備前の古社を訪ねる(備前国内神名帳の研究)

備前の由緒ある神社を巡礼する

コラム144.一宮(その7・美作国三宮~十宮)

2009-03-31 22:21:35 | Weblog
真庭市(旧・湯原町)社(やしろ)というところには、美作国の式内社10社11座のうち7社8座が集中している。最初からそうだったわけではなく、誰かが旧・大庭郡の式内社を全部集めたのだろうという(なお、長田神社には論社がある(真庭市蒜山下長田の「長田神社」)。)。集めたといっても、3つの場所に分かれていて、①佐波良神社と形部神社が2社相殿(社殿としては1つ)で、②横見神社は単独で、③壹粟神社2座・久刀神社・菟上神社・長田神社の4社5座が1つの敷地に並んで建っている。
一番大きいのが①で、外見上は1社にしか見えないが、形部神社が旧県社、佐波良神社が旧郷社とされ、それぞれ五宮、四宮とされる。どちらの祭神も和気氏の祖と関係があるとの伝承はあるが、なぜ相殿になったかは不明。次に大きい②横見神社は、県道56号線(湯原奥津線)沿いから少し離れたところにあり、十宮とされる。③全体で「二宮神社」と呼ばれ、小祠が4つ並んでいる。この「二宮」は「にのみや」ではなく、「ふたみや」と読む。なぜ「二宮」なのかは、当地区3ヵ所の式内社群の2番目にあるからという説や③のなかで最も大きい壹粟神社が2座であるからという説がある。壹粟神社は延喜式では1社2座だが、「三代実録」の記事等から壹粟神社と大笹神社であるとされる(何故1社2座になったかは不明。)。それで、菟上神社(もとは当神社のみが当地にあったという。)が三宮、壹粟神社(と大笹神社)が六宮・七宮、久刀神社が八宮、長田神社が九宮とされる。これで、三宮~十宮が揃う訳で、この八宮が共同で行う祭礼「八社神行」がある。
これだけ集まっていれば国司の巡拝も楽になると思うが、この状況をみると、「一宮制度」=国司巡拝の順番という通説が何となく怪しく思われてくる。


「Web魁」さんのHPから(形部・佐波良神社):http://websakigake.sakura.ne.jp/06-065.html

同(二宮神社):http://websakigake.sakura.ne.jp/06-064.html

同(横見神社):http://websakigake.sakura.ne.jp/06-063.html


写真上:形部神社・佐波良神社(2社相殿)


写真中:通称「二宮神社」。左から長田神社、莵上神社、壹粟神社2座、久刀神社。


写真下:横見神社

コラム143.一宮(その6・美作国三宮)

2009-03-30 20:38:45 | Weblog
美作国の式内社は10社11座であるが、美作国には一宮から十宮まであるという。ただし、その数え方はやや複雑で、一宮「中山神社」、二宮「高野神社」には異論ないとして(ただし、式内社「高野神社」には論社がある。前項参照。)、その次には、「天石門別神社」(美作市)が三宮を主張される。一方、これら3社以外の7社8座が真庭市社というところにあり、それが三宮~十宮とするのが通説?である(例えば、式内社研究会編纂「式内社調査報告第22巻(山陽道)」(昭和55年2月))。
「天石門別神社」(美作市)は、別名「滝の宮」というように、もともとは滝(「琴弾の滝」)を神格化したものとも考えられ、境内に磐座とされる石組みもある。鎮座地の移動の記録はなく、神社名も古来から変更がないとされる。創建時期は不明だが、社伝によれば、崇神天皇の時代、四道将軍大吉備津彦命が中国地方鎮撫のため西下した際、天手力男神の神助により目的を達したため、自ら祭主となって当神社を創建したという。この説話は、当神社社家の財田氏系図の端文によるものだが、財田氏は吉備氏の一族であることから創造されたものともいわれる。この沿革は伝説に過ぎないとしても、古社であることは間違いない。
ただ、当神社が三宮であるということは必ずしも古来から言われていたことなのかは疑問。例えば、上記の「式内社調査報告」のほか、「英田郡誌」(大正12年3月)、「岡山県神社誌」(昭和56年4月)には三宮であることについて特に記載はない。一方、「英田町史」(平成8年7月)やWikipediaの「美作国」の項などでは当神社が美作国三宮であるとしている。どうやら、当神社側は三宮であることについてさして興味はなく、美作市(旧・英田町)行政側の観光資源としての宣伝材料の1つという意味合いが強そうな気がする。
長くなってしまったので、真庭市社の7社8座については次項で。


岡山県神社庁のHP(天石門別神社(美作市)):http://www.okayama-jinjacho.or.jp/cgi-bin/jsearch.cgi?mode=detail&jcode=25021

「Web魁」さんのHPから(天石門別神社(美作市)):http://websakigake.sakura.ne.jp/07-067.html


写真上:「天石門別神社」(美作市)の参道入口の鳥居


写真中:「琴弾の滝」。当神社社殿の背後にある。


写真下:磐座。何となく異様な姿だが、本来の磐座の岩は、この石組みの中にあるともいわれる。「猟師塚」とも称され、天手力男神を当地に案内した猟師の塚(墓)であるともいう。

コラム142.一宮(その5・美作国一宮、二宮)

2009-03-29 19:12:44 | Weblog
吉備国が備前・備中・備後の3国に分国された時期は正確には不明だが、備前国から美作国が分国されたのは和銅6年(713年)4月3日と記録されている(続日本紀)。
美作国一宮「中山神社」の主祭神については古くから議論があり、現在では鏡作神とされているが、「大日本史」などでは吉備津彦命とし、「吉備津神社」を称していないが、「中山」という神社名は「吉備の中山」から採ったものとしている。社伝では慶雲4年(707年)の創建としているが、創建の日が4月3日(これを「シガサン」という。)で、美作国建国の日と同じことから、分国と同時に創建されたのだろうといわれている。鏡作神の素性がはっきりしないうえ、この創建時期からして主祭神・(大)吉備津彦命説にもかなり説得力はある。主祭神がどなたにせよ、「中山神社」が美作国唯一の名神大社であり、一宮であることに疑いはない。このように、備前国から分立された美作国に立派な一宮があるので、備前国・備後国には一宮がないとする(備中国一宮「吉備津神社」をいわゆる三備一宮とする)説が攻撃される所以である。
美作国の一宮が「中山神社」で、二宮が「高野神社」であることも特に異論はない。しかし、式内社「高野神社」には判定困難な論社がある。一方が津山市二宮に、もう一方が同じ津山市の高野本郷にある。この判定を論じれば1冊の本が書けそうだ(例えば、藤本頼生著「美作国式内社考証をめぐる諸問題」)。管見では、地名を神社名としている津山市高野本郷の「高野神社」が本来の式内社であったが、その後、津山市二宮の「高野神社」が勢力を伸ばし、二宮の地位を獲得したのではないかと思われる。「一宮」を制度とみなければ、式内社に拘る必要もないのではなかろうか。

岡山県神社庁のHP(中山神社):http://www.okayama-jinjacho.or.jp/cgi-bin/jsearch.cgi?mode=detail&jcode=03056

同(高野神社(津山市二宮)):http://www.okayama-jinjacho.or.jp/cgi-bin/jsearch.cgi?mode=detail&jcode=03005

同(高野神社(津山市高野本郷)):http://www.okayama-jinjacho.or.jp/cgi-bin/jsearch.cgi?mode=detail&jcode=03065


写真上:美作国一宮「中山神社」


写真中:美作国二宮「高野神社」(津山市二宮)。鳥居前の石柱に「式内高野神社」「美作二宮」とある。


写真下:「高野神社」(津山市高野本郷)。こちらの石柱には「式内社高野神社」とある。

コラム141.一宮(その4・備中国)

2009-03-28 19:20:11 | Weblog
備前国には「一宮」を称する神社が3つもあったが、備中国一宮は「吉備津神社」以外にはない。
「一宮」が立派過ぎて、「二宮」以下は殆ど話題に上らない。だが、岡山市北区上高田にある式内社「皷神社」が「二宮」を名乗る。鳥居の扁額にも「二宮皷神社」とある(写真上)。なぜ「二宮」とされたかは不明だが、主祭神が大吉備津彦命の后とされる高田姫命であることに関係しているのだろう。大吉備津彦命はもともとヤマトの皇族であり、四道将軍として山陽道に派遣され、吉備国を平定した後はヤマトに戻ったというのが自然だが、吉備国に残り、吉備氏の祖となったともいわれる。こうしたことから、「一宮」「二宮」が「吉備津系」の神社であることは当然ともいえる。「三宮」以下は不明。
備中国の式内社は18社であるが、個性的な神社が多い。例えば「麻佐岐神社」(総社市秦)は、拝殿のみで本殿がなく、磐座を直接祀っている。「備中国最古之社」、「全国随一最高之磐境」などといった小さな標識が立てられている。最古とか最高とかの真偽は不明だが、古式の祭祀形態を表現していることは確かだろう。岡山県神社庁のHP(下記)では「本国一宮格を定められた」と記されている。しかし、「一宮(その3・石上布都魂神社)」の項で書いたように、これは古さの問題ではない。もちろん、(「一宮」でなければ)「二宮」「三宮」であることにも、さしたる意味はないのだろうが。


岡山県神社庁のHP(皷神社):http://www.okayama-jinjacho.or.jp/cgi-bin/jsearch.cgi?mode=detail&jcode=19062

同(麻佐岐神社):http://www.okayama-jinjacho.or.jp/cgi-bin/jsearch.cgi?mode=detail&jcode=19037


写真上:皷神社鳥居。「二宮皷神社」とある。


写真下:麻佐岐神社。本殿はなく、玉垣に囲われた「磐座」そのものを祀る。

コラム140.一宮(その3・石上布都魂神社)

2009-03-24 20:00:14 | Weblog
「石上布都魂神社」も「全国一の宮会」に加盟し、「備前国一宮」を称される(写真:社殿前の石柱に「備前一宮」とある。)。その趣旨が明確でないが、一宮が「国司が赴任後最初に参拝する第一の神社」(通説)の意味であるとすれば、そうした根拠があるのだろうか。
大和国「石上神宮」は「記紀」に記された最古の神宮とされるが、当神社はその元宮であるとの説があり、そうであれば確かに吉備国でも最古の神社なのかもしれない。当神社の祭神は素盞嗚尊であるが、明治時代以前は素盞嗚尊が八岐大蛇を斬った十握剣の霊=布都魂を祀ったものとされていたという。そもそも「フツ」という語は、物を断ち切る音を表現しており、剣の鋭さを神格化したものともされる。こうしたことは、古式の祭祀を反映したもので、スピリットを「神」とする考え方だろう。
ただし、残念ながら、後世にはこうしたスピリット信仰はあまり高く評価されなくなったように思われる。磐座祭祀から神社となったと思われる古社もそうだが、神階は必ずしも高くはない。当神社の解説に「備前国総社神名帳では正二位と記載されている」と書かれているものが多いが、神名帳西大寺本では従四位下となっている(「吉備津彦神社」は一品、「安仁神社」が正二位。赤坂郡では「布勢神社」と「高蔵神社」が従二位など、当神社より高い。)。
上に「一宮」の通説的な定義を書いたが、「一宮」を官製・公認の制度とする立場からは、中央政府からの通達等が「一宮」を通じて伝達されたのではないか、とする説もある。その当否は別にして、「一宮」は単に精神面での権威(それは古い由緒などからもたらされる)だけでなく、経済的・政治的な権威も必要であったのだろう。その意味で、当神社は、あまりに素朴で、深奥にすぎると思われる。


玄松子さんのHPから(石上神宮):http://www.genbu.net/data/yamato/isonokami_title.htm

コラム139.一宮(その2・安仁神社)

2009-03-22 16:11:07 | Weblog
「安仁神社」は延喜式神名帳にその名がある、いわゆる式内社であるだけでなく、全国に227社しかない「名神大(社)」である。名神大社は美作国では「中山神社」、備中国では「吉備津神社」の各1社で、いずれもその国の「一宮」となっている。したがって、備前国唯一の名神大社である「安仁神社」こそが「一宮」なのだ、という主張がされるのだろう。そして、もともと当神社が「一宮」だったのだが、承平・天慶の乱のとき、当神社は藤原純友側に味方したため、「一宮」の地位を剥奪されたのだ、とされる(Wikipediaの当神社の項などにも記されている。)。しかし、これは、「一宮」という社格が中央政府から公認されるもの、との意識が強すぎるように思われる。また、承平・天慶の乱のときに備中国「吉備津神社」が賊鎮定のための祭祀を行い、その功によって「一品」に進められたということは確かだが、それが備前国「吉備津彦神社」を「一宮」にすることになったとも考えにくい。当神社が古い由緒を有する名社であることは間違いないが、やはり「大吉備津彦命」が吉備国全体の守護神として地元の崇敬が篤く、「吉備津彦神社」が「一宮」と認められていったのだろうと思われる。むしろ、当神社が備前国「二宮」であることは古くから認められていたようである(写真上)。多くの国で「二宮」以下は明確でないなかでは、相当の地位にあるといえよう(ちなみに備前国「三宮」は「神根神社」と目されるが、明確でない。)。それでも「二宮」では大いに不満なのだろう、今では「備前国総鎮守」と称するようになっているようだ(写真下)。
なお、当神社の現在の鎮座地は岡山市東区西大寺一宮であるが、もとの大字は藤井といった(国内神名帳西大寺本に「藤井村」の脚注がある。)。これは、昭和31年(1956年)に西大寺市(当時)に編入される際、既に藤井(旧・古都村藤井)という地名があったため、一宮に改めたもの。したがって、もとから一宮という地名であったわけではない。ただし、改名当時の村名は「大宮村」であり、もちろん、これは当神社に因んだものであろう。

yamaneさんのブログ「岡山県邑久郡大宮村大字藤井」から:地元の方のブログなので、「深い」です。:http://blogs.yahoo.co.jp/fujii_yamane/folder/867666.html


写真上:境内にある「安仁神社郷土自然保護地域」の看板。「備前二の宮ともよばれ」との記載がある。



写真下:参道入口の石柱には「一宮参道」とある。新しい看板では「備前國総鎮守」となっている。

コラム138.一宮(その1・吉備津彦神社)

2009-03-20 21:00:40 | Weblog
備前国には「一宮」を称する神社が3つある。「吉備津彦神社」、「安仁神社」、「石上布都魂神社」である。それぞれの項でも少し触れたが、「一宮」ということについて整理しておきたい。参考文献は多数あるが、齋藤盛之著「一宮ノオト」(平成14年12月)が分かりやすく、要点を衝いている。
「一宮」とは一般に、ある地域の中で第一とされた神社で、郡や郷の「一宮」もあるが、通常は令制国(68国)のそれをいう。そして、通説によれば、国司が赴任後にまず参拝するのが「一宮」で、続いて「二宮」、「三宮」・・・となる。「一宮」は、平安時代後期から鎌倉時代初期に成立した一種の社格とされるが、これが(官製の、あるいは公認の)制度であったかどうかは争いがある。制度として定めた文書は見つかっておらず、多分、その神社の由緒や地域の実情に応じて自然に決まってきたのだろうと思われる。国司が最初に参るから「一宮」ではなく、「一宮」だから最初に参ることになったのだろう。制度ではなかったから、厳密に決まった基準はなく、国によっては「一宮」が複数あったり、時代によって変遷があったりしているようだ。
さて、備前国だが、メジャーなのは「吉備津彦神社」(写真:参道前の鳥居の横の石柱に「備前一宮」とある。)。最寄駅もJR「備前一宮」駅である。吉備国が備前・備中・備後の3国に分国されたとき(7世紀後半、天武帝の頃?)に備中国「吉備津神社」から分祀されたといわれるが、「吉備津彦神社」の伝承によれば創建は推古帝の時代とされるので、もともと神社(あるいは祭祀場所)があったところに「吉備津神社」を勧請したのかもしれない。問題は、「吉備津彦神社」が式内社でないことである。これは、備後国の「吉備津神社」とともに、「一宮」のたった2つの例外とされる。そのため、式内社であるだけでなく、備前国唯一の名神大社である「安仁神社」が本来の「一宮」であったとされる根拠にもなっている(以下、次項)。


「全国一の宮会」さんのHP:http://www.ichinomiya.gr.jp/

コラム137.箱畳石

2009-03-04 23:11:53 | Weblog
「大石箱疊神社」(2008年6月14日記事)を再訪した。お恥ずかしいが、最初に参拝したときには、ご神体の「箱畳石」を見損ねていたのである。当神社は神殿がなく、巨大な岩に接して拝殿が造られているので、その巨岩が「箱畳石」だと思い込んでいた。実際には、正面の左手の小道を降りていくと山腹に露出している。「箱畳石」という名の通り、四角い箱のような石が積み重なっているものである(写真上)。自然の石の節理で、備中国の式内社「石疊神社」が思い出されるが(同神社のご神体はまた別格の威容である。)、小生は栃木県鹿沼市でみた「三枚石」を思い出した。これは「古峰ヶ原(こぶがはら)」にある石で、平たい石が三枚積み重なっているため、その名があるが、「三枚」は「三昧」に通じ、修験の修行の場所となっていた。また、近くに「古峯神社(通称:天狗の社)」という古社があり、日光の修験と深いつながりがあった。「三枚石」は広場にあるが、「箱畳石」は山腹に埋まっているし、石の前は狭い。そういうこともあって、「箱畳石」のほうが、より素朴に感じる。
ところで、近くに古社「天地神社」(2008年6月9日記事)があるが、その境内に「大石箱疊神社」の遥拝所の石碑が立っている。岡山県神社庁のHPでは「大石箱疊神社」の祭神が明記されていないが、一般には伊弉諾尊・伊弉冉尊とされている。元は素朴な巨岩信仰だったのが、後世に原始神である伊弉諾尊・伊弉冉尊を当てたのだと思われる。「天地神社」の祭神も伊弉諾尊・伊弉冉尊とされていることから、あるいは「天地神社」は「大石箱疊神社」の里宮だったのではないだろうか。


栃木県観光協会のHPから(三枚石新道の紅葉):http://www.tochigiji.or.jp/1279.html


写真上:箱畳石


写真下:「天地神社」境内にある「大石箱疊神社」遥拝の石碑

コラム136.佐伯天神山(その2)

2009-03-03 23:03:46 | Weblog
「天石門別神社」(和気町)の項(2008年5月29日記事)で、佐伯天神山自体が石の壁のようだ、と書いた。「天石門別神社」裏から登ると、正にその通りで、狭い尾根に細長く山城の跡が続いており、塀の上を歩いているような気分になる。「天石門別神社」のところが北西の端で、東南の方に歩いていくのだが、浦上宗景の「天神山城」の本丸は山頂(409m)より北西側にある。山頂近くには、室町時代から「前期天神山城(太鼓丸城)」があったという。
「天石門別神社」の旧社といわれる「天津神社」は、「天神山城」本丸の脇にあり、ちょうど天瀬登山道を登り切ったところにある(登山にあまり興味がなければ、こちらから登ったほうが楽。)。ただし、今の小祠からは、往時の神社の姿は何とも想像できない。
一方、「太鼓の丸」とも呼ばれる「前期天神山城」側に「下の石門」、「上の石門」(写真上)、「石門」(写真下)というものがある。現地の説明板では、敵の侵入を防ぐためのもの、といった感じで書かれており、人工物のようなニュアンスになっている。これらの「石門」が天然物か人工物かは不明だが、「太鼓の丸」の辺りは眺めがよく、上が平らな岩も多く露出している(写真中)。元々は、この辺りに古代祭祀跡があったのではないだろうか(妄想)。
古代祭祀跡のある山に、後世、山城が築かれるケースが多いとされる。もちろん、自然の要害を利用したのだろうが、一つには神仏の加護を背にして戦うという意味もあっただろう。そうすると、古代は素朴な天津神信仰であったのが、敵を防ぐ石門の神を祀るようになるのもあり得ることと思われる。
なお、「天石門別神社」(和気町)から北東に直線距離で約12kmのところに、美作国三ノ宮・式内社「天石門別神社(通称:滝の宮)」(美作市)がある。これは強ち偶然ではないと思われる。


写真上:「上の石門」という名の石の積み重ね


写真中:「太鼓の丸」跡(山頂近く)


写真下:「石門」という名の四角い大石


コラム135.佐伯天神山(その1)

2009-03-02 22:25:08 | Weblog
和気町(旧・佐伯町)にある「天神山」に登った。なかなか面白かったので、2回に分けて書く。
備前国内神名帳に載る古社「天石門別神社」(和気町)の裏に登山口があり、当神社自体、かつては山上にあったというので見に行ったわけである。世の中には、登山愛好家、城愛好家が多いようで、「佐伯天神山」とか「天神山城」とかで検索すると、それこそ山のようにヒットする。
「天石門別神社」裏から登ると、確かに猛烈な急登で、ロープを伝って登る岩場もある。小生、実は登山や城にはあまり興味がないので(興味があるのは神社と岩だ。)、とにかく登ると40分くらいで漸く城跡らしいところに出る。この山城は細長い尾根を利用して造られているので、そこは最も端のところで、本丸はまだ先。
本丸の脇の土塁の上に「天津社」の小祠があった(写真下)。案内板の解説によれば、天文2年(1533年)の築城時に山麓に下ろされ、現在の「天石門別神社」になったという。もちろん、「天神山」の「天神」は菅原道真公ではなく、天津神だったのだろうから、「天津(神)社」でよいのだろう。
ではなぜ、「天石門別神社」なのだろうか。それは次項で。


「岡山博物図鑑」さんのHPから(天神山城):http://www.jaja.co.jp/ts/iroiro/saeki/saeki1.htm


写真上:登山道から見える奇岩


写真中:天神地蔵。登山道の途中に立派な案内板があったので、行ってみると地蔵自体は小さい上に磨耗しているが、そこにある岩は実に立派。


写真下:山上の「天津社」