備前の古社を訪ねる(備前国内神名帳の研究)

備前の由緒ある神社を巡礼する

コラム261.一宮(その28・下総国・香取神宮)

2011-05-05 23:03:58 | Weblog
香取神宮(かとりじんぐう)。
場所:千葉県香取市香取1697。東関東自動車道「佐原香取IC」を下りてすぐの県道55号線(佐原山田線)を北西へ約1km。駐車場あり。
社伝によれば、創建は神武天皇18年(紀元前643年)。祭神は経津主大神(別名:伊波比主大神)で、創建時の事情は明確ではないが、大宮司が祭神の子孫と伝えられており、常に常陸国一宮「鹿島神宮」とセットで語られてきたことから、「鹿島神宮」の創建とも深い関係があったのだろうと思われる。因みに、現在では「神宮」号を称する神社も多いが、平安時代以降~明治時代まで、「神宮」と称していたのは、伊勢神宮(単に「神宮」といえば、伊勢神宮を指す。)・鹿島神宮・香取神宮の3社だけだったされる。
フツヌシは、いわゆる国譲り神話に登場する神で、タケミカヅチとともに葦原中国平定を成し遂げた神である。「フツ」というのは、刀剣が物を断ち切る音を表し、その刀剣の鋭さをいう言葉であるという。「出雲国風土記」等によると、本来、葦原中国を平定したのはフツヌシが主役だったのが、後に中臣氏(藤原氏)の勢力拡大によって、その祖神であるタケミカヅチのほうが主役とされるようになったとされる。フツヌシは、霊剣「フツノミタマ」を神格化したものであるとか、タケミカヅチの別名であるとか、言わば「フツヌシはいなかった」説もある。「フツノミタマ」剣の神霊は、備前国式内社「石上布都魂神社」や大和国式内社「石上神宮」で祀られ、いずれも物部氏に縁が深いので、中臣氏の伸張と物部氏の衰退によって、タケミカヅチとフツヌシの関係が逆転したのだろうという。
元々は農業神だったとか、水上交通(古代には、現在の利根川の北側は「香取海」という広大な内海があったといわれている。)の神だったとかともいわれているが、国譲り神話から、タケミカヅチとともに国家鎮護の武神として信仰された。現在の本殿等は、「鹿島神宮」・「香取神宮」ともに、江戸時代初期に徳川幕府により造営されたもので、印象が良く似ている。ただ、奥宮と要石の位置は、「鹿島神宮」のように本殿の奥ではなく、狭い旧参道脇のややわかりにくい場所にある。当神宮の要石(写真4)は、「鹿島神宮」の要石ほど知られていないようだ。当神宮の要石は、上面が凸型で、地上に出ている部分は小さいが「深さ幾十尺」とされ、貞享元年(1684年)に水戸黄門こと徳川光圀公が石の周囲を掘らせたが、根元を見ることができなかったという。当神宮と「鹿島神宮」の要石は地中でつながっているというトンデモ説(両神宮は利根川を挟んで約13km離れている。)もあるらしい。
ともあれ、「香取の神」・「鹿島の神」の御神徳により、震災が早く終息し、復旧・復興されるよう、お祈りいたします。


香取神宮のHP


写真1:社号標は「香取神宮」。正面参道両側に並ぶ土産物店の先にある朱塗りの大鳥居。


写真2:楼門


写真3:社殿


写真4:要石。朱塗りの大鳥居を入ってすぐ左の狭い道に入った先にある。


写真5:奥宮。当神宮の摂社で、経津主大神の荒御魂を祀る。朱塗りの大鳥居の手前から、向かって左の狭い道を上っていった先にある。


写真6:雨乞塚。奥宮の向かい側に現存最古の武術である天真正伝香取神道流の祖、飯篠家直の墓があり、その先にある。説明板によれば、天平4年(732年)、大旱魃のときに祭壇を設けて雨乞いを行った場所であるという。フツヌシが雷神=農業神としての性格を持っていることを示すものかもしれない。

コラム260.一宮(その27・常陸国・鹿島神宮)

2011-05-04 22:42:41 | Weblog
このたびの東日本大震災により被災されました皆様に謹んでお見舞い申し上げます。1日も早い復興を祈念いたしております。

関東に引っ越してきたので、まず鹿島神宮と香取神宮にお参りしてきた。特に、何はともあれ、地震を鎮めるため、要石にお祈りしてきた。

鹿島神宮(かしまじんぐう)。
場所:茨城県鹿嶋市宮中2306-1。JR鹿島線「鹿島神宮」駅の南東、約500m。駐車場有り。
社伝によれば、創建は神武天皇即位の年(紀元前660年?)という。天地開闢以前に高天原から天下った「香島の神」(建甕槌神または建御雷神)が霊剣「韴霊剣(フツノミタマノツルギ)」をもって神武天皇東征を助けたことから、その報恩のために祀ったのが始めとされる。
タケミカヅチは、大国主命の子である建御名方神(タケミナカタ)に勝って葦原中国を平定した神で、その後も、古代東海道の終点(=陸奥の入口)である常陸国に鎮座して東北の荒ぶる神々と対峙することとなったのだろう。ただし、元々は鹿島の土着神で、一般に海上交通の神であったといわれるが、雷に関係があることから、あるいは農業の神だったのかもしれない。中臣氏が常総地方の出身で、「香島の神」を信仰していたらしく、後に一族の氏神として春日大社(奈良市)に勧請した。このとき、御神体を神使である鹿に載せて運んだということから、「鹿島」という名を使うようになったともいう。
さて、茨城県は地震が非常に多いところである。気象庁のデータによると、1986~1999年(14年間)の各都道府県庁所在地における有感地震の回数をみると、茨城県(水戸市)は915回に及び、全国第1位になっている。全国平均は182回であったというから、いかに多いかがわかる。昔は、地震は地中の大鯰が起こすものとされ、これを当神宮境内の要石が押さえているといわれている。当神宮の要石は社殿の東の森の中に祀られているが、地上に出ている部分はごくわずかで、上面が窪んでいる。実は巨岩で、地中深く続いているとされ、有名な水戸黄門こと徳川光圀公が、要石の根元を確かめようとして七日七晩にわたって石の周囲を掘ったが、掘りきれなかったという。
現在、当神宮の参道は西側にあるが、かつては北側から参るようになっていた。北側に御手洗池があり、現在も清水が湧いているが、参拝者は御手洗池で身を清めてからお参りしたのであるという。そうすると、御手洗池~奥宮(本来の神社の位置か?)~要石が直線的に並ぶことになる。要石が磐座であったかもしれないというのは、上面が窪んでいるという形状も、一つの証拠ではないかと思われる。磐座には盃状穴(カップホール)があることが多いからである。


鹿島神社のHP


写真1:境内入口の社号標。震災により「大鳥居」が失われている。境内も多くの石灯籠が倒れており、地震の大きさがわかる。


写真2:社殿


写真3:奥宮。当神宮の摂社で、武甕槌大神の荒御魂を祀る。


写真4:大鯰を踏まえる建甕槌神のレリーフ


写真5:要石が祀られている。覗き込まないと、要石は見えない。


写真6:要石。地上に出ている部分はごくわずか。