仰などと複雑に習合しているため、これだけで1冊の本になるくらい面白い存在だが、ここではこれ以上深入りしない。
ところで、「青面金剛」像には三猿を伴うことが多く(庚申(かのえさる)だからか?)、これが猿を神使とする「日枝神社」(ひえじんじゃ)と結びついたようだ。この「金剛童子」も「ひえ神様」と呼ばれ、これが「冷え」(腰から下の病気一般。性病なども含む。)の神様となったらしい。明治維新までは、神戸などの花柳界にも信者がおり、男根形なども多数奉納されていたという。明治に入り、淫祠邪教の類と見做され、男根形などは撤去された。その後、「童子」の名から、子供の守り神として信仰され、内田百も子供の頃、祖母に連れられてよく参ったという(境内に句碑がある。)。
さて、三谷公園の「金剛童子」から北へ出れば瀬戸町万富で、周辺には「阿保田神社」「堰爪神社」「神時神社」などがあり、西の山を越えれば瀬戸町肩背に「雨垂布勢神社」「神神社(御崎宮)」、南には「柴狹神社」「石津神社」などの古社が多く存在する。
「金剛童子」自体は中世以降だろうが、この場所も神がいる場所として古くから知られた場所だったのではなかろうか。それが、三谷の山中にある燧岩なのだが、以下、次項で。


岡山市のHPから(瀬戸地域の観光情報:三谷公園金剛童子):http://www.city.okayama.jp/seto/etcland/midokoro/work05.html#a01


写真上:「金剛童子」鳥居


写真中:金剛童子社拝殿


写真下:拝殿の背後の神殿。下に三猿(見ざる言わざる聞かざる)ほか全部で5体の猿の石像が置かれている。

コラム215.瑜伽大権現(その2・由加神社本宮)

2009-10-05 20:19:16 | Weblog
由加神社本宮(ゆがじんじゃほんぐう)。
場所:倉敷市児島由加2852。行き方は「由加山蓮台寺」(前項)と同じ。蓮台寺とは仲が良くないらしく、当神社独自の駐車場があるが、長い坂道の参道の下なので、上るのがつらい。
「瑜伽大権現」に参るのは、実は、2回目なのだが、前回はあまり時間がなかったので、なんとなく、左側(西側)が蓮台寺、右側(東側)が当神社だと思っていた。今回よくよく見ると、神社部分はごく僅かであることがわかった。つまり、当神社本殿の右手には「観音堂」や「大師堂」があり、右(東)の端には多宝塔が立っている。また、現在、蓮台寺では「権現堂」を奥の院としているが、更に奥、約500mのところに本来の奥之院「妙見堂」がある。ここには児島にいた鬼を退治して埋葬した跡という「鬼塚」もあるらしい(鬼の霊は改心して75匹の白狐に変わり、瑜伽大権現の眷属となったという。)。
というわけで、公平に見て、瑜伽大権現の本家争いは神社側に分が悪いのだが、当神社本殿の横に磐座が祀られている(写真中)ほか、本殿背後にも巨石がある。瑜伽大権現の縁起・由緒については前項で記したが、神仏混淆ぶりといい、権現号といい、「熊野神社」との関係といい、明らかに修験道の影響が大である。つまり、もともと、この地に磐座信仰があって、山岳修行の聖地として開山されたとみるべきだろう。磐座そのものを本来の神社とするなら、行基より前に「神社」があったかもしれない。
ちなみに、当神社は、神仏分離令により蓮台寺と分離された後、明治14年(1881年)には県社に列せられた。当時、旧・児島郡で唯一の県社であった(このとき「鴻八幡宮」は村社で、県社になったのは昭和19年(1944年)である。)。
ところで、「由加山蓮台寺」のパンフレットをみると、境内図には当神社は存在しないような書きぶりになっている。そこまで嫌わなくてもよいだろうと思う。一方、当神社のHPでは、祭神名に並んで、本地仏が阿弥陀如来・薬師如来と、きちんと書いてある。当神社の祭神は手置帆負命・彦狭知命などであり、この2柱はだいたいセットで祀られ、式内社「天計神社」(岡山市北区)、国内神名帳に載る古社「天計神社」(吉備中央町)などでも祀られている。手置帆負命は讃岐忌部氏、彦狭知命は紀伊忌部氏の祖であるとされる。
さて、瑜伽大権現と香川県の金毘羅大権現は「両参り」といって、両方に参ることが流行った。金毘羅大権現のほうは、神仏分離令によって寺院は撤去され、「金刀比羅宮」となった。こちらは、讃岐国式内社「雲氣神社」に比定されており、神社に戻った、というべきか。


由加神社本宮のHP:http://www.yugasan.or.jp/index.html


写真上:備前焼の鳥居。本殿は、鳥居を潜って左(南面している。)。


写真中:本殿横の磐座。小さな石鳥居があり、その上方にある。


写真下:本殿の後ろにも巨石がある。

コラム214.瑜伽大権現(その1・由加山蓮台寺)

2009-10-03 22:08:02 | Weblog
由加山蓮台寺(ゆがさん れんだいじ)。真言宗御室派の寺院(別格本山)で、本尊は十一面観世音菩薩。
場所:倉敷市児島由加2855。岡山市街地からは県道21号線(岡山児島線)を倉敷市水島方面に向かい、「郷内」交差点(この近くに「熊野神社」や「清田八幡神社」などがある。)から県道62号線(玉野福田線)に入り、東南に進めば約8kmで到着。駐車場あり。
寺伝によれば、創建は天平5年(733年)。行基の開山になり、本尊の十一面観音は行基作という。このとき、瑜伽の行を行い、阿弥陀如来・薬師如来を本地仏とする「瑜伽大権現」を感得した。「瑜伽」はサンスクリット語のヨーガで、日本では一般に健康体操のように思われているが、瞑想などの修行もあるらしい。
この開山伝承によれば、児島で最初の寺院であるということだそうだが、真偽は不明(やや疑わしい?)。なお、「権現」(仏が仮に神の姿で現れたもの)というのは本地垂迹説によるもので、多分、平安後期頃の成立だろう。また、瑜伽山(由加山)の北麓にある「熊野神社」(倉敷市林)の寺伝によれば、役行者の5人の高弟が紀州熊野から児島にやってきて「新熊野」を開いた際、「那智宮」としたところであるという。
いずれにせよ、神仏混淆色が強かったわけだが、明治維新の神仏分離令で寺院と神社に分けられた。神社側である「由加神社本宮」の本殿の右手に「観音堂」があり(写真中)、更にその右手の少し高いところに「恵比寿大黒岩」という2つの岩を祀ったところがある(写真下)。これが寺院側の「磐座」だろうか、と思われる。神社側の「磐座」は次項で。


由加山蓮台寺のHP:http://www.yugasan.jp/top.html


写真上:奥の院「権現堂」。神仏分離令にもめげず、「権現」を祀るため明治になって建てられたものという。


写真中:「観音堂」。本尊が十一面観音なのだから、本来はこちらが本堂だろうが、今ここに本尊はない。


写真下:「恵比寿大黒石」。「観音堂」の右手の少し高いところにある。

コラム213.沢田山恩徳寺の古立石不動明王

2009-10-01 00:00:00 | Weblog
沢田山恩徳寺の古立石不動明王(さわださんおんとくじのふるたていしふどうみょおう)。
場所:岡山市中区沢田。国道250号線に架かる百間川橋の西詰から、百間川の右岸(南岸)堤防から東南にまっすぐ下りていく。右側が低層アパート群、左側が水田となっている道路で、T字路に突き当たってすぐ右。手前に恩徳寺の駐車場がある。
「沢田山恩徳寺」は備前48ヶ寺の1つで、このブログでは2008年7月27日記事で採り上げた。天宝勝宝2年(750年)、行基により創建され、その後、報恩大師により備前48ヶ寺に加えられたという古寺である。
面白いのは、(備中国一宮「吉備津神社」本殿と同じように)本堂の背面に扉があることで、そこから急な階段が延びていて、その先に社がある(写真下)。これが当寺の前に立つ石鳥居の扁額にある「竪巌尊」、即ち「竪巌最上稲荷」である。もとは、当寺の北西、約500mのところにあった。今も「立石」が残っている(写真中)。「竪巌」というのは難しい文字だが、竪=立て(る)、縦。巌=岩、なので、立岩(石)と同じになる。岩をなぜ稲荷としたのか、岩のある場所に稲荷を勧請したのか、勧請した場所に岩を立てたのか、は不明。創建時期は元禄元年(1688年)、「伏見稲荷大社」の神宮寺であった「愛染寺」(東寺末)から勧請されたらしく、したがって、稲荷といっても荼枳尼天(ダキニ)と習合した神である(当寺本堂に「竪巌最上荼吉尼天」の額が掛けてある。)。現世利益の神様とあって、江戸時代には大変流行ったらしいが、明治に入ると、神仏分離令によって現在地に移されたという。現在の社の背後に磐座がある、と書かれているものがあって、現地で探したのだが、それらしいものは見当たらなかった。


写真上:立石。大きな石の前に稲荷の小祠が置かれている。手前には石鳥居の残骸が、半ば土に埋もれて散乱している。


写真中:立石の奥の山肌に、不動明王が彫られている。


写真下:沢田山恩徳寺の本堂の上に移された「竪巌最上稲荷」