備前の古社を訪ねる(備前国内神名帳の研究)

備前の由緒ある神社を巡礼する

コラム270.一宮(その33・出羽国・鳥海山大物忌神社)

2015-10-25 13:06:16 | Weblog
鳥海山大物忌神社(ちょうかいさんおおものいみじんじゃ)。
場所:山形県飽海郡遊佐町大字吹浦字鳥海山1(「鳥海山」山頂)。登山ルートはいくつもあるが(鳥海国定公園観光開発協議会のHPでは9つの登山口が紹介されている。)、最も初心者向けとされるのが「象潟口(鉾立)ルート」。国道7号線から「鳥海ブルーライン」に入り、鉾立駐車場(5合目:1,150m)から登山道を約4時間半歩く。
社伝によれば、景行天皇の御世(71~130年?)に出羽国に「神」が出現し、欽明天皇25年(564年)に「鳥海山」山上に鎮座したとする。祭神は「大物忌大神」であるが、この神は「記紀」には登場しない。「大物忌」というのは清浄を保つことを意味するとし、通説では倉稲魂命(ウカノミタマ)または豊受姫命(トヨウケヒメ)と同一神とする。古くから(ヤマト政権の支配が及ぶ前から)五穀豊穣の神として信仰され、後に北辺の神として国家守護の神となったらしい。「鳥海山」(2,236m)は現在も活火山とされているが、6世紀後半から8世紀初めにかけて盛んに噴火しており、それを鎮めるために祀られたともいう。噴火は戦乱の予告とされたほか、「続日本後紀」によれば石鏃を降らせたり、海賊に襲われた遣唐使船を助けたり(その根拠が不明だが)といった神威を現したとされ、噴火のたびに神階が上がり、「本朝世紀」天慶2年(939年)条の時点で既に正二位勳三等という極めて高い神階を受けていた。
ところで、「鳥海山」という山名が何時頃から使われていたか、また、山名の由来も、よくわかっていないらしい。古代には専ら「大物忌神」と呼ばれており、鳥海山自体が信仰の対象であったことがわかる。「日本三大実録」貞観13年(871年)の条に「従三位勲五等大物忌神社在飽海郡山上。巌石壁立。人跡稀到」とあって、一般に、このときには既に鳥海山山頂に神社があったとされる。ただし、原文には句読点は無いから、「大物忌神社は飽海郡の山上に在り」ではなく、「大物忌神社は飽海郡に在り、山上は巌石が壁立し、・・・」と読むことも可能。いずれにせよ、冬には雪で道が閉ざされ、参拝などできない(現在でも10月下旬~4月下旬まで冬季閉鎖)。よって、常設の神社は山麓にあったと思う。そもそも山自体が信仰の対象なのだから、元々は山上に神社を建てる必要はなかったはずである。
「延喜式」神名帳では、出羽国9座(9社)のうち、「月山神社」と並び「名神大」社とされている。また、出羽国では最も神階の高い神社で、出羽国一宮とされることに異論はない。ただし、中世以降は神仏混淆し、特に修験が隆盛して「鳥海山大権現」と称され、「薬師如来」が本地仏とされた。近世には、山麓(登山口)での祭祀に宗派の争いなどが絡んで紛争が生じ、山頂の当神社が出羽国一宮と定められた経緯がある。現在では、「鳥海山」山頂の「御本社」と、山麓の「吹浦」・「蕨岡」の2つの社を「口之宮」として、3社一体で「鳥海山大物忌神社」となっている。


玄松子さんのHPから(鳥海山大物忌神社)


写真1:「鳥海山大物忌神社」(御本社)社号標


写真2:同上、社殿。下界は晴れていたのだが...山上は霧になってしまった。


写真3:「鳥海山大物忌神社」(吹浦口之宮)境内入口の鳥居と社号標。(場所:山形県飽海郡遊佐町大字吹浦字布倉1。JR羽越本線「吹浦」駅の北、約500m。駐車場有り。)


写真4:同上、社殿。本殿が2つ並んでいるのは、「大物忌大神」とともに「月山大神」を祀っているため。


写真5:「鳥海山大物忌神社」(蕨岡口之宮)境内入口の鳥居と社号標。神門も見えるが、元は山門だろう。それだけ神仏混淆(修験)の影響が強かったのだろうと思われる。(場所:場所:山形県飽海郡遊佐町大字上蕨岡字松ヶ岡51。国道345号線から山形県道373号線(杉沢南鳥海停車場線)に入り、道なりに約3km進み、右折。駐車場有り。)


写真6:同上、社殿