備前の古社を訪ねる(備前国内神名帳の研究)

備前の由緒ある神社を巡礼する

コラム39.小豆島の古社(その2・賀嶋玉比神社)

2008-08-31 08:59:03 | Weblog
備前国内神名帳所載の「賀嶋玉比神社」は現在「鹿島神社」となっており、地元では「鹿島明神社」と呼ばれている。場所は、小豆島の土庄港の南、約2km。土庄港のすぐそばにある「オーキドホテル」とガソリンスタンドの間の道路を南下、海岸線を走る県道254号線に出る。県道を右折(南西へ)して約200mのところにある。駐車場あり。
「賀嶋玉比神社」の項(2008年6月28日記事)では、「鹿島神社」なのに祭神が「玉依比売命」とはこれ如何に、と書いたのだが、現地の真新しい石碑には
「旧賀嶋明神跡」と記され、備前国内神名帳所載の「賀嶋玉比神社」の跡だとしている。
現在の地名は「鹿島」であるが、かつては「加嶋村」だったらしい。そもそも、小豆島にはギネスブック認定「世界一狭い海峡」という「土渕海峡」があり、土庄町役場より西の地区は、小豆島「本島」とは分かれた「前島」にある。「鹿島」地区も「前島」に含まれており、あるいは、単に島の名前として「かしま」と呼ばれていたのかもしれない。だから、もともと「鹿島神宮」とは無関係だったのが、時代が下るにつれ、有名な「鹿島明神」という名前に変わってしまったのではないだろうか。


写真上:鹿島神社鳥居


写真中:鹿島神社拝殿


写真下:鹿島神社本殿

コラム38.小豆島の古社(その1・玉比神社)

2008-08-30 00:08:27 | Weblog
現在、小豆島は香川県に属しているが、かつては備前国の一部だった。新岡山港(岡山市)から土庄港行きのフェリー(所要時間約70分)があるほか、日生港(備前市)から大部港行きのフェリー(同約60分)がある。
このブログを始めるときには、小豆島に行く予定は全くなかったのだが、たまたま訪問する機会があった。ただ、訪問が急に決まったのと、滞在時間に余裕はなく、ずっと雨が降っていたことなど、条件はあまり良くなかった。
さて、まず「玉比神社」(小豆島)であるが、「葺田八幡宮」(写真)の境外末社ということだったが、結局不明。「葺田八幡宮」は小豆島の東端の「福田」地区にある(福田港からは姫路行きのフェリーが出ている。)。県道26号線(福田港から南が国道436号線になる。)沿いにある「福田郵便局」の向かい側(西)に少し入ったところ。駐車場あり。
福田港の北側にある岩山の山麓に南面して鎮座し、なかなか堂々とした姿である。
小豆島には応神天皇の行幸伝説があり、その巡幸地跡に5つの八幡神社(富丘、亀山、亀甲山、葺田、伊喜末)を祀ったという。福田地区では、応神天皇が稲束で葺いた行宮で休まれた、ということから「葺田」→「福田」になったという。
ところで、地元の方のブログによれば、「葺田八幡宮」には「磐座」があるとも、「巨大隕石」があるとも書かれている。現地に行ったときはすっかり失念していて(何という手抜かり!)確認できなかったのだが、ひょっとして、これが「玉比神社」(小豆島)であったかも??


立花律子さんのブログ「小豆島に集まれ!」から(2008年5月2日記事):http://blog.livedoor.jp/dreamisland1/archives/55052198.html

国民宿舎小豆島さんのブログから:http://www.shodoshima.jp/shukuhaku/2007/05/post_162.html


ちなみに、小豆島で「玉姫神社」というと、小豆島町安田にあるそれを指すようである。「島の神々」さんのブログから(玉姫神社):http://nannpuuteishiran.blog.shinobi.jp/Entry/146/


★「葺田八幡の磐座」については2009年9月24日記事で(http://blog.goo.ne.jp/junko-f1/d/20090924)、「玉比神社」については2009年9月25日記事で(http://blog.goo.ne.jp/junko-f1/d/20090925)、再度それぞれ書いています。

コラム37.金泉山正満寺

2008-08-28 19:45:31 | Weblog
金泉山正満寺(きんせんさん しょうまんじ)。天台宗の寺院で、本尊は聖観音。備前48ヶ寺の1つとされ、少なくとも5坊あったとされるが、寺勢の衰退や全山焼失などがあり、情報が少ない。最後に残っていたのは「妙覚院」(みょうがくいん)だが、昭和12年に火災に遭い、同31年に本堂再建したという。
場所:赤磐市大屋383。赤磐市市街地から、県道27号線(岡山吉井線)を北上し、笹岡郵便局のところで右折(東へ)して、県道257号線(坂辺吉井線)に入る。そこから約1km、左にカーヴするところで、「持行橋」を渡って「山手」「大屋」方面に向かう(案内板あり。)。そこから先は1.5車線の道路で、カーヴが多いので注意。約1kmで当寺に着く。駐車場あり。
当寺に向かう途中の「笹岡郵便局」の北あたりに国内神名帳所載の「松尾神社」(赤磐市)があり、当寺の先約2kmほどの「山手」地区に同「湯山神社」がある。
寛文年間には「妙覚院」住職は還俗して大屋村の氏宮の神職になった、といわれ、上記両神社との関係は不明だが、この山の中にいったい何があったのだろう。

コラム36.大松山妙光寺

2008-08-24 16:57:14 | Weblog
大松山妙光寺(おおまつさん みょうこうじ)。高野山真言宗の寺院で、本尊は阿弥陀如来。備前48ヶ寺の1つだが、鑑真の開基といい、もとは観音像が本尊だったという。現在は山の中腹にあるが、かつては式内社「石上布都魂神社」本宮がある「風呂谷山」の峰伝いの山上にあったといい、永禄年間(1558~1569年)に金川城主松田左近将監に日蓮宗への改修を拒んで全山焼き討ちにあい、再建時に現在地に移したという。もとは「大松山松光寺」といい、中古、「妙光寺」としたといい、大松村にあった5寺の総称が「妙光寺」であったと思われる。昭和6年に、「観音院」を廃し、「蓮上院」に「真言寺」を合併して「妙光寺」と称することになった。いつ真言宗となったかは不明。
場所:赤磐市石上1485。行き方は「石上布都魂神社」の項(2008年6月8日記事)を参照。同神社の県道沿いの駐車場から徒歩約300m。当寺には駐車場はなく、当寺に至る道路は狭いので、「石上布都魂神社」の駐車場を利用させてもらうのがよい。
現在も不便なこの場所に寺を建てるというのは、聖なる場所での「修行」以外考えられない感じがする。

赤磐市のHP(「赤磐ふるさとの史跡探訪」)から:http://www.city.akaiwa.lg.jp/kouhou/200705/jpg/p32.jpg

コラム35.照光山安養寺

2008-08-23 22:33:44 | Weblog
照光山安養寺(しょうこうさん あんようじ)。天台宗の寺院で、本尊は阿弥陀如来。報恩大師開基の備前48ヶ寺の1つであるが、その後200余年を経て(康保年間)、雷火により焼失し、行基作の本尊も失った。勅命により、播磨国書写山の開基性空上人の弟である信源上人が再建した(再建にあたって、山上にあった伽藍を現在地に下ろしたという。)。このとき、比叡山の恵心僧都が自作の阿弥陀如来像と伝教大師作の薬師如来像を寄進した。以来、天台宗山門派の法に従う。最盛時には50坊を数えたというが、旧山陽道に面した大寺であったことから、たびたび戦火に巻き込まれ、現在では「延寿院」(えんじゅいん)が残っているのみとなり、単に「安養寺」と称するようになったようである。なお、現在の本堂は元の常行堂である。(以上、「和気郡史」ほかによる。)
場所:和気町泉609。県道96号線(岡山赤穂線)沿いで、由加神社(和気町)の北東約300m。山の鼻で隔てられているが、互いに境内が広いので、隣り合っているといってよい。
「泉」という地名は明治以降のもので、かつては安養寺の寺領だけで「安養寺村」としており、領主の権力を介入させない村としていたという。
掲載した写真では分からないが、背後には「竜王山」の尖った山の威容が見える。元は山上伽藍であったというのが事実かどうかわからないが、そうであれば、寺院と言うより、山の行場であったように思われる。
なお、当寺の奥(北)に「宗堂池」という大きな池がある。「宗堂」というのは「総堂」であり、郡の総社の社僧がいた場所であったという(例えば、岡山市東区瀬戸町にも「宗堂」という地名がある。)。かつては、この安養寺がそうであったかもしれない。
そういえば、次のような話もある。「方の上山」(現「神ノ上山」。当寺の真北にある。)山上に「方の山八幡宮」があった。これは、天平勝宝8年(756年)に報恩大師が勧請したものである。しかし、高山の山上のため風雨により再三社殿が転覆した。そこで、延暦9年(790年)に国司であった和気清麻呂が由加神社に合祭し、以来「由加八幡宮」と称するようになった、という。登場人物や時代には信を置きがたいが、由加神社・安養寺ともに、和気氏以来、この土地の支配者との関係が深かったことがうかがわれる。

コラム34.岩生山元恩寺

2008-08-20 22:02:19 | Weblog
岩生山元恩寺(がんしょうさん がんおんじ)。天台宗の寺院で、本尊は千手観音。
場所:和気町原308。県道96号線(岡山赤穂線)沿い、吉井川が南から西へ大きく曲がる右岸にあり、山門が県道に面しているので、すぐわかる。駐車場あり。
備前48ヶ寺の1つで、天平勝宝年間、報恩大師開基という。もとは、現在の本堂の裏山の裏に位置する「榎谷」にあったが、康保2年(966年)に播磨国書写山の信源上人(現・天台宗別格本山書写山圓教寺開基の性空上人の弟)が現在地に移し、最盛時には36坊あったという。その後、寺勢が衰え、寛文年間(1661年~1672年)に一山焼失した。6~7ヶ寺が再建され、「三学坊」が本坊として「元恩寺」を名乗り、ほかに妙行院、宝積院などがあったが、現在はそれぞれ小堂を残すのみとなっている。
国内神名帳に載る古社「石根依立神社」は当寺の西隣の地続きで、境内に山王社もある。かつて「三学坊」の住職が「石根依立神社」の社僧となっていたという。
「石根依立神社」というからには、磐座と関係がありそうだが、同神社の項(2008年6月1日記事)で書いたように、近くで有名なのは「イモリ岩」だが、それとは関係が薄いのではないかとする説もある。当寺が「榎谷」から移転してきたとすれば、同神社も同時に移転してきた可能性もある。「榎谷」の正確な場所が不明だが、ひょっとすると、外国山の大岩が磐座だったかもしれない。
ただし、同神社の裏山には「丸山古墳群」があり(最大のものは帆立貝式古墳の可能性があるという。同神社の所有地内にあるらしい。)、その更に北に「天皇たたら跡」(製鉄炉跡)という史跡もあるなど、交通の要所というだけでなく、早くから開けた土地であったと思われる。

和気町公式Webサイトから(「丸山古墳群」、「天皇たたら跡」など):http://www.town.wake.okayama.jp/history/shiseki_tyo.html#ct19
http://www.town.wake.okayama.jp/history/shiseki_tyo.html#ct8

コラム33.築地山常楽寺

2008-08-17 21:20:17 | Weblog
築地山常楽寺(ついじさん じょうらくじ)。天台宗の寺院で、本尊は千手観音。本坊は「明静院」(みょうじょういん)といい、最盛時には20余坊あったという。明治16年(1883年)火災により山門を残して全山焼失、その後復興(本尊は金山寺から貰い受けたという。)。現在の状況については殆ど情報がなく、詳細不明。
場所:岡山市東区草ヶ部1806。地図で見ると、小廻山の北側、瀬戸町笹岡のほうから(県道96号線(岡山赤穂線)から、笹岡公民館の南辺りから)、当寺に隣接する「小廻加圧ポンプ場」(更に小廻山)に至る道路があるようである。しかし、唯一、焼失を免れた立派な山門は南側、草ヶ部側にある。国内神名帳に載る「立河神社」の脇に九十九折の道があり、登っていくと、山門の横に出る。地図でも上(北)にあるが、急な坂道で、まさに「立河神社」の真上にあるようである。
「草ヶ部」というのは、日下郷(くさかべごう)に由来し、仁徳天皇の子「大日下王」と「若日下部命」の名代(なしろ)地として設けられたものという。現在も、草ヶ部には条里制の跡が残っている。
ただし、かつて当寺が所在する場所は「築地山村」として、草ヶ部村とは分かれていた。村名は当寺の山号から取ったものだろうが、その山号は、昔、弘法大師が小廻山に石垣(築地)を築かせたという伝説によるという。弘法大師というのはもちろん伝説に過ぎないだろうが、小廻山は朝鮮式山城ではないかとの説もあるところである。ただし、建物等の跡が見つかっていないこともあって、まだ定説はないようである。
なお、小廻山山頂(198m)には「八大竜王の石碑」があり、雨乞い祭祀を行っていたようだ(下記HP参照)。この点でも立河神社(罔象女神)と当寺の関連が窺われる。

「沸茶の庵」さんのHPから(大廻小廻山城跡):http://haikai.putcher.info/siro/okayama/omeguri/omeguri.htm
「おおいけ新聞」さんのHPから(雨乞い行事などの記事):http://www7a.biglobe.ne.jp/~nakanishi/ooike15.pdf


写真上:常楽寺山門


写真下:常楽寺本堂

コラム32.中津山願興寺

2008-08-16 11:15:01 | Weblog
中津山願興寺(なかつさん がんこうじ)。天台宗の寺院で、本尊は千手観音。報恩大師開基の備前48ヶ寺の1つと伝えるが、その後、鎌倉時代中期まで資料に登場しなくなる。周辺が「肩脊城」という天然の山城として利用され、何度も戦火に遭ったことで、多くの資料を失ったらしい。ついには、寛文6年(1666年)岡山藩主池田光政の宗教政策によって廃寺となり、「金山寺」の努力により寛文9年(1669年)大乗院と大円坊(後に光明院)が再興されたという。最盛時は15坊あったというが、現在は1寺(大乗院?)のみとなっているようだ。
場所:岡山市東区瀬戸町肩脊728。県道221号線(一日市瀬戸線)から、岡山県消防学校の向かい側(北)のやや狭い道を入り(入り口に「願興寺」への案内板がある。)、約1km。右手に雨垂布勢神社があり、その先、すぐ左手に山門(仁王門:写真上)がぽつんと立っており、更にその先に、こぢんまりとした当寺(写真下)がある。駐車場あり。
所在地の「肩脊」は、珍しい地名だが、「和名抄」(平安中期成立)にも「肩脊(加多世)郷」の記載があるなど、起源は古い。かつて砂川によって作られた大沼を利用して開発された地区のため、その名がついたともいう。明治22年には肩脊を含む3村の合併で「潟瀬村」と称したことがある。肩脊には、赤井(閼伽井)・尾原井・白拍子井・塩井という4つの井水(泉)があるといい、雨垂布勢神社とともに、水に縁がある地区である。

写真上:山門


写真下:願興寺




コラム31.大滝山福生寺

2008-08-14 21:30:15 | Weblog
大滝山福生寺(おおたきさん ふくしょうじ)。高野山真言宗の寺院で、本尊は十一面千手観音。現在「福生寺」は独立した宗教法人格を持たず、「福寿院」(ふくじゅいん)・「西法院」(さいほういん)・「実相院」(じっそういん)の3坊で本堂等を管理している。天平勝宝6年(754年)鑑真の開基と伝えられ、それは疑わしいとしても、「類聚国史」(892年成立)にも「大滝の寺」として記述があるなど、その歴史の古いことは確実である。その後、万寿元年(1024年)全山が火災に遭って衰えたが、足利尊氏らにより再興され(この頃、真言宗に改宗?)、最盛時には33坊あったという。なお、室町時代中期のものという山門(仁王門)、三重塔が残っている。
場所:赤磐市大内997(本堂)。国道2号線「大内」あたりの「備前射撃場」の案内看板に従って進み、「射撃場」の先に少し走ると、山門、本堂などが散在する。本堂付近に駐車場がある。更に道路を上って行くと、熊山神社に至る。
国内神名帳に載る「大瀧神社」は当寺の鎮守であったというが、もとは「大滝」を神格化したものだろう。現在、「大瀧神社」は移転してしまっているが、当社の旧社地については、「大滝山物語」(丸山弘然著、平成12年7月)によれば、「大滝明神社は本堂裏の明神山の頂上に御本殿があり、本堂裏の経蔵の西に拝殿と随身門があった。」という。

Wikipedia記事(福生寺(備前市)):http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E7%94%9F%E5%AF%BA_(%E5%82%99%E5%89%8D%E5%B8%82)


写真上:福生寺本堂


写真下:大滝



コラム30.大雄山大賀島寺

2008-08-12 23:29:02 | Weblog
大雄山大賀島寺(だいゆうさん おおがしまじ)。天台宗の寺院で、本尊は千手観音。寺中に「円蔵院」(えんぞういん)と「蓮池院」(れんちいん)があるとされるが、今は跡地のみとなっているようで、全体で「大賀島寺」で通用している。
場所:瀬戸内市邑久町豊原2686。「大雄山」(152m)の山頂の南側にある。県道226号線(牛窓邑久西大寺線)から林道大ヶ島線に入り、終点(山頂)近く。山頂はかなり広く、駐車するには困らない。下記HPに道順の説明がある。「林道」というが、特に危険なところはない。ただし、途中はカーヴが多い割りにカーヴミラーが殆どないので、スピードの出し過ぎに注意。なお、この道順で行けば、県道沿いに「豊原南島神社」、「笠松神社」、「日佐神社」がある。
大雄山山頂北端に展望台があり、そこから眺めると、水田が海に、丘が島に見える(写真上)。大雄山も、かつては「大ヶ島」という島だったのだろう(「大賀島」を「たかしま」と読んで、「吉備高島宮」の候補とする説があることは、「日佐神社」の項で書いた。)。
大賀島寺へは「笠松神社」からも登れるようで、同社が「笠松明現宮」と呼ばれていたこともあり、縁があるようだ。ちなみに、もと当寺境内にあった「日吉神社」が明治2年に社殿焼失のため、「笠松神社」相殿とされている。
当寺の境内には「大智明権現堂」があり、鳥居とともに、神社風の何となく妙な建物がある(写真下)。

泉北たろうさんのHPから(大雄山山頂への道順):http://www.geocities.jp/touringokayama/0504/0504_2a.html

岡山県神社庁のHPから(日吉神社(瀬戸内市邑久町豊原)):http://www.okayama-jinjacho.or.jp/cgi-bin/jsearch.cgi?mode=detail&jcode=12009

写真上:大雄山からの見晴らし


写真中:大賀島寺本堂


写真下:大智明権現社