備前の古社を訪ねる(備前国内神名帳の研究)

備前の由緒ある神社を巡礼する

コラム91.都羅比神社と玉姫明神(余談)

2008-11-30 19:41:32 | Weblog
国内神名帳所載の「都羅比神社」は現存しないが、「玉姫明神」・「玉取明神」・「子守明神」の三明神が有力候補らしい。それぞれ「一の明神」・「二の明神」・「三の明神」ともいうが、実は「四の明神」と「五の明神」もあるのだという。
「四の明神」は「亀島神社」であり、玉姫が敷物として使った苫を、「五の明神」は「五帝神社(伍帝明神社)」であり、玉姫が枕として使った石を、それぞれご神体としたと伝える。「五帝神社」については、こんな話もある。明治5年(1872年)に神仏分離令が出された際、検分の役人がやって来て、ご神体の石を調べた。何の変哲もない石だったので近くの池に投げ捨てたところ、沈むはずの石が浮き上がった。よく見ると、小蛇が石を持ち上げているのだった。役人は驚き、ご神体の石をきれいに洗って元に戻した、という。
これらの明神の伝説は、連島の西之浦、亀島、茂浦の「明神講」と結びついている。例えば、西之浦の「一の明神」等の明神講では、玉姫を助けたという「物部」(その後、子孫の「岡部」・「矢部」)、「船」、「生和」の3家を講員として、回り持ちで当番を務めて祭りを運営する。玉姫が亡くなったのが旧暦霜月の酉の日であったとしてその日に祭りを行うが、当番の家では、その1年間、鶏肉や卵などを食べない慣わしがあったという。

岡山県神社庁のHP(亀島神社):http://www.okayama-jinjacho.or.jp/cgi-bin/jsearch.cgi?mode=detail&jcode=02050

「都羅の小径」さんのHPから(五帝神社):http://www.geocities.jp/tsutomu_kurusu/komiti/gotei.htm


写真上:亀島神社


写真中:五帝神社(場所:連島東幼稚園の南約200m)


写真下:天神宮。連島西浦小学校西口のすぐ横にある。最初は「一の明神」の場所がわからず、この大岩かと思った。連島唯一の天神宮であるといい、拝殿のみで神殿はなく、大岩そのものを祀っている。あるいは、もともとは天満天神(菅公)ではなく、単に天津神を祀っていたのかもしれない。巨岩好きの方には、一見の価値あり。

コラム90.都羅比神社と玉姫明神

2008-11-29 18:58:01 | Weblog
国内神名帳に載る古社「都羅比神社」は、現在、存在しない。「都羅」というのは、かつて孤島であった「連島」(旧名「都羅島」)地区に限るのか、旧児島郡の西部にあったと思われる「都羅郷」を指すのかも、不明(「都羅比神社」の項参照。2008年6月27日記事)。
「連島町史」(昭和31年3月)には、次のような内容の記述(以下、要旨)がある。
連島には「玉姫明神(一の明神)」、「玉取明神(二の明神)」、「子守明神」という三明神がある。玉姫明神と子守明神は大岩に注連縄を張って祀り、玉取明神は少し離れたところに小祠がある。この三明神を合わせて「都羅比明神」としたのだろう。そして、社殿が続いて火災に遭ったので残っていないとか、かつて「海若宮」と呼ばれた「箆取神社」に合祀された、という説もある。「箆取神社」には白鳳時代の創建と称する伝説があるが、古文書の中にこれを証するものがなく、あるいは三明神の伝説を取り入れたのではないか。
さて、この「三明神」の伝説とは、おおよそ次の通り。昔、神功皇后が三韓征伐から帰ると、妹姫(玉姫)が懐妊していた。神功皇后はこれを怒り、妹姫は空虚(うつろ)船で流された。連島の漁師が発見し救助した。漁師は手厚く看護したが、母子とも亡くなってしまった。この2人を祀ったのが玉姫明神と玉取明神である。子守明神というのは、この母子の後を追って亡くなった侍女を祀ったものである、という。玉取明神が少し離れて祀られているのは、早産で生まれて亡くなり、当時の風習として菰巻きにして海に流された(水葬)が、沖に流れず、戻って来てしまうので、浜の松の木の根元に埋めたからだ、とされる(その松の木があったところが、玉取明神(玉取社)のある場所だという。)。また、姫は亡くなると、大蛇となって昇天したとも、子蛇となって大岩の割れ目に入っていった(そのため、この大岩を祀った。)ともいう。
神功皇后の本場は九州だろうが、牛窓を始め、瀬戸内海各地にも種々の伝説が残る。神功皇后の妹姫といえば、近くでは備後国・福山市鞆の浦にある「淀姫神社」が有名だろう。備後国式内社「沼名前神社」は神功皇后が大綿津見命を祀った(そのとき、自らの鞆を奉納したということから、「鞆」という地名になったという。)が、妹姫である淀姫(豊姫、豊玉姫あるいは虚空津姫ともいう。)をこの地に留め、祭主として奉祀させたという。

「玉姫玉取社(一の明神)」の場所:連島西浦小学校(倉敷市連島町西之浦3575)の西口近くに「箆取神社」自動車参道登り口があり、少し登ったところの「大師堂」の脇の石段を登る。「玉取社」は小学校西口の南約50mの住宅に挟まれた場所。隣に「粉河寺」という小堂がある。いずれも昔ながらの家並みの残る地区で、道がとても狭く、駐車スペースはない。


写真上:玉姫玉取社(一の明神)鳥居と標柱


写真中:「一の明神」と「子守明神」とされる大岩


写真下:玉取社(玉取明神)


コラム89.阿保田神社と万富東大寺瓦窯跡

2008-11-28 23:02:34 | Weblog
「阿保田神社」(岡山市東区瀬戸町万富)は、俊乗坊重源が当地で東大寺再建のための瓦を焼くにあたり、東大寺の鎮守であった手向山八幡宮を当神社に勧請したといわれる(「阿保田神社」の項参照、2008年6月1日記事)。
当神社の前(南)の土地は瓦の原料土を採取したところで、江戸時代までは採取跡が池になっていたという。現在は「万富団地」という住宅団地になっている。
「万富東大寺瓦窯跡」(写真)は国指定史跡となっており、JR「万富」駅の北、約400mの丘(大寺山)にある。その手前を横切る県道96号線(岡山赤穂線)沿いの民家は、道路から2m程度嵩上げしているものが多い。これは、かつて吉井川がこの辺りまで入り込んでいた名残であるといわれている。そして、ここは、焼き上げられた瓦が積み出される船着場で、「梅の津」と呼ばれていた。この地名は、梅の木が多かったためとの説もあるが、川の一部を埋め立てた、「埋め」から来ているというのが有力。
瀬戸町万富に窯が設けられたのは、良質の粘土が採れたことと、吉井川の水運が利用できたことによるものらしい。


「万富東大寺瓦窯跡確認調査現地説明会資料」(PDF):http://www.city.okayama.okayama.jp/kyouiku/maibun/teikikouza/2007/07-02-2%20%93%8C%91%E5%8E%9B%96%9C%95x%8A%A2%97q%90%D5.pdf#search='万富 東大寺'

コラム88.睨み石

2008-11-27 19:26:36 | Weblog
赤磐市上仁保の「鴨布勢神社(通称:六座神社)」の東約400mのところに「睨み石」と呼ばれるものが残っている(写真上)。古代条里制における土地測量の基点とした石を「縄目石」といい(赤磐市東窪田などに現存。)、「睨み石」も同様だが、傾斜地ではうまく縄が引けないので目標の標柱を立てて、「睨んで」線引きをしたという。
こうした条里制の線を「縄目筋」というが、民間伝承では「ナワメスジ」・「ナマメスジ」・「ナメスジ」などといって、子の刻に神または魔が通るので、その線上に家を建てると災いが起きるとされる。伝承はともかく、それだけ「縄目筋」に権威があったということだろう。
さて、「睨み石」から更に県道250号線(山口山陽線)を約1km進む(北へ)と、大きな池(大天満池)があり、池の東に「鳥取上高塚古墳」がある。この古墳の築造年代は6世紀中頃とされ、前方後円墳であれば(前方部がはっきりしないらしい。)、長さが約67mあるという。
現在も赤磐市南部は美田が広がっており、古くから開けた地域であったことがよくわかる。

赤磐市のHPから(縄目石):http://www.city.akaiwa.lg.jp/kouhou/200709/jpg/p28.jpg

同(鳥取上高塚古墳):
http://www.city.akaiwa.lg.jp/kouhou/200509/jpg/p24.jpg


写真上:睨み石(赤磐市上仁保)


写真中:鳥取上高塚古墳。後円部の曲線がわかる。


写真下:鳥取上高塚古墳の玄室入り口

コラム87.熊山の天狗(小話)

2008-11-26 20:57:06 | Weblog
「熊山神社」は、かつて「熊山権現」と呼ばれていた。要するに「神仏混淆」である。それは天台密教だけでなく、修験道の影響が感じられる。となると、「天狗」である(ちょっと強引か。)。
熊山にも天狗がいた。名前は伝わっていない。熊山の天狗は人使いが荒く、それを恨んでいた下僕は、天狗が昼寝をしている隙に、足を1本切り落とした。それで、熊山の天狗は1本足なのだという。
さて、「天狗」といえば、杉の巨樹である(これも強引か。)。熊山山頂に2本の大きな杉の木があって、赤磐市の天然記念物に指定されている。推定樹齢約1千年という立看板もある。ところが、山頂駐車場の案内図看板では、樹齢約700年となっている。

(親子の会話)
子「1000年と700年と、どちらが正しいの?」
親「案内図の看板(700年)は300年前に立てられたんだよ。」


赤磐市のHPから(熊山の天然杉):
http://www.city.akaiwa.lg.jp/kouhou/200803/jpg/p28.jpg


写真上:熊山の天然杉


写真下:熊山山頂の案内図看板から

コラム86.八幡和氣降居神社

2008-11-25 21:31:02 | Weblog
八幡和氣降居神社(はちまんわけおりいじんじゃ)。
場所:赤磐市岡608。県道258号線(酌田沢原線)沿い、岡公民館の北に大きな池(「血の池」というらしい。)があるが、その先、谷の方に下りていく分岐があり、その道路に進んで、すぐ西の方に曲がって再び上って行く。美作岡山道路の高架の下を潜れば、すぐ。駐車スペースあり。
当神社は「八幡和気神社」(赤磐市佐古。当神社の南、約2.5kmにある。)の降居の宮だという。「降居の宮」というのは、いわゆる「御旅所」で、祭礼のときに神(神輿)を本宮から移して、一時的に奉安する場所。その神社や祭神、氏子などと関係の深い場所のことが多く、「御休所」(休憩所)ともいうが、時には目的地であることもある。当神社の場合、すぐ横に美作岡山道が造られたため、雰囲気が大きく変わってしまっただろうが、山の尾を利用した小高い場所にあり、ひょっとすると「八幡和気神社」の本宮であったかもしれない(妄想)。
「改修赤磐郡史」(昭和15年12月)では、当神社は旧号「王子権現」といい、伝承によれば赤磐市石蓮寺にあった王子神社の分霊を勧請したものである、との説を載せている。

岡山県神社庁のHP(八幡和氣降居神社):http://www.okayama-jinjacho.or.jp/cgi-bin/jsearch.cgi?mode=detail&jcode=10082


コラム85.水分神社

2008-11-24 17:59:35 | Weblog
水分神社(みくまりじんじゃ)。
場所:赤磐市酌田651。県道53号線(御津佐伯線)から県道258号線(酌田沢原線)が分岐する佐伯峠から南に約600m進み、狭い道を東に入る。すぐに石鳥居(比較的珍しい神明鳥居)が見えるが、社殿は長くて急な階段の上にある。その先、未舗装の車道があり、上に駐車場がある。なお、「八幡和気神社」の北、約4km。
境内に石を積み重ねた塚?があり、和気広虫(清麻呂の姉)または和気真綱(清麻呂の五男)の墓と伝えられる。
和気広虫の墓というのは、「みくまり」という言葉が「御子守(みこもり)」と誤解され、わが国初の孤児院を開設したとされる和気広虫と結びついたものといわれる。ちなみに、当神社は「子守八幡宮」と通称されていたという。
なお、「改修赤磐郡誌」(昭和15年12月)では、「之は神社改築の際、御内陣奉遷所であると。」と記している。
ところで、下記の岡山県神社庁のHPによれば、祭神は「ひ爪神」・「天之水分神」・「國之水分神」・「応神天皇」となっている。「水分神」は分水嶺など山の中にも祀られるだろうが、併せて「ひ爪神」も祀っていることが注目される。ただし、「岡山県神社誌」(昭和56年4月)には、「ひ爪神」は記されていない。いつから祀るようになったのだろうか。

岡山県神社庁のHP(水分神社):http://www.okayama-jinjacho.or.jp/cgi-bin/jsearch.cgi?mode=detail&jcode=10084


写真上:水分神社社殿


写真中:社殿背後の石を積み重ねた塚


写真下:社殿横の石の祠

コラム84.堰爪神社(岡山市)と石の懸樋・百間の石樋

2008-11-18 20:26:38 | Weblog
「堰爪神社(ひづめじんじゃ)」(岡山市東区瀬戸町万富)の「堰」の字は、正しくは土偏に要であるが、国内神名帳の写本のなかには「堰」としているものもある。「堰爪」という成語はないようだが、例えば「橋爪(橋詰め)」という言葉はある。「橋爪」は橋の袂(たもと)・際(きわ)を意味するから、「堰爪神社」であれば「堰」のそばに守護神として創建されたものと思われる。祭神は「堰爪神」だが、水分神(みくまりのかみ)ともされる。
「堰爪神社」(岡山市)は吉井川に面して、県道96号線(岡山赤穂線)沿いにある。しかし、ここはかつて「熊野の岸険(ほき)」と呼ばれた難所であり、旧山陽道が岡山市東区瀬戸町万富を通るようになっても、北西の「保木城」の北側を通過していただろうとされる。従って、「改修赤磐郡誌」(昭和15年12月)では、「堰爪神社」は別の場所にあり、寛文の寺社整理の際に寄宮にされるのを恐れて、現在地に移転させた(隠した)のではないか、というようなことことが記されている。因みに「別の場所」というのは、現在の山陽自動車道上り線「瀬戸PA」の北側辺りに「松尾」という地名があり、古墳群が発見されている。伝承では、ここに「松尾神社」があったという。瀬戸町万富に条里制が施行された際、これを担った帰化人秦氏が氏神を祀ったのではないか、とする。
その当否は不明だが、その後、田原用水が現在の赤磐市徳富から岡山市東区瀬戸町下までの開削工事がなされる(元禄7年(1694年))など、近くに灌漑施設の史跡が残っているのも興味深い(写真は「石の懸樋」)。
なお、瀬戸内市邑久町福山にも同名の「堰爪神社」があり、こちらは吉井川の左岸(東岸)にある。「上道郡」に坐すということになっているのは吉井川の川筋が変わったためとされているが、創建時から現在地にあったかは不明(同神社が「堰爪神社」となった経緯については、同神社の項(2008年6月16日記事)を参照。)。ただ、こちらも、南約600mのところに福山浄水場があり、市民の水を守っているようだ。


赤磐市のHPから(田原用水水路橋(石の懸樋)):http://www.city.akaiwa.lg.jp/kouhou/200507/jpg/p28.jpg

同(百間の石樋):http://www.city.akaiwa.lg.jp/kouhou/200806/jpg/p32.jpg

コラム83.石根依立神社・イモリ岩・外国山

2008-11-15 21:26:36 | Weblog
「石根依立神社」という名前からして、その基となった「石」があるのだろうと思う。その最有力候補は「イモリ岩」で、「石根依立神社」(写真上)の背後の山の山上にある。「イモリ岩」はその名前(=飯盛岩)・形状(巨岩で、上が平らになっている。)からして、いかにも磐座のようだ(写真中)。ただ、「イモリ岩」は山の東端にあり、神社は南麓にあることから、関連は疑わしいとする意見もある(「石根依立神社」の項(2008年6月1日記事))。
しかし、現地に行ってみると、「イモリ岩」の真下(東側)は急な崖で、今は平地もあって工場などもあるが、かつては近くまで吉井川が流れていたのではないか。そうしたことを考えると、古くは「磐座」そのものが祭祀対象であったが、時代が下って社殿が「神社」であるということになると、相応の敷地があり、安全で、型どおり南面する地に社殿を建てたのではなかろうか。
なお、「石根依立神社」の前を通る県道96号線(岡山赤穂線)が旧山陽道と考えられており、吉井川を渡った先(東)に「藤野」駅家があったらしい。しかし、和気町原のところで、吉井川は大きく流れの方向を変える。このようなところに渡河場所があったとは思えないとして、もう少し上流で渡河していたのではないか、という説もある。そうすると、あるいは「外国山」の東を旧山陽道が通っていた可能性もある。「岩生山元恩寺」の項(2008年8月20日記事)で書いたように、同寺はもとはもう少し西(あるいは北西)にあったとされており、旧山陽道の移転とともに神社・寺とも移転してきたのかもしれない。


写真上:石根依立神社遠景(正面に鳥居が見える。)


写真中:イモリ岩


写真下:外国山

コラム82.和気清麻呂の墓

2008-11-13 21:13:31 | Weblog
和気清麻呂は、奈良時代末期から平安時代初期の高級官僚で、備前国藤野郡(現・和気町)出身。宇佐八幡宮神託事件や平安遷都などで有名で、墓所は京都の神護寺境内にある。京都御所蛤御門前に鎮座する旧別格官幣社「護王神社」は、もともと神護寺内にあった和気清麻呂廟を移したものである。
しかし、備前国には、赤磐市(旧熊山町)松木の出身で、そこで没したとの伝承もあるようで、和気清麻呂とその姉広虫(法均尼)の墓所といわれるものがある。
場所:赤磐市役所熊山支所の北西約700m。県道79号線(佐伯長船線)から「赤磐市熊山浄化センター」のところに案内板があり、北東に入る。約200m直進して正面突き当たりにある。駐車場はないため、手前の道路のやや広いところに駐車。
赤磐市松木には赤磐市役所熊山支所(旧熊山町役場)が置かれるなど、今もこの地区の中心地であるが、古代山陽道では「駅家(うまや)」が置かれたところともいわれる。「延喜式」にいう「珂磨」駅がそれにあたる。赤磐市には、松木の西に、今も「可真」という地名が残り、「珂磨」=「可真」とする説も有力だが、「松木」はもともと「馬次(うまつぎ)」がなまったものとされる。この「和気清麻呂の墓」の周辺が、小字「馬次」と呼ばれるところである。また、「松木」の東隣は「円光寺」という地区で、ここに山上伽藍があったといわれている。ただ、駅家の遺構等はまだ発見されていない。
なお、2008年11月8日記事の「日野富子の墓」は、この「和気清麻呂の墓」の西、約1kmのところにある。


写真上:和気清麻呂の墓所。備前焼の像もある。


写真下:向かって左が和気清麻呂の墓、右が広虫の墓