備前の古社を訪ねる(備前国内神名帳の研究)

備前の由緒ある神社を巡礼する

コラム202.舟着岩

2009-08-29 10:11:05 | Weblog
舟着岩(ふなつきいわ)。
場所:岡山市南区灘崎町彦崎。JR宇野線「彦崎」駅の南西約700m(直線距離)。稲荷山(154m)の東斜面の中腹(約90m)にある。写真は彦崎保育園(灘崎町彦崎2570-1)の前から撮ったもの。
下記のブログにあるように、かつては舟着岩までの道が確保されていたが、現在では下から見るだけのようだ。
山の中腹にある岩がなぜ「舟着岩」と呼ばれるようになったかというと、熊野権現が海を渡って児島にやってきたとき、この岩に舟を繋いだからなのだ、という。ここから岡山市南区植松を通って倉敷市林に至り、今は福岡神社がある山の上で老翁から鎮座地を示され、現在地に落ち着いたという(2009年2月23日記事参照)。岩には牡蠣がついていた、とも伝えるが、当然ながら、古代でもこの岩まで海が迫っていたとは思えない。「灘崎町史」(昭和31年8月)には「彦崎貝塚の位置から考えて、この岩に舟が着く事はあり得ない。」との註がある。
稲荷山には、その名の通り「稲荷」が祀られているようだが、この岩を祀る神社があるわけではない。しかし、下記のブログにあるように、かつてはこの岩自体を祭る習わしがあったようだ。それは、この岩の名前を「立石」とか「鴻の岩」とも呼んでいたというところにも現れている。「鴻(コウ)の岩」=神(コウ)の岩だったのではなかろうか。
それにしても、この岩にたどり着く道がなくなっているのが残念。


itavoonさんのブログ「うるわしの1970★1000本ノック」から(現在の立石):http://blog.livedoor.jp/ita2424/archives/51638958.html

同上(40年目(前?)の立石):http://blog.livedoor.jp/ita2424/archives/51638969.html

「岡山の山と三角点」さんのHPから(稲荷山(灘崎))。「稲荷」の祠の写真。「舟着岩」とは全く別ルートのようだが、三角点にすら、たどり着くのが難しそう。:http://www.geocities.jp/komaithi/b/dnadasakiinari.html

コラム201.雷が落ちない場所

2009-08-22 21:18:55 | Weblog
備前国内神名帳に載る古社「國津神社」はもともと金甲山の山上にあったが、その後現在地(岡山市南区郡)に遷座したという(2008年6月28日記事、2009年2月13日記事参照)。
「郡」という地名は、ここに旧児島郡の郡衙があったことに由来するとの説がある。郡衙の遺構等は発見されていないが、旧児島郡の総社宮(2008年6月25日記事参照)も郡にある。また、かつて「陸(くが)」という村があった。陸を「くが」と読むのは、「国処(くにが)」の転化とされており、ここに「國津神社」が遷座したのも偶然ではないと思われる。
ところで、陸(くが)村のことだが、伝説に次のような話がある。「陸の宮の少し北のところに雷様が落ちた。村の人々が怪我をした雷様の手当てをした。雷様は村人の親切に感謝し、この村にはカミナリを落とさないことにした。」
「陸の宮」というのが遷座後の「國津神社」のことと思われるので、伝説とは言っても大昔というわけではないようだ。また、雷が落ちない理由が、神社の神威によるわけではない、というのも近世の話のように思われる。
なお、「國津神社」の少し北の水田のなかに一本杉があり、かつては、この木の下に何を祀ったのかは不明だが、小さな祠があったという。その小祠は「國津神社」境内に移されたというが、現在それらしいものはないようだ。


写真上:國津神社前の池から北を見る。國津神社の森と怒塚山に挟まれた谷の部分に水田が広がり、その先、少し低いところに住宅地があり、その向こうに児島湖が見える。


写真中:一本杉?(杉ではないような気もするが)。上の写真の中央に見えている木。


写真下:國津神社


コラム200.国貞老葉の墓

2009-08-14 22:29:05 | Weblog
国貞老葉の墓(くにさだろうはのはか)。
場所:備前市吉永町神根本。備前国三宮「神根神社」の境内(神社正面左手)に社務所?があるが、その裏手に回る。水田から一段高いところにわずかな畑があるが、その奥、山際に小さな石塔が並んでいる場所がある。「和氣公家臣國貞老葉墓」という立派な石碑も立っているので、すぐわかる(写真)。
国貞老葉というのは、和気清麻呂の家臣で、筑紫にもついて行った、ともいわれるのだが、それ以上のことは不明。和気家の家臣だが、清麻呂より後の時代の人物だ、という説もあるようだ。現在も国貞老葉の子孫が当地に現存しているともいうのだが、一書によれば、国貞氏は「神根神社」の神官を務めた家柄ということなので、あるいは、後から旧和気郡の偉人である和気清麻呂に関連付けたのかもしれない。
「神根神社」の項(2008年5月24日記事)にも少し記したが、現在の祭神は「木花咲耶姫命」だが、もとは和気氏の始祖「鐸石別命」ではなかったか、という説もある。吉永町神根本というと、ずいぶん山の中だが、和気町から備前市三石までは、県道96号線(岡山赤穂線)やJR山陽本線が通っているところが古代山陽道のルートであり(2008年12月31日記事)、吉永町神根本の辺りは八塔寺川の水も豊かで水田も広がり、地政学的にも重要な場所だったのかもしれない。あるいは、吉永町金谷には古社「金彦神社」(2008年5月29日記事)もあり、「鐸石別命」の鐸石というのは銅鉱石の意味だそうで、鉱業的な地域だったのかもしれない。「神根神社」が備前国三宮で、旧和気郡唯一の式内社である、というからには、それなりの意味があったのだろうが、今となっては、よくわからない。
国貞老葉の墓のことに戻るが、並んでいるのは明らかに五輪塔で、石碑の後ろの木は樒(シキミ)らしい。最初の石塔が現在まで残っているとは考えられないが、いつの頃からか、墓として仏教式に祀られてきたのだろうと思われる。
ちなみに、「改訂岡山県遺跡地図(第9分冊東備地区)」(平成15年3月)には遺跡として採り上げられていない。

コラム199.備前市伊部の神社と備前焼

2009-08-06 22:40:03 | Weblog
前項で「履掛天神宮」に行ったので、余談。
現在の備前市伊部には備前焼の窯元・販売店が集まっており、備前焼は別名「伊部焼」ともいうほどである。そもそも伊部(いんべ)という地名は、古代の祭具製造氏族である「忌部」氏から来ているはずである。しかし、備前市伊部・浦伊部には国内神名帳に載る古社はない。これは何故なのか。
古代祭器としての焼き物は、最初、弥生式土器の延長上にある「土師器」(はじき)であったが、後に「須恵器」(すえき)も使われるようになった。「土師器」が野焼きで作られるため焼成温度が低く、硬さが劣った。「須恵器」は薪を使い窯で焼くため、焼成温度が高くなり、強度に優れる。しかし、祭器としては並行して使われたようである。
古社についていえば、「大神神社」(岡山市)には「土師宮」の別名があり、「片山日子神社」(瀬戸内市)は現在も長船町土師という地にある。一方、「美和神社」(瀬戸内市)は長船町東須恵に鎮座する。「安仁神社」(岡山市)の名の起源には諸説あるが、「埴輪」の「はに」ではないか、という説もある。興味深いのは、これらがいずれも式内社であることで、式内社とされたことと祭器としての土器生産の間に何らかの関連があったのではないか、とも見られ得る。また、「大神神社」以外は、旧邑久郡にある。
言うまでもなく、備前焼は須恵器の流れを汲んでいる。長船周辺にあった土器生産の中心地が何故、伊部周辺に移ったのか。「土師器」にせよ「須恵器」にせよ、素焼きの土器は、釉を使った焼き物に次第に駆逐され、祭器などにしか使われなくなった。そして、武家社会の進展により、祭器自体が使われなくなり、衰退した。土器生産集団は新たな庇護者を求めて、熊山を中心とした大寺の近くに移った。寺の瓦や食器などの需要があったからである、という。確かに、伊部の西に行くと、「大内神社」、「熊山神社」、「大瀧神社」、「靭負神社」などの古社が多くなる。ただし、これらの神社はいずれも土器生産とは直接関係がなさそうである。
そうすると、(例によって妄想だが)国内神名帳が成立した頃にはまだ、備前焼(の前身)の中心部は伊部にはなかった。逆に言うと、国内神名帳が成立したのは、平安時代後期から、いわゆる備前焼が生まれた時期(「古備前」といわれるものは鎌倉時代後期のもの)の前の間、ということになるのではないだろうか。


写真上:天津神社(備前市伊部629)。「履掛天神宮」を「伊部天神西宮」といい、当神社を「伊部天神東宮」という。ただし、主祭神は少彦名命。屋根瓦のほか、十二支の動物など、ふんだんに備前焼が使われている。


写真下:忌部神社(本殿)。上の天津神社の正面左手にある坂道を登っていく。祭神は陶祖:天太玉命(あめのふとたまのみこと)。もとは天津神社の境内末社として、小さな祠であったという。

コラム198.履掛天神宮(履掛石)

2009-08-03 23:35:33 | Weblog
履掛天神宮(くつかけてんじんぐう)。
場所:備前市伊部1559。JR赤穂線「伊部」駅前から北西へ(国道2号線と駅正面市道の間の道路)約260m。「履掛天神宮」に駐車スペースはある(不老川沿いの道路から境内に入る)が、狭い旧道(近世山陽道)沿いに備前焼の店が並んでいるので、駅前の無料駐車場に自動車を置いて散策するのもよい。
「履掛天神宮」(写真上)の本殿の背後に「履掛石」という石が置かれている。上が平らで枕のような石だが、これこそ、菅原道真公が左遷されて大宰府に西下する際、腰かけて休息した石なのだという。「履を掛ける」というのは、旅の途中、履(沓:くつ、わらじ)を履きかえ、古い履を松の枝に掛けると疲れが取れる、という言い伝えのこと。峠の上り口など難所の前で休憩することを指したようだ。このため、「沓掛」という地名は各地にあるらしい。
誰それが腰かけた石、というのも各地にあり、神社境内に置かれていることも多いが、もちろん、史実に合っているかはわからない。この「履掛石」も菅公が本当に腰をかけた石なのかはわからないが、もともと伊部は菅原家の荘園であったともいうので、天神宮が創建されてもおかしくはないようだ(ちなみに、菅原氏はもともと忌部氏であったが、菅原道真の曽祖父のときに菅原氏に改めたという。伊部という地名は忌部氏から来ているものと思われ、縁がある。)。ただ、この石が本殿の後ろに置かれているということは、明らかに磐座の石であったとしてもよいのではないか。菅公とは無関係に祀られてきた石かもしれない。


写真上:履掛天神宮。流石に備前焼の狛犬が立派。なお、本殿の屋根も明るい色の備前焼の瓦が葺かれている。


写真中:履掛石。正面から。


写真下:履掛石。横から。何の変哲もない、ただの石のようだが・・・。