国内神名帳所載の「都羅比神社」は現存しないが、「玉姫明神」・「玉取明神」・「子守明神」の三明神が有力候補らしい。それぞれ「一の明神」・「二の明神」・「三の明神」ともいうが、実は「四の明神」と「五の明神」もあるのだという。
「四の明神」は「亀島神社」であり、玉姫が敷物として使った苫を、「五の明神」は「五帝神社(伍帝明神社)」であり、玉姫が枕として使った石を、それぞれご神体としたと伝える。「五帝神社」については、こんな話もある。明治5年(1872年)に神仏分離令が出された際、検分の役人がやって来て、ご神体の石を調べた。何の変哲もない石だったので近くの池に投げ捨てたところ、沈むはずの石が浮き上がった。よく見ると、小蛇が石を持ち上げているのだった。役人は驚き、ご神体の石をきれいに洗って元に戻した、という。
これらの明神の伝説は、連島の西之浦、亀島、茂浦の「明神講」と結びついている。例えば、西之浦の「一の明神」等の明神講では、玉姫を助けたという「物部」(その後、子孫の「岡部」・「矢部」)、「船」、「生和」の3家を講員として、回り持ちで当番を務めて祭りを運営する。玉姫が亡くなったのが旧暦霜月の酉の日であったとしてその日に祭りを行うが、当番の家では、その1年間、鶏肉や卵などを食べない慣わしがあったという。
岡山県神社庁のHP(亀島神社):http://www.okayama-jinjacho.or.jp/cgi-bin/jsearch.cgi?mode=detail&jcode=02050
「都羅の小径」さんのHPから(五帝神社):http://www.geocities.jp/tsutomu_kurusu/komiti/gotei.htm
写真上:亀島神社
写真中:五帝神社(場所:連島東幼稚園の南約200m)
写真下:天神宮。連島西浦小学校西口のすぐ横にある。最初は「一の明神」の場所がわからず、この大岩かと思った。連島唯一の天神宮であるといい、拝殿のみで神殿はなく、大岩そのものを祀っている。あるいは、もともとは天満天神(菅公)ではなく、単に天津神を祀っていたのかもしれない。巨岩好きの方には、一見の価値あり。
「四の明神」は「亀島神社」であり、玉姫が敷物として使った苫を、「五の明神」は「五帝神社(伍帝明神社)」であり、玉姫が枕として使った石を、それぞれご神体としたと伝える。「五帝神社」については、こんな話もある。明治5年(1872年)に神仏分離令が出された際、検分の役人がやって来て、ご神体の石を調べた。何の変哲もない石だったので近くの池に投げ捨てたところ、沈むはずの石が浮き上がった。よく見ると、小蛇が石を持ち上げているのだった。役人は驚き、ご神体の石をきれいに洗って元に戻した、という。
これらの明神の伝説は、連島の西之浦、亀島、茂浦の「明神講」と結びついている。例えば、西之浦の「一の明神」等の明神講では、玉姫を助けたという「物部」(その後、子孫の「岡部」・「矢部」)、「船」、「生和」の3家を講員として、回り持ちで当番を務めて祭りを運営する。玉姫が亡くなったのが旧暦霜月の酉の日であったとしてその日に祭りを行うが、当番の家では、その1年間、鶏肉や卵などを食べない慣わしがあったという。
岡山県神社庁のHP(亀島神社):http://www.okayama-jinjacho.or.jp/cgi-bin/jsearch.cgi?mode=detail&jcode=02050
「都羅の小径」さんのHPから(五帝神社):http://www.geocities.jp/tsutomu_kurusu/komiti/gotei.htm
写真上:亀島神社
写真中:五帝神社(場所:連島東幼稚園の南約200m)
写真下:天神宮。連島西浦小学校西口のすぐ横にある。最初は「一の明神」の場所がわからず、この大岩かと思った。連島唯一の天神宮であるといい、拝殿のみで神殿はなく、大岩そのものを祀っている。あるいは、もともとは天満天神(菅公)ではなく、単に天津神を祀っていたのかもしれない。巨岩好きの方には、一見の価値あり。