備前の古社を訪ねる(備前国内神名帳の研究)

備前の由緒ある神社を巡礼する

コラム134.天王山遺跡の環状列石

2009-02-26 23:26:58 | Weblog
前項、「清田八幡宮」(2009年2月25日記事)に関しては、武鑓臣夫著「吉備の児島の総鎮守」(平成5年10月)が非常に詳しく、労作である。その中に、「天王山遺跡」の環状列石のことが記されていたので、見に行った。
「天王山遺跡」は、「清田八幡宮」現社地の西南にあった「天王山」という小山(高さ55m)の山頂に直径約2mの環状に並べられた20数個の石、及びその中心に漢字の「立」の字形の石組みのことである。「あった」と過去形なのは、瀬戸中央自動車道建設のため小山は切り崩され、「天王山」自体が平成5年に消滅してしまったためである。地元では、「立」の字形の石組みを祠とし、「天王様」と呼んでいたという。素盞嗚尊を祭神とし、正式には「荒神天王神社」と称したようである。現在は、瀬戸中央自動車道水島インターの少し北にある「荒神池」の畔に小さな「荒神社」があり、その脇に「天王山遺跡」の石組みが移されている(写真上・中)。「天王」といえばたいてい牛頭天王=素盞嗚尊のことだが、「荒神」と同様、仏教の神と習合した言い方である。これも、新熊野山信仰の影響だろう。
ところで、「清田八幡宮」にも「立」の字形の石組みがある(写真下)。「清田八幡宮」は清滝山から遷座したと言われているが、武鑓臣夫氏によれば、清滝山には先に地主神として「三輪神社」があった。「三輪神社」は「清田八幡宮」の摂社になっていたが、正徳年中(1712年頃)に大多羅寄宮に合祀されたという。「滝」といえば、神は龍又は蛇が定番なので、「三輪神社」(大神神社・美和神社)とは縁があろう。ただし、この「三輪神社」は仏教色、あるいは民間信仰色が強過ぎて、寄宮の憂き目に遭ったのだろう。一方、幸いにして「清田八幡宮」は手厚く保護され、県重文の優美な本殿が残された。


写真上:倉敷市曽原の荒神社。祠の中に「立」の字形の石組み


写真中:荒神社境内の環状列石と「立」の字形の石組み


写真下:清田八幡宮境内の「立」の字形の石組み

コラム133.清田八幡宮

2009-02-25 22:24:59 | Weblog
八幡神社(はちまんじんじゃ)。通称:清田八幡宮(きよたはちまんぐう)。
場所:倉敷市曽原1124。県道21号線(岡山児島線)から、水島インターチェンジの1つ東側(岡山市側)の交差点、コンビニ「セブンイレブン倉敷水島インター店」の向かい側(南)の道路に入ると、正面に鳥居が見える。駐車スペースあり。
創建年代は不詳だが、社伝によれば、神功皇后が所謂三韓征伐からの帰路、児島の「田槌の浦」に立ち寄ったことを記念して、その行幸した地を「清田」として八幡神社を建立したことを起源とする。「清田」は現社地の約1km北の辺りという。その後、いったん粒江「清滝山」に遷座したが、長徳3年(997年)現社地に移り祀られたとされる。八幡雄島宮・八幡和気宮と並び、備前国でも最古の八幡宮という。なお、下記の倉敷市教育委員会のHPでは、現社地への移転は承久元年(1219年)としているが、これは「児島郡誌」(大正4年9月)の記載によるものと思われる。このとき、当神社の別当であった「法輪山一等寺」(ただし、当時はまだ「一等寺」という名ではなかった。)が、新熊野山の寄進により社殿を建立したと伝えられる。
「児島一島の総鎮守」と呼ばれ、備前国内神名帳に載る「八幡神社(八幡明神)」に比定される最有力候補である。西行法師が当神社に2度訪れ、2度目には「昔見し松は老木になりにけり わが年経たるほども知られて」と詠んだといい、境内に「腰掛石」というものもある。ただし、この歌を詠んだ場所は「児島にある八幡神社」というだけで、当神社のことであるという確証はないらしい(例えば、岡山市南区郡にある「八幡若宮」にも同じ歌碑があるという。)。
西行が腰掛けたかどうかは別にして、あるいは、この石は「鎮座石」のような古代祭祀用の石だったかもしれない(また妄想?)。そうであれば、神功皇后云々はともかく、古い由緒のあることは感じられる。


岡山県神社庁のHP:http://www.okayama-jinjacho.or.jp/cgi-bin/jsearch.cgi?mode=detail&jcode=06017

倉敷市教育委員会文化財保護課のHPから(清田八幡神社本殿):http://www.city.kurashiki.okayama.jp/bunkahogo/shitei/sub4_kiyotahachiman.htm


写真上:清田八幡宮の鳥居


写真中:参道途中にある西行法師像。ここは寺院か、と一瞬錯覚。


写真下:清田八幡宮本殿。県重文。

コラム132.法輪山一等寺

2009-02-24 22:19:34 | Weblog
法輪山清浄院一等寺(ほうりんさん せいじょういん いっとうじ)。真言宗御室派の寺院で、本尊は阿弥陀如来(快慶作という。)。
場所:倉敷市曽原1139。県道21号線(岡山児島線)の「郷内」交差点から南の狭い道に入る(案内看板あり)。駐車場あり。熊野神社(倉敷市林)の西、約1kmのところにある。
寺伝によれば、天平9年(737年)行基の開基で、「護国寺」と称した。室町時代、新熊野山全盛時には五流一山の檀那寺であった。江戸時代、元禄期に仁和寺の末寺となって真言宗に属し、享保期に「法輪山清浄院一等寺」と公称するようになった、という。
今では、「十三仏霊場」(何故か15体の仏像があるが。)巡りが設けられていることで有名らしい。順に回ると裏山の頂上に至り(年寄りには無理ではないか?)、そこからの眺望もよい。
「児島郡誌」(大正4年9月。ただし、昭和52年9月復刻版)によれば、一等寺はもと「護国寺有南院」あるいは「新熊野山福聚寺有南院」と称し、曽原村の八幡神社(=「清田八幡宮」)の別当であったという。
梶川真著「一等寺の歴史」(昭和6年10月)によれば、新熊野山との関係は凡そ次のとおりと思われる。新熊野山の修験(山伏)は寺院(僧侶)とは異なるもので、「五流」というのは5つの「家元」のようなもの。寺は、寺領を持って経済的に豊かであり、また得度などの儀式を司っていたことから、教義・組織などは新熊野山とは別だが、「五流」のスポンサーになっていたということだろう(これが「檀那寺」の趣旨だろう。)。ところが、江戸時代、岡山藩の神仏分離政策により新熊野山は実質的に解体され、当寺は新熊野山との関係を断って、(正統の)真言宗に属し、寺名も改めたということになるようだ。(以上は「一等寺の歴史」の要約ではなく、小生の理解です。前掲書は、新熊野山に関しても大変参考になる本なので、是非一読をお勧めします。)。


写真上:一等寺


写真下:一等寺本堂。なお、本堂の裏に鳥居・社殿がある。「児島郡誌」にも「鎮守」とあるだけで、祭神は不明。

コラム131.熊野神社(倉敷市林)

2009-02-23 21:23:42 | Weblog
熊野神社(くまのじんじゃ)。通称:日本第一熊野十二社権現宮(にほんだいいちくまのじゅうにしゃごんげんぐう)。
場所:倉敷市林684。五流尊瀧院に行く道の途中にある。駐車場あり。
今では五流尊瀧院と熊野神社は分かれているが、かつては一体不可分のものだった。歴史と権威がありながら、熊野神社は延喜式神名帳や備前国内神名帳には記載されていないが、これは多分、実質的に寺院の一部であったことによるものだろう。一方、五流修験との関連が考えられる古社として、例えば、「木華佐久耶比神社」(2008年6月26日記事ほか)は、「福南山明現宮」と呼ばれて妙見信仰があったと思われ、五流修験の修行場だったともされる。「天石門別保布羅神社」(2008年6月27日記事)にも妙見信仰があった。もともと修験道には道教や陰陽道の影響があり、妙見・星辰信仰があった。また、紀伊国熊野本宮大社の神使である八咫烏は太陽に住むとされ、熊野本宮大社の由緒でも太陽や月との関係が示されている。また、「早瀧比神社」(2008年6月26日記事)は、那智滝(熊野那智大社の飛瀧神社の神体)を意識して、熊野から勧請したものとの説もある(ただし、岡山県神社庁のHPでは「根拠がない」としている。)。現在も「瑜伽大権現」(蓮台寺・由加神社)への道路(県道62号線の旧道)があり、関連ありそうにも思われる。
「熊野神社」の北、倉敷市曽原に八幡神社(清田八幡宮)があり、あるいはこれが国内神名帳にいう児島郡の「八幡神社(八幡明神)」かもしれない古社である。八幡神も早くから神仏習合した神であり、何らかの関連があるかもしれない。


岡山県神社庁のHP(熊野神社(倉敷市林)):http://www.okayama-jinjacho.or.jp/cgi-bin/jsearch.cgi?mode=detail&jcode=06015

同(福岡神社(倉敷市林)):http://www.okayama-jinjacho.or.jp/cgi-bin/jsearch.cgi?mode=detail&jcode=06011


写真上:熊野神社(倉敷市林)の鳥居


写真中:熊野神社(同上)社殿。一部は国重文。


写真下:福岡神社(同上)。熊野神社の裏山(北)の頂上にある。ここに老翁が立って、熊野神社の鎮座地を示したという。

コラム130.五流尊瀧院

2009-02-22 20:50:49 | Weblog
五流尊瀧院(ごりゅうそんりゅういん)。
場所:倉敷市林952。県道21号線(岡山児島線)の「林」交差点から1つ岡山よりの交差点を南に入る(案内看板あり。)。道路が狭いので注意。駐車場あり。
五流尊瀧院の成り立ちを簡単に概観すると、凡そ次の通りである。修験道の開祖役小角(役の行者)が謀反の疑いにより伊豆の大島に流刑になった時(699年)、五人の弟子が熊野本宮大社の神体を奉じて吉備の児島に逃れ、五院(五流五家:尊瀧院、大法院、報恩院、建徳院、伝法院)を建立した。奈良時代に入ると、天皇家の熊野信仰から天皇の崇敬を受け、天平12年(740年)には聖武天皇が児島一円を社領として寄進した。天平宝字5年(761年)には紀州熊野と同様の社殿(十二社権現宮)を整え、「新熊野」と称した。なお、倉敷市児島由加にある所謂「瑜伽権現」(由加山蓮台寺・由加神社)は、那智宮を模したものという。
承久の乱(1221年)のとき、後鳥羽上皇の第4皇子頼仁親王が児島に流され、衰微していた五流の寺院を再興した。しかし、その後は再び衰退し、尊瀧院のみが残った。明治時代に入ると、神仏分離令により尊瀧院と熊野神社に分けられた上、明治5年(1872年)には修験道が禁止され、天台宗に属したが、第2次大戦後は「修験道総本山」として独立した。
以上のことからすると、一部にはやや誇張されたところもあるかもしれないが、奈良時代から中世には、現在からは想像もつかないほど、児島における五流修験の権威が高かったということになる。それが、児島の古社とどう関わるかは、次項(日本第一熊野神社)で。


S_Minagaさんの「がらくた」置場のHPから(五流修験):http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/hoso_goryu.htm


写真上:五流尊瀧院。入ってすぐ左が庵室。正面の不動明王像は護摩堂の前にあり、その背後に本堂がある。


写真中:三重塔。熊野神社の境内にあるようにみえるが、五流尊瀧院に所属。三重塔の左手奥に本地堂がある。


写真下:熊野大権現本地堂

コラム129.番田の立石

2009-02-15 22:56:23 | Weblog
番田の立石(ばんだのたていし)。
金甲山と飯盛山の磐座に詣でたので、ついでに「番田の立石」を見に行った。
児島半島の東海岸に「鉾島」という島がある(今は地続きになっている。)。この島の名は、神功皇后がいわゆる「三韓征伐」の帰路に当地に立ち寄り、鉾を立てたという伝説によるという。その「鉾島」の西側が今は番田、北方、下山坂、上山坂という町名になっているが、かつては鉾立村といった。現在も小学校、郵便局、農協(JA)などの名前に「鉾立」という名が残っている。この「鉾立」という名は、「鉾島」に因んで明治22年の4村合併時に付けられた名であるという。したがって、「番田の立石」に因んだわけではないらしい。
「番田の立石」は、「八丈岩山」(281m)の南に下ったところにある。「八丈岩」は、今は休館となっている「国民宿舎桃太郎荘」の裏手からも登れるが、「貝殻山市民憩いの森」の第2駐車場からは急登だが真っ直ぐに登れて15分くらいで山頂に着く(写真上)。また、すこし下に大きな岩が海に向かってせり出している(写真中)。「番田の立石」は更に下のほうにある(写真下)。鷲羽山・王子ヶ岳などにも巨岩・奇岩は多いが、確かに鉾を突き立てたような偉容である。
いずれも古代祭祀に好適な場所のようにも思えるし、神功皇后の伝説もあり、立派な岩もあるが、古社にはあまり関連がないようだ。伝説や岩が、千年前から現在と同じものだったとは言えるはずもないが、神仏臭さが殆どないことが逆に不思議に思える。


写真上:八丈岩山山頂


写真中:八丈岩? 山頂の少し下にある。


写真下:番田の立石

コラム128.玉野市胸上の由加神社

2009-02-14 21:17:42 | Weblog
備前国内神名帳に載る古社「飯神社」は、現在は玉野市胸上にある旧郷社八幡神社、通称「胸上八幡宮」の境内末社になっている(「飯神社」の項(2008年6月27日記事参照))。「胸上八幡宮」の東にある峰(「飯盛山」)の山上に「由加神社」があり、磐座と思われる石組みがある(写真)。あるいは、ここが「飯神社」の元宮だったかもしれない。
「胸上八幡宮」の参道石段の前から東に約300m歩くと、「天理教陽東児分教会」の東側の農道に入り、更に東に向かって登って行く。地面が柔らかく、落ち葉が積もっているので歩きにくいが、道ははっきりしており、10~15分程度で到着。晴れていれば南側に開けた海の眺望も美しい。

写真上:由加神社の石の祠と積み重ねられた岩


写真中:石組みを斜め前から見る。明らかに人工的に積み重ねられたものと思われる。


写真下:最も後ろにある平らな岩。磐座であったとすれば、この岩がそうだったのだろう。

コラム127.金甲山の磐座

2009-02-13 22:03:38 | Weblog
金甲山(403m)は児島半島で最も高い山で、海に囲まれているため実際より高く感じる。山頂近くまで県道399号線(金甲山線)で自動車で上れ、駐車場・トイレも整備されているので、手軽に行ける。今では電波塔が林立しているが、廃屋となったレストハウスのところに磐座がある(写真上・中)。レストハウスが大岩を覆い隠すように建てられているので、よくわからなくなっているが、今でも眺望のよいところである。
現在は山麓の岡山市南区郡に鎮座する古社「國津神社」は、元はこの金甲山山頂にあったとされる(「國津神社」の項(2008年6月28日記事)参照)。もともと「吉備児島」は、古事記などによれば伊邪那岐・伊邪那美の2神の国産みの際、大八島の次に生まれたとされる。そして、「吉備児島」の別名が「建日方別命」であり、「國津神社」はこの神を祀る。言わば「吉備児島」そのものを祀っているので、逆に、他の地区では祀られることはほとんどない。
しかし、備中国一宮「吉備津神社」・備前国一宮「吉備津彦神社」では「岩山宮(岩山神社)」として「建日方別命」を祀る。ここでは、大吉備津彦命が祀られる前の地主神として「中山主神」とも呼ばれている。単に「吉備児島」の地主神ではなく、吉備国全体の地主神とされているようである。「吉備津」という名もそうだが、「吉備児島」とのつながりが感じられ、吉備国における海人族の影響力が窺われる。


写真上:金甲山山頂の小祠


写真中:旧レストハウス横の大岩


吉備津彦神社の岩山宮

コラム126.岩間山本山寺、金刀比羅山

2009-02-01 22:47:21 | Weblog
岩間山本山寺(いわまさん ほんざんじ)。
場所:久米郡美咲町定宗403。
式内社「宗形神社」(赤磐市)から中国自然歩道を西へ約5km進むと、天台宗の古刹「岩間山本山寺」に着く(写真上・中)。「本山寺」は、役行者小角の修行した跡といわれ、大宝元年(701年)に頼観上人が「新山寺」を建てたが、その後に鑑真和上が来て「本山寺」と改めたという。平安時代に一時荒廃したが、後に真道上人・古道上人らが復興して隆盛になり、天永元年(1110年)に現在地に移転。最盛時には120坊があったとされる(現在は本坊「遍照院」のみ。)。浄土宗の開祖法然上人は、その両親が子無きを嘆き当寺に参詣祈念したところ懐妊した子である、という逸話もある。天台宗の寺院(しかも山上伽藍)で、本尊は十一面観音菩薩ということなので、これが備前国にあれば「備前48ヶ寺」に数えられていたかもしれない(現所在地は久米郡美咲町なので、美作国)。
元の「新山寺」は、現在地の南にある「金刀比羅山」(480m)の南東斜面にあったらしい。現在も、「金刀比羅山」山頂付近には「本山寺」の奥院がある。立派な岩があり(写真下)、岩の上には不動明王の石像が置かれている。ところで、「改訂岡山県遺跡地図<第9分冊>東備地区」(昭和15年3月)によれば、古社「剣抜神社」跡は「金刀比羅山」の山頂にあるとされている。「社前に積石塚があったと伝える。その跡に大理石の宝殿が建てられている。」とも記されているが、見落としたか、現地にはそれらしいものは見当たらなかった。「改修赤磐郡誌」(昭和15年12月)によれば、文化の頃(1804~1817年)に長さ3尺6寸強の片刃直刀1口が発掘されたといい、土器の破片もあったので、ここに古墳があったのだろうとする。ここも「高ノ峰」に劣らぬ聖地だったのだろう。
余談だが、「岩間山本山寺」の頼賢という僧が「宗形神社」の境内に「大宮山神宮寺念仏庵」という寺を建立して、神社の社務を行った。後の住持が村人とトラブルを起こして出奔したので、現・赤磐市黒本に移した。これが現在の「和田山聖観寺無量院」であるという。かつては「宗形神社」にも神仏混淆の時代があったということであろう。


「日本すきま漫遊記」HPから(本山寺):http://www.sukima.com/14_sanyou01_07/17honzanji001.htm


写真上:岩間山本山寺本堂(1350年建立。国重文)


写真中:同三重塔(1562年建立。これも国重文)


写真下:本山寺奥院の磐座? ひょっとすると、「剣抜神社」の磐座か?