備前の古社を訪ねる(備前国内神名帳の研究)

備前の由緒ある神社を巡礼する

コラム125.高ノ峰

2009-01-31 23:22:42 | Weblog
血洗滝は谷底にあり、中国自然歩道を式内社「宗形神社」(赤磐市)方面から下ってくると、高ノ峰や岩間山本山寺へは再びかなり急な坂を上って行くことになる。血洗滝から約1.5kmのところに北に向かう枝道があるが、これを上って行くと徒歩40分程で「高ノ峰」山頂(517m)まで行ける。ただし、この道はKDDIの管理用の道路で、途中から藪の中に入っていくことになり、山道は整備されておらず、倒木が多く、迷いやすい。正直な話、登山経験が豊かな人以外はお勧めしない。
この道路の辺りが凡そ備前・美作国境で、北の「高ノ峰」と南の「金刀比羅山」が国境の山とされているが、「高ノ峰」の山頂は現・久米郡美咲町側にある。「高ノ峰」はかつては「神峰山(こうのみねやま)と呼ばれ、「改修赤磐郡誌」(昭和15年12月)によれば、古社「神峰神社」と「神峰伊勢神社」は、「神峰山の頂上に近く、国境に接し相並べて二社を祀る。」とされている。ただし、「神社明細帳」では「相殿」とされていることも記されている。
現地に行ってみると、山頂の少し手前に寂れた石の社殿があり(写真上)、頂上付近(境内?に三角点がある。)にもう1社、似たような石の社殿がある(写真中)。頂上付近の小祠が「神峰神社」の元の神社跡だろうが、広さは、どう見ても1社分くらいしかない。すると、手前の1社が「神峰伊勢神社」跡だろうか。もし「相殿」なら2社とも山頂に祀られていたのかもしれない。
山頂に眺望はなく、付近も荒れ果てているが、少し東側に下りたところには、さほど大きくはないが、上が平らな石がいくつかあった(写真下)。山頂ではなく、日の出の見えるところで祭祀を行ったかもしれない。「神峰神社」はこの山の神だろうが(ただし、祭神は大己貴命とされる。)、「神峰伊勢神社」は天照大神だろうから、太陽信仰もあったのではなかろうか。
帰宅後、「改訂岡山県遺跡地図<第9分冊東備地区>」(平成15年3月)で調べてみると、「神峰神社」跡は「棚原町との町境、高ノ峰山山頂から南に下りた箇所」としている。上にも書いたが、高ノ峰の山頂は美咲町の内にあるが、町境は赤磐市側から山頂に向かって鏃のように尖った形になっており、「神峰神社」跡はその先端部分にあるとされている。そして、「神峰伊勢神社」跡は、地図上では「神峰神社」の東南約600m(直線距離)のところにあり、「神社跡に大理石の宝殿が建てられている。」と記されている。


写真上:「神峰伊勢神社」元宮


写真中:「高ノ峰」山頂の神社跡(「神峰神社」元宮)


写真下:高ノ峰にある石

コラム124.血洗瀧神社

2009-01-29 22:44:50 | Weblog
式内社「宗形神社」(赤磐市)は、赤磐市市街地からは国道374号線を周匝から是里方面に向かうのが近いが、美咲町の柵原西小学校横の広域農道から南下するのが、遠回りになるが安全で分かりやすい道である(是里まで2車線が確保されている。)。その広域農道を「宗形神社」から約1.2km戻ると、「景山精密」という会社のところで狭い枝道がある。これが「中国自然歩道」で、この道路を下っていくと、血洗滝~高ノ峰登り口~岩間山本山寺を経て、県道52号線(勝央仁堀中線)に出る。「歩道」というが、舗装されており、自動車でも通れる。ただし、本山寺までは、かなり狭い道なので注意。
血洗滝は、その道の最も低い谷の部分にあり、数台分の駐車場に自動車を置き(駐車場のところにある案内板の裏に、滝に流れ落ちる小川がある。)、徒歩で階段を下りていくと「血洗瀧神社」があり(写真上)、その奥に血洗滝がある(写真中)。素戔鳴尊が八岐大蛇を退治した剣を洗い、身体を清めたという伝承があり、その名がついたという。もちろん伝説に過ぎず、流れる水も赤くはない(写真下)が、かつては砂鉄等で赤かったのかもしれない。
いずれにせよ、今は「宗形神社」に合祀されている古社「剣抜神社」(元宮は赤磐市是里の剣山山上にあったという。)のほか、赤磐市戸津野字剣山に「素戔鳴神社」があり、赤磐市石上に式内社「石上布都魂神社」がある。非常に山深いところだが、古代から(多分、鉄・鉄器の生産で)開発された土地なのだろうと思われる。


「GOTOCHANさんの旅行ブログ」から(血洗いの滝):http://4travel.jp/traveler/gotochan/album/10260188/


写真上:血洗瀧神社。秋は紅葉の名所だとか。


写真中:血洗滝


写真下:血洗池

コラム123.吉備の黒媛

2009-01-27 22:39:28 | Weblog
第16代天皇の仁徳天皇は、実在性が高いとされる最古の天皇である応神天皇の子。だから、仁徳天皇も実在性が高いはずだが、事績の一部が応神天皇と重複することなどから、実在性には争いがある。また、「仁徳」という漢風諡号は8世紀頃に選定されたものだが、記紀には仁政を布いた聖帝として描かれ、美男子でもあったともされるので、やや理想化されているようにも思われる。
しかし、一方では、皇后以外に多くの后がおり、好色な一面も描かれている。天皇という地位もあり、正妻のほかに多くの女性を妻にするということについて、現在の規範意識をもって非議すべきではないと思うが、それはそれとして、「黒媛伝説」というロマンチックな伝承を生むことになった。
吉備の海部直の娘、黒日売(黒媛)は容姿端麗であったために都に召され、仁徳天皇の寵愛を受けたが、皇后磐之媛の嫉妬にあって苛めを受け、吉備に帰った。仁徳天皇は、淡路島に行幸するといって吉備に至り、黒媛と再会する。しかし、いずれ別れが来る・・・といった「悲恋物語」となっている。2人が再会して仁徳天皇が詠んだのが「山縣に蒔ける青菜も吉備人と共にし摘めば楽しくもあるか」という歌で、その「山縣(やまがた)」というのがどこか、ということに諸説ある。ロマンチックな伝説を地域振興に使おうという思惑もあるようで、岡山県内のどこか、というところは一致しても、各地で名乗りを上げている。
例えば、総社市の「こうもり塚古墳」が黒媛の墓であるという伝承は、今もかなり信じられているようだ。しかし、「こうもり塚古墳」は黒媛より後世のものとされている。津山市には、「山方」という地区と、「新野山形」という地区に伝承がある。特に、「新野山形」は旧・勝北町で、その「水原古墳」が黒媛の墓(黒媛塚)とされ、黒媛に因んだ町興しに熱心である。他に、倉敷市玉島黒崎などにもある。
そのなかで、式内社「宗形神社」(赤磐市)も古くから縁の地とされている(写真は境内にある石碑)。即ち、当神社は崇神天皇の時代(紀元前1世紀?)に勧請されたとされ、本国吉備に戻った黒媛が当神社で仁徳天皇を饗応したという。これにより、上記の歌に因み、当神社は「山方の大宮」と呼ばれたとされる。当神社の所在地の元の地名は、山方村大字是里字大宮山といい、また、付近に海部ヶ市、御前畑などといった地名もあるらしい。なお、当神社の境内末社のうち、仁徳天皇が「一位神社」に、仲哀天皇と神功皇后が「香椎神社」に、武内宿禰が「武内神社」に祀られている。
黒媛がこの「山方」出身とする説もあるが、父である吉備海部直の名からして、おそらく吉井川の河口である瀬戸内海、牛窓辺りの海人族だっただろうという。そして、塩生産のほか、吉井川の水運を握って鉄などの鉱産物資源で財力を蓄えたのではないか。その縁で、このような山深いところに「宗形神社」を勧請したのではないか。吉備に戻った黒媛も、生まれ故郷の瀬戸内海ではなく、備前美作国境に近い山中に隠れ住んだのではないか・・・。前回(2009年1月25日)の項で「牛窓天神山古墳」を採り上げたのは、実はこの伏線であって、「牛窓天神社」から正面に見える「黒島」こそ黒媛の生まれ故郷ではないかという人もいる。
さて、往古、この「宗形神社」の権威は大したもので、氏子地域は、北は現・津山市小桁から南は現・岡山市牟佐まで及んだという。また、備中国一宮「吉備津神社」(岡山市)は、仁徳天皇が黒媛を慕って吉備に行幸された際に、大吉備津彦の功績を讃えるために創建されたという由緒も伝えられている。


和気商工会のHP(黒姫伝説):一番下にあります。http://www.okasci.or.jp/wakes/wakechou.html

コラム122.牛窓天神山古墳(仲哀天皇の墓?)

2009-01-25 21:50:16 | Weblog
仲哀天皇は第14代天皇とされるが、実在性が低く、第15代の応神天皇が最初の実在性の高い天皇といわれている。仲哀天皇の父は日本武尊、妻は神功皇后とされるが、いずれも実在性が低いので、仲哀天皇も、というわけである。特に、父と妻の英雄的な事績に比べ、熊襲征伐の折に住吉大神の託宣を疑い、その怒りに触れて急死してしまうという、なんとも影の薄い存在となっている。
瀬戸内市牛窓町は神功皇后との縁が深い(そもそも「牛窓」という地名は、神功皇后が牛鬼に襲われたが、住吉大神が退治したことで、「牛転び(うしまろび)」が訛って「牛窓」になったという神話がある。)。そして、牛窓町最古(4世紀後半)の前方後円墳とされる「牛窓天神山古墳」は、仲哀天皇の墓であるという伝承がある。上記のように、仲哀天皇はそもそも実在性すら疑われているうえ、伝記を信じるとしても、九州にいたときに亡くなり、その地に神功皇后が仲哀天皇を祀ったのが「香椎宮」(福岡県福岡市)とされるので、何故ここが仲哀天皇の墓とされるようになったのかはわからない。仲哀天皇は応神天皇の父とされるが、ひょっとすると、「住吉大神」こと武内宿禰が応神天皇の実の父であり、武内宿禰の墓が「牛窓天神山古墳」なのではないか(妄想)。
さて、ここが「天神山」と呼ばれるのは、菅原道真が大宰府に左遷される折、この古墳の山上から、かつての任地である讃岐を眺めたという伝説による。そして、そのときに菅公が腰掛けた石の上に社殿を建てたのが現在の「牛窓天神社」であるという。天神社から眺める瀬戸内海は絶景で、「日本の夕陽百選」にも選ばれている。


「岡山アウトドア読本」HPから(牛窓町のはなし):http://www.jaja.co.jp/ts/iroiro/usimado/usi.htm


写真上:牛窓天神社の長い石段


写真中:牛窓天神社。牛窓天神山古墳の前方部に建てられている。


写真下:天神社からの眺め。正面に見えるのは黒島。

コラム121.石鉄山古墳

2009-01-15 22:34:15 | Weblog
古社「石高神社」(岡山市中区円山)は、もとは現社地の北の山上に鎮座していたという。それはおそらく、操山山塊の「円山」(138m)だろうと思われる。操山の遊歩道を歩き、「古墳の森ふれあい広場」を目指す。すると、かなり広い平らな場所に出る。その東端にちょっとした土盛りがあって、これが「石鉄山古墳」(操山54号墳)で、その頂上に三角点がある(写真上)。一方、広場の西端には巨岩がある(写真中)。これが磐座かどうかは何とも言えないが、なかなか立派な岩である。広場全体が、古社の旧社地として道具立てが揃っている感じである。
「石高神社」は現在、操山山塊の南麓にあるが、かつて操山の南側はすぐ海だった。今でも「湊」、「福泊」、「海吉」といった地名が残っており、開拓されたのもさほど古い時代ではない。例えば、謡曲「藤戸」にうたわれた「春の湊のゆくすえや・・・」の「春の湊」とは、この「湊」のことであるという。「福泊」は、葛西太郎兵衛という者が藩命を受けて正保4年(1647年)に浅瀬を干拓して新田開発したところとされる。「海吉」は海面村と福吉村が合併して出来た地名で、海面村は中世末期の開発、福吉村は「福泊」と同時期の新田であるという。
このようなことから、「石高神社」が元は円山山上にあり、氏子地域が円山の北側である幡多郷であるということも相当の理由がありそうである。
ところで、広場の南のすぐ下に「妙見大菩薩」と「八大竜王」の石碑がある(2009年1月14日記事に写真あり。)。つまり、(いつ頃からかは不明だが)星辰信仰と雨乞い祭祀があったということだろう。円山山頂の東、遊歩道で約1kmのところに「笠井山」(134m)がある。ここは、古社「吉備津岡辛木神社」の旧社地であるとされている。そして、「吉備津岡辛木神社」はかつて「吉備明現宮」とも呼ばれていたこととも合わせ、この2社の関連に興味が湧く(「吉備津岡辛木神社については2008年6月19日記事、「笠井山」については2008年10月17日記事)。

額田大玉さんの「古墳とかアレ(仮)」HPから(石鉄山古墳)http://www2.atpages.jp/kofuntokaare/page313.html


写真上:石鉄山古墳(いしぐろやまこふん)


写真中:円山山上の巨岩


写真下:円山中腹から北を望む。正面に龍ノ口山が見える。東西に走っている新幹線の高架より手前(南)が「幡多郷」といわれた清水、藤原、高屋などの地区。

コラム120.金蔵山古墳

2009-01-14 22:31:35 | Weblog
岡山市にある操山(山塊)は東西に長い山で、いくつかの峰がある。主峰の「操山」(169m)は西の方にあり、中央部に「円山」(138m)、やや東に「笠井山」(134m)がある。
「円山」というのは麓から山上までの町名でもあるので紛らわしく、「石鉄山」とも言うようである。その円山の少し西(遊歩道で約400m)にも小さな峰があり、これが「金蔵山古墳」である。金蔵山古墳は、古墳時代前期のものとされる前方後円墳で、大きさは県下第4位。埴輪のほかに多くの鉄器が出土したことから、「金蔵」という名がついたともいう。
興味深いのは、隣接する円山(石鉄山)山上が古社「石高神社」の旧社地であったといわれていること(「石高神社」については2008年6月18日記事。なお、円山については別項としたい。)。また、同時期の古墳は「神宮寺山古墳」(岡山市北区中井町)、「青陵古墳」(岡山市北区谷万成)などがあるが、いずれもそこに古社が祀られていること(前者は「天計神社」、後者は「青陵神社」。ただし、「天計神社」は、元は別の場所に鎮座していたらしいが。)。古墳と古社の関係も、もう少し考えてみる必要もありそうである。


岡山市のHPから(金蔵山古墳):http://www.city.okayama.okayama.jp/museum/kofun1/02.html


写真上:金蔵山古墳の頂上には石室が露出している。というか、地表が陥没している。もう少しちゃんと保存したほうがよいのでは?


写真中:金蔵山の東、円山山頂に向かう途中にある「妙見大菩薩」の石碑


写真下:「妙見大菩薩」石碑と隣り合って建てられた「八大竜王」石碑

コラム119.中世以降の山陽道(その2・福岡~辛川)

2009-01-11 19:53:24 | Weblog
室町幕府の九州探題であった今川貞世(了俊)が九州に下る際の紀行文「道ゆきぶり」によれば、船坂峠を越えて備前市に入り、三石~片上~香登~福岡(備前福岡)と来て、福岡で逗留している。その後、(多分、瀬戸町笹岡又は草ヶ部~古都宿~土田~国府市場を経て)「三野の渡り」で旭川を渡ったというのことから、「福輪寺縄手」を通って辛川に向かったと思われる。
岡山が宇喜田氏支配となってから、山陽道も、元の居城である「亀山城」(写真上)の所在地である岡山市沼を通るようにされて、「宿」も古都宿から藤井に変えられ、現在道の国道250号線(旧国道2号線)に近いルートとなった(旧道が北に並行して残っている。)。その先、岡山城の南にある京橋で旭川を渡河するようになり、奉還町を経て、三門~万成へ抜ける国道180号線に合流し、辛川に向かった。
こうした近世の山陽道沿いにも古社は多い。例えば、天鴨神社(長岡)、生庶神社(乙多見)、小島神社(原尾島)、國神社(三門中町)、青陵神社(谷万成)、吉備津彦神社(一宮)など。なお、万成辺りは国道の南に旧道があり、式内社「石門別神社」(大供表町)の元社かもしれない「北向八幡宮」の前も通ることになる(石門別神社については2008年6月21日記事参照)。

写真上:亀山城跡。現在は弁財天神社になっている。なお、浮田小学校は亀山城の西の丸跡とされる。


写真下:北向八幡宮参道入口。(社殿はともかく)参道が北向きなのは、山陽道に面するようにしたためだろうと思われる。

コラム118.中世以降の山陽道(その1・三石~福岡)

2009-01-10 20:26:46 | Weblog
11世紀以降、「駅路」という古代官道の制度は崩壊したとされる。あまりに維持コストが高かった上に、民衆の生活の利便と離れていたかららしい。中世以降は、武家政権の成立とともに、「官道」とは言えないものの、政権の権威を基に街道の整備が進められた。
備前国内の山陽道も、東西の国境付近は古代と殆ど変わらないものの、途中は大きく変化している。播磨国から国境の船坂峠を越えて、そのまま備前市三石から南西に直進し、片上~伊部~香登と進む。現在の国道2号線と同じルートだが、現在道は谷の中央を通ることが多いが、旧道は山裾を伝うようになっており、「宿」と「宿」を結ぶため、住宅が立ち並んだ狭い道路がそれであることが多い。
備前市香登本にある古社「大内神社」の境内には「香登一里塚跡」がある(写真上)。この先は瀬戸内市長船町長船に至り、「吉井の渡し」(又は「一日市の渡し」)で吉井川を船で渡った。ここから岡山市浅川辺りまで、中世には(名目上の)備前国府が置かれた「福岡」地区であり、「福岡千軒」といわれた山陽道随一の商業地であった。周辺に古社も多い。「大内神社」のほか、「熊山神社」(赤磐市奥吉原)、「湯次神社」(瀬戸内市長船町磯上)、「靭負神社」(同長船町長船)、「柴狹神社」(岡山市東区瀬戸町大内)、「石津神社」(同吉井)、「福岡神社」(同西祖・浅川)などがある。
福岡は、一時期は、間違いなく備前国の中心地であった。しかし、宇喜田直家が福岡から多数の商人を岡山城下に移住させたことや吉井川の氾濫もあって、次第に衰退したという。


写真上:香登一里塚跡。大内神社境内の南西隅にある。


写真中:一日市一里塚跡。国道2号線の脇、県道221号線(一日市瀬戸線)との分岐点にある。


写真下:福岡城跡?。河川敷にあるゴルフ場のコース内にある。一日市一里塚跡のちょうど対岸にある。

コラム117.古代山陽道を探す(その21・備前播磨国境)

2009-01-04 22:31:31 | Weblog
備前国と播磨国を結ぶ主要ルートは、古代から「船坂峠」を越える道路であって、標高180mの「船坂峠」は山陽道の難所の1つであった。現・備前市三石に比定される「坂長駅家」という名も、「船坂峠」の長い坂に由来するとされる。
近世山陽道の名残として、JR「三石」駅前に「三石一里塚」跡(2008年12月31日記事の写真)があるが、「三石町史」によれば「播州国境から21町20間」(約2.3km)の距離にあったという。そこから旧道の坂道を緩やかに上って行くと、国道2号線に合流する。そして、その先、現在の国道はトンネルで峠を越えるが、旧山陽道は凡そ、そのトンネルの上を通っている。船坂トンネルの手前約400mのところに「歩行者・自転車道」の入り口があり、その狭い道を上って行くと、峠に「県界標石」がある(写真上)。これは大正15年(1926年)に建立されたもの。その切り通しの崖の上、約10mのところに備前播磨国境石がある(写真下)。こちらは、元禄16年(1703年)の建立という(「撮要録」による。)。国境石が旧国道の上に立っているのは、人力車や馬車が普及した明治16年(1883年)に一度掘り下げられ、明治28年(1895年)に更に掘り下げられて現在の位置と道幅になったからだそうである。
古代山陽道も、この辺りを通っていただろうと思われるが、その痕跡は見出しがたい。


写真上:県界標石。かつての国道2号線上にある。現在は歩行者・自転車専用道になっているが、交通標識が今も残っている。兵庫県側に見える警戒標識の急勾配は9%となっている。


写真下:備前播磨国境石。備前備中国境石と同時に立てられたもののようで、石の材質や文字の書体等が同じ。