備前の古社を訪ねる(備前国内神名帳の研究)

備前の由緒ある神社を巡礼する

コラム157.続・稲都神社(その4・阿字八幡宮)

2009-04-30 09:21:39 | Weblog
阿字八幡宮(あじはちまんぐう)。
場所:瀬戸内市邑久町山手1026。高砂山の南の中腹にあり、邑久町中心部から高砂山の山裾の道路を東に進み、「真徳」という地区名の案内板のあるところで山の方に上って行く。途中から徒歩の山道。地図でみると、東の方から集落を通らずに行く道路もあるようで、神社の隣の墓地に駐車スペースがあるが、その道路の入口がよくわからない。
元は「王金真徳阿字八幡宮」と称したといい、由来は不明だが、いかにも仏教臭い。特に、「阿字」というのは弘法大師が伝えたという「阿字観」を想起させる。現在も、当神社の隣に観音堂があり、墓地が広がっている。
ただし、高砂山には古墳が集中しており、真徳という地区には貝塚が発見されているなど、先史時代から集落があったところであろうから、古くからの祭祀地があってもおかしくはない。
なお、「改訂邑久郡史下巻」(昭和29年10月)では、「大垣八幡宮」について、「王金明徳阿字八幡宮と称う、真徳福都神社神社境内から勧請」したと記している。

岡山県神社庁のHP:http://www.okayama-jinjacho.or.jp/cgi-bin/jsearch.cgi?mode=detail&jcode=12018


写真上:阿字八幡宮の鳥居


写真下:鳥居前にある立石(陽石か?)

コラム156.続・稲都神社(その3・貴船神社)

2009-04-29 17:39:01 | Weblog
「稲都神社」の分社の伝承で不思議に思うのは、①分社の時期と②祭神である。
①伝承では宝亀2年(771年)に分社したというが、いわゆる「宇佐八幡宮神託事件」(道鏡事件)があったのが神護景雲3年(769年)であり、ちょっと早すぎる。一説に、和気清麻呂が「八幡雄島宮」を「宇佐神宮」から勧請したのが、やはり宝亀2年とされて、これが備前国への八幡神勧請の最古か?とも思われる。また、この頃に分社されていたなら、備前国内神名帳(成立は早くても平安時代末期だろう。)に「稲都神社」として載っているはずがない。
②分社は全て八幡宮かと思っていたのだが、貴船神社(瀬戸内市、写真上)もその1つのようだ。そうすると、もとの祭神はどういう神だったのだろうか。考えられるのは、地名にも残っているとおり、元は尾張氏の氏神を祀っていたが、その後衰退し、中世以降隆盛した八幡宮などの箔付けのために名前のみが利用されたということなのではないか。
ところで、「稲都」の読み方は通常「いなづ」としているが、「貴船神社」(瀬戸内市)の社記には「いなと」とルビが振ってある。同じ備前国内神名帳の「都羅比神社」は連島の神と考えられるから、読み方は「つらひめ」だろう。一方、岡山県神社庁HPの「百枝八幡宮」の記事では「稲戸明神」と記されている(これは誤記のようだが。)。もし読み方が「いなと」なら、尾張国の式内社「尾張戸神社」が連想される(ただし、読み方は「おわりべ」だが。)。この連想は妄想に近いが、「稲都神社」はあるいは水田開発の守護神だったのかもしれない。
そうすると、水神として貴船神社(高オカミ神)を勧請する理由もあり、境内末社に「奥神社」(写真下。祭神は倉稲魂尊)があるのも頷ける。倉稲魂尊が稲荷神社でなく、「奥神社」として祀られるのは、ひょっとするとこの「奥神社」こそが元の「稲都神社」かもしれない。
ところで、「稲都神社」の旧社地とされる「旧山手村早稲田休所付近(現在の山手半田の小高い所)」というのは、大垣八幡宮と貴船神社を結ぶ直線の中間あたりの北(大垣八幡宮の北西、貴船神社の北東)にあるようで、「改訂岡山県遺跡地図<第6分冊岡山地区>」(平成15年3月)によれば、「山手休所古墳」があるとし、「円墳。径8.7m、高さ0.8m。墳頂部に楕円形の盗掘坑が残存。」という。
貴船神社(瀬戸内市)については、2008年10月14日記事も参照(「殿上東神社」・「殿上西神社」の論社と磐座について記しています。)。

岡山県神社庁のHP:http://www.okayama-jinjacho.or.jp/cgi-bin/jsearch.cgi?mode=detail&jcode=12017


写真上:貴船神社(瀬戸内市)


写真中:貴船神社の社記


写真下:奥神社。なお、稲荷神社は別にある。

コラム155.続・稲都神社(その2・大垣八幡宮)

2009-04-28 21:21:45 | Weblog
大垣八幡宮(おおがきはちまんぐう)。
場所:瀬戸内市邑久町山手1679。邑久中学校の北東約600mのところにある山手公民館の先からは徒歩だが、1本北の方に山手林道があり、道幅は広くないがきれいな舗装路で自動車で行ける。これを上って行くと社殿前にでる(駐車場あり。)。途中に「祇園宮」と「加茂神社」がある。「大垣八幡宮」から更に上に行けば、「岩屋山展望台」がある(そこからは引き返したほうがよい。)。カーナビでみると、展望台のすぐ東が、旧・邑久町中心部を見下ろす高砂山(135m)山頂のようである。高砂山山上には古代祭祀跡があるようで、「改訂岡山県遺跡地図<第6分冊岡山地区>」(平成15年3月)によれば、「山手高砂山祭祀跡」として、「人頭大の破礫を南北4.4m、東西3.5m、高さ0.9mに積上げ、中央部が円形に窪んでいる。」と記されている。これは、まさに磐座であろう。
当神社が「稲都神社」後継の最有力候補であることも頷けるし、それとは別にしても、高砂山は古来から聖地とされていたものと思われる。

岡山県神社庁のHP:http://www.okayama-jinjacho.or.jp/cgi-bin/jsearch.cgi?mode=detail&jcode=12016

「岡山県の山と三角点」さんのHP(高砂山):http://www.geocities.jp/komaithi/b/dtakasagoyama.html
山上に今も磐座らしきものがあるようだが、そこに行くための道はないようである。


写真上:大垣八幡宮。社殿と鳥居の間を林道が通っている。


写真中:高砂山山頂付近の岩屋山展望台からの眺望(西方向)。高砂山下の条里制水田、旧・邑久町中心部、遠くに岡山市東区西大寺の東部クリーンセンターの高い煙突が見える。


写真下:展望台下の巨岩


コラム154.続・稲都神社(その1・総論)

2009-04-27 22:01:03 | Weblog
備前国内神名帳に載る「稲都神社」(旧邑久郡)は、現存しない。
例えば、同じ旧邑久郡の「品治神社」は、同名の神社が鳥取市にある。鳥取市の「品治神社」はスサノオ系の神社であるようで、備前国の「品治神社」も出雲とのつながりが考えられる。しかし、「稲都神社」はインターネットで検索しても全くヒットしない。
その代わり、岡山県神社庁のHPで、いくつか同じような記事にぶつかる。それは、「旧山手村早稲田休所付近(現在の山手半田の小高い所)に鎮座していた稲都神社を宝亀2年(771年)に五ヵ所に分社した」という記述である。その5つの分社の1つが「百枝八幡宮」で、「稲都神社」の項(2008年6月7日記事)に書いた。岡山県神社庁のHPによれば、「百枝八幡宮」はもともと高倉下命(尾張連の祖)を祀っていたが、「稲都神社」が分社されたときに八幡神を祀り、尾張の地の総氏神としたということのようである。しかし、それはつまり、稲都明神(HPでは稲戸明神)=八幡神ということなのか?そして、5つに分社されたのに、なぜ「百枝八幡宮」のみが「稲都神社」の後身なのか。
ところで、「邑久郡誌第二編」(昭和48年10月)によれば、当神社の項に、「往古早稲田に座す稲都にて5社あり、中古宝亀2年9月5箇所へ遷座す、祭神天照大神・月読命・稲田姫命。王金明徳阿字八幡宮邑久村真徳八幡山へ遷座、加茂大明神邑久村字天皇山へ遷座、海金百枝松八幡尾張村へ遷座、貴船大明神山田庄村へ、稲都神社は高砂山へ遷座。明治30年(1897年)当社旧号稲都神社御復号請願せしことあり。」(読みやすいように一部修正)とあるが、出典は「古記」としか記されていない。


写真上:百枝八幡宮の境内末社の乾角神社。高倉下命(尾張連の祖)を祀る。あるいは、これが「稲都神社」か。


写真下:山手半田付近?。左が貴船山系、右が高砂山系。後で確認したら「休所」というのは、画面の右端あたりのようだ。ところで、「半田」という地名は「ハタ」であって、秦氏と関係がある・・・?


コラム153.矢坂山・富山城址(その4)

2009-04-26 20:08:01 | Weblog
矢坂東町から矢坂山に登ると、「こうの岩」という巨岩がある。「こう」というのは本来「高」や「神」で、いかにも磐座の名前である。
矢坂山・富山城址からは東にあり、「すべり山」からも行けるが、矢坂東町公民館の北から登ると、すぐ。途中に「←こうの岩」というハイキングコース案内板があるが、どれが「こうの岩」なのかわからない。
頂上からは金甲山など南側がよく見える。かつて、山の南側が海だった頃は、海から見える目印だっただろう。

wenigStimmeさんの動画(岡山大安寺・魚見山):http://www.youtube.com/watch?v=VZWohrzQ66Q


写真上:下から見ても巨岩がよく見える。


写真中:頂上近くの巨岩


写真下:頂上に平らな大岩があり、南側の眺望が優れている(あいにく写真を撮った日は荒天でした。)。

コラム152.矢坂山・富山城址(その3)

2009-04-23 22:13:04 | Weblog
矢坂山の北側は「矢坂(本町、東町、西町)」、南側は「大安寺(中町、東町、西町)」という地名である。大安寺というのは、聖徳太子創建伝承を持つ奈良の古寺で、南都七大寺の1つとして「南大寺」と呼ばれた。現在、岡山市北区大安寺西町に日蓮講門宗「大安寺」があるが、もちろん関係はない。
岡山市の「大安寺」という地名は、奈良時代から大安寺の荘園であったことに由来している。天平19年(747年)成立の「大安寺伽藍縁起并流記資材帳」によれば、笹ヶ瀬川が矢坂山(当時は「石木山」という名だったらしい。)の西で海に注ぎ、入り江となっていた東岸の原野(「長江原」と称した。)50町歩が大安寺領とされていた。
平安時代には、備前国御野郡の総社が置かれ、この地の豪族富山氏の先祖が郡司と神主を兼ねた。富山家は中世に武士化し、矢坂山に城を築いたとされる。なお、富山氏は文明年間に金川城主松田元隆に攻められて敗北、子孫が(北向)八幡宮の神主になったという。
さて、御野郡の式内社「石門別神社」の元宮が矢坂山にあったということについて、備前国総社宮武部宮司は、かつて次のように書かれたことがある(岡山日日新聞2005年7月30日)。「万成山に石門別神社があったと考えてもおかしくはない。ただし、その遷座地(北向八幡宮)が南の大安寺ではなく、北の矢坂であることは「吉備温故秘録」と矛盾するので、断定に踏み切れない。」(要約)。しかし、矢坂はもともと大安寺村の枝村であり(江戸時代には「矢底村」といったらしい。)、大安寺(村)の一部であったようである。なぜ、あえて北向きにしたかはわからないが、矢坂にあったとしても「大安寺村鎮座」と記されたこともあり得るだろう。だからといって、やはり断定はできないのだけれど。


写真上:北向八幡宮


写真中:北向八幡宮境内末社。ひょっとすると旧御野郡総社?


写真下:北向八幡宮そばにある竜王堂の磐座。説明板によれば、日蓮宗に深く帰依した富山城主松田氏が艮(うしとら)封じとして城の東北に八大竜王を勧請したものという。北向八幡宮も、これが北向きの理由かもしれない。

コラム151.矢坂山・富山城址(その2)

2009-04-22 22:43:34 | Weblog
矢坂山の山頂には「富山城」の本丸があったというが、登り道にも山頂にも城の遺構のようなものは殆ど無い。ただ、確かに磐座のような岩がある(写真上)。
矢坂山は、(特にその南側は)地元では魚見山と呼ばれているらしい。今では海岸線は遥か彼方にあるが、古代には南側の山麓まで海だったようだ。だから、南斜面に磐座があっても、備中国一宮「吉備津神社」と同様に、南側には神社はできなかった。
岡山市北区矢坂東町にある通称「北向八幡宮」も北麓にあるが、現在地への遷座は明治27年(1894年)のことだという。「北向八幡宮」はもともと万成山山上にあったというが、もともと八幡神勧請の前に古代祭祀場(磐座)があったのだ、という説が多い。そして、それは式内社「石門別神社」の元宮ではないか、というのである。だが、海岸線が南に遠く離れたあとも、南麓にそれらしい神社があった痕跡はないようだ。あるいは、現在地(岡山市北区大供表町)に遷座したから、無くなったのか。


岡山市のHPから(富山城):http://www.city.okayama.okayama.jp/museum/joukan/07.html

「よっさんとクレーテのページ」HPから(いわくらの会1月例会):http://www5.ocn.ne.jp/~yoshik/reikai1.html


写真上:山頂(富山城祉)の磐座?


写真中:同じく山頂の平らな岩・・・と思ったが、裏に回ると大岩盤だった。


写真下:「すべり山」。ちょっとシュールだが、樹木や岩の配置が寺の庭のようにも見える。

コラム150.矢坂山・富山城址(その1)

2009-04-19 23:19:46 | Weblog
岡山市北区大供表町に鎮座する式内社「天石門別神社」は、もとは矢坂山(132m)山上にあったのではないかという説があることは、同神社の項(2008年6月21日記事)に書いた。矢坂山という名は「弥栄」から来ているという説もあり、これも「聖なる山」らしい。中世には「富山城」が築かれ、最近も北側は万成石の採掘場となって大きく削られるなど、古代とは大幅に変わってしまっていると思うが、今もなお磐座らしい岩もあるというので、現地に行ってみた。
JR「大安寺」駅のすぐ横の踏切を渡り、北へ進むと東西に走る旧道があり、角の上正野田公会堂を左(西)に行けば「松山長昌寺地蔵石仏」がある(写真上)。矢坂山への登り口は右折(東へ)し、更に山側の狭い道に入る。題目石のあるところ(大安寺中町13という住所表示がある。)を登っていく。「うおみやま・とみやまじょう」という案内板が随所にあり、登り始めは散在する墓地への分岐に迷いやすいが、墓地群を抜ければ間違うことはない。ただし、ここを登る人の関心は「富山城址」らしく、岩への案内はない(当然か。)。気をつけてみれば、木立の中に、立石(写真上)や平らな大岩(ここには「展望所」の案内板がある。)がある。(以下、次項に続く。)


「沸茶の庵」さんのHPから(富山城跡):http://putcher.sakura.ne.jp/shuuhen/siro/okayama/tomiyama/tomiyama.htm
登り口の写真が載っているので参考に。


写真上:「松山長昌寺地蔵石仏」(大安寺西町)。いわゆる磨崖仏であるが、もっと上の方にあったのが、落ちてきたものという。応永10年(1402年)の銘があるが、「松山長昌寺」がどこにあったか不明。


写真中:細長い石を立てたもの。特に案内はない。


写真下:「展望所」の平らな大岩。山の中腹だが、眺めが良い。

コラム149.化氣神社と氣比神宮

2009-04-17 23:34:43 | Weblog
社伝によれば、「化氣神社」(写真、吉備中央町案田に鎮座)は、四道将軍大吉備津彦命とその異母弟若日子武命が越前国敦賀気比神社の祭神である伊奢沙和氣神こと御食津神を祀ったのが最初とされる。気比神社は現在「氣比神宮」と号し、北陸道総鎮守・越前国一宮を称する大社である。「化氣神社」の名は、氣比を逆に間違えて比氣とし、比の字を化と誤ったものだという(う~ん・・・)。
氣比大神(伊奢沙別命)は、敦賀の「津」に発展した海人族の神であったが、早くにヤマト政権に恭順して、主祭神に祀られたのではないか。朝鮮半島との関係も深く、仲哀天皇・神功皇后と「三韓征伐」の伝説も残る。
大吉備津彦命はヤマト政権側の征服者だが、吉備国も元は海人族の国だったのだろうし、瀬戸内海には仲哀天皇・神功皇后の伝説も多く残っているなど、何か関連がありそうだ。海から離れた山の中に気比大神が祀られる「化氣神社」の意味はもっと研究されてもよいと思われる。
なお、備前国一宮「吉備津彦神社」は、天照大御神を気比大明神(気比比売大神)として祀り、元は「気比太神宮」といったという話もある。玄松子さんは、この「気比」は「けひ」ではなく、「きび」だろうと言っている。これも何か関連があるのか? よくわからないところである。


氣比神宮のHP:http://kehijingu.jp/

玄松子さんのHPから(吉備津彦神社):http://www.genbu.net/data/bizen/kibituhiko_title.htm

コラム148.本宮山(吉備中央町)

2009-04-13 22:21:23 | Weblog
古社「化氣神社」(2008年6月24日記事)は、もとは本宮山山上にあったという。そこで、「化氣神社」から本宮山山頂まで歩いてみた。
地図でみると、神社社殿前から向かって右(東)に真っ直ぐ進むと林道入口近くに出る歩道があるようにみえるのだが、よくわからない。やむなく車道に戻り、北上。最初の分岐で右折(東南へ)、「チロリン村」方面に向かう。分岐付近に木製の「化氣神社」鳥居があるが、この参道は今は使われていないようで、倒木が酷く、入らないほうがよい。また、分岐のところに案内図があるが、本宮山は記載がない。オートキャンプ場「チロリン村」の前を通り過ぎ、更に少し進むと林道ゲートがある。「化氣神社」から直線距離だと約500mだが、車道だと約1500m。ゲートを潜ると、「本宮山山頂迄3200m」の案内板がある。林道は未舗装だが、案外広く、平坦で歩き易い。途中に「旭川の源泉」という湧水がある(写真上)。「山頂迄1000m」の案内板のところで分岐があるが、真っ直ぐ(右側)進む。ここから、やや勾配がきつくなる。「山頂迄50m」のところから山道に入るが、1分で山頂に至る。
「化気社有地」という杭が何本も立っているが、(本宮山はほとんど国有林だが)どうやら山頂のみ「化氣神社」の社有地らしい。「海神社」の小祠の横に石碑があるが、「化気神社々有地 御津郡加茂川町上田東字本宮山弐四壱四番地 境内地四四壱.六壱平方メートル(壱参参坪五九)」と記されている(写真中)。
中央に、覆屋の下に小祠が2つ並んでいる(写真下)。これが「化氣神社」と「大山祇神社」であるらしいが、崩壊寸前。木立で眺望は無く、特に磐座のようなものも無い。何故ここが聖なる山とされたか不明だが、「旭川の源泉」があるように、水の豊かな山だったかもしれない。「化氣神社」の主祭神「伊奢沙和氣神」は御食津神であるとされ、食物の神様である。また、ここは備前国の北西端の高山であるが、「化氣神社」が四道将軍大吉備津彦との関係も強いことを考えると、備中国一宮「吉備津神社」、二宮「皷神社」の北の線上にあることにも何か意味があるかもしれない。


写真上:林道の途中にある「旭川の源泉」


写真中:海神社と「化氣神社々地」の石碑


写真下:覆屋の中の2つの小祠。右の石祠は不動尊?