備前の古社を訪ねる(備前国内神名帳の研究)

備前の由緒ある神社を巡礼する

コラム116.古代山陽道を探す(その20・三石)

2008-12-31 08:53:39 | Weblog
県道96号線(岡山赤穂線)で、和気町から備前市(旧吉永町)に入ると、県道も直線的になる。備前市三石までは金剛川の流れる狭い谷で、JR山陽本線も並行して直線的に走る。県道は途中で、金剛川の北岸から南岸に渡るが、これは多分新道で、旧道は谷の湾曲に沿って進み、古社「金彦神社」(備前市吉永町金谷)の南を通る。その辺りから、東行から、やや南東行に方向を変える。三石に入る手前で、県道は再び湾曲するが、JR山陽本線は切り通し?で直進している。地図で見ると、これに沿って、道路もあるようだ。ちょうど「日光山光明寺」のところに出て、そこから北東に方向を変える。ここからは旧国道2号線になる。
三石は播磨・備前国境の難所「船坂峠」を下りて来たところにある宿場町で、古代山陽道においても「坂長駅家」があったとされる。ただし、谷あいの小さな町で、現在は耐火煉瓦の工場等が立ち並んでいて、古代駅家の遺構は見つけられない。
ただ、上に出てきた「日光山光明寺」は、現在は高野山真言宗の寺院であるが、報恩大師の創建という。また、三石郵便局の向かいにある「三石明神社」は、妊娠中だった神功皇后が境内の石に腰をかけて休んだところといわれ、以来、境内の石が子である石を産むようになったとされ、子宝の神様として信仰されている(写真上、中)。このように、伝承では古代に遡り、古くから知られた地区であったようだ。

「真言宗岡山」さんのHPから(日光山光明寺):http://www.kukai.org/komyoji/index.htm


写真上:三石明神社。別名、孕み石神社。


写真中:三石明神社社殿前の「孕み石」。石が石を産むようにみえる。


写真下:三石一里塚跡。JR「三石」駅前にある。

コラム115.古代山陽道を探す(その19・和気で、ついでに)

2008-12-30 21:25:24 | Weblog
2008年12月29日記事で、和気町の吉井川左岸(東岸)では直線的な道路が発見しにくいと書いたが、見事な直線道路を発見した(写真)。
もちろん古代道路ではなく、岡山県道703号(備前柵原自転車道線)、通称「片鉄ロマン街道」で、片上鉄道の廃線跡が自転車道として整備されたものである。片上鉄道は柵原鉱山で産出する硫化鉄鉱などを備前市の片上港に運ぶために敷設された鉄道で、大正12年(1923年)に片上~和気間で一部開業し、昭和6年(1931年)に片上~柵原間(約34km)が全線開業したが、平成3年(1991年)に廃止となった。
式内社「宗形神社」(赤磐市)は柵原に近い。現地に行くと、こんなところに式内社がなぜあるのか、と思うのだが、往古も柵原から吉井川の水運で和気まで鉄の材料を運んでいたのかもしれない。

コラム114.古代山陽道を探す(その18・和気)

2008-12-29 21:38:59 | Weblog
延喜式にいう「珂磨駅家」は赤磐市松木付近であり、「坂長駅家」は備前市三石付近であるということが通説で、この2ヵ所を結ぶルートが古代山陽道であるということには、ほとんど異論がない。ただし、具体的に、どの道がそうなのかはよくわからない。
赤磐市松木からは、スタートは「松木」交差点ではなく、「伝和気清麻呂公墓所」前の狭い道を東に進むと、県道96号線(岡山赤穂線)に合流する。この道路がかなり直線的。和気町原で「石根依立神社」と「岩生山元恩寺」の前を通ると、ほどなく「東の大川」といわれた吉井川に出る。現在は「和気橋」が架かっているが、かつては舟渡しであった。江戸時代には船番所があり、その跡地の石碑には、享保20年(1735年)から明治維新(1868年)まで存在したと記されている(写真上)。古代の渡しの場所は不明だが、さほど変わりはなかったのではないかと思われる。
さて、和気町には、和気清麻呂によって延暦7年(788年)に「珂磨駅家」に移転されるまで「藤野駅家」があった。その具体的な場所はわかっていないが、和気町藤野に「大政(だいまん)」という小字地名があり、和気氏の政庁跡とされている。遺構等は発見されていないが、「和気清麻呂公碑」が建てられている(写真中)。また、近くに「藤野廃寺」もあり、和気氏の氏寺であったようだ(現在は跡地に日蓮宗の「福昌山実成寺」がある。写真下)。したがって、これらの史跡の付近を古代山陽道が通っていたと思われるが、現在道の県道96号線(岡山赤穂線)は、JR「吉永」駅付近まで金剛川に沿ってかなり蛇行している。
ところで、和気町役場の所在地の地名は「尺所(しゃくそ)」という。古代には、駅が置かれたところとして駅所村と称していたが、中世に尺所村に改めたという。金剛川対岸の「大田原」(古社「由加神社」がある。)はもともと尺所村の一部であり、地続きであったが、天正年間(1573~1593年)に洪水があって金剛川の流れが変わり、尺所と大田原の間を流れるようになったとされる。和気町の吉井川左岸(東岸)で直線的な道路が発見しにくいのは、そのせいかとも思われる。


写真上:和気船番所跡の碑。国道374号線沿い、和気橋の北約200mのところにある。


写真中:和気清麻呂公碑(和気氏政庁跡?)。


写真下:藤野廃寺。現・福昌山実成寺。境内の向かって右の銀杏の木のところに、「和気氏経塚」がある。これは「卿塚」で、和気清麻呂の墓所とする説もある。

コラム113.古代山陽道を探す(その17・赤坂郡ルート)

2008-12-28 20:47:21 | Weblog
通説によれば、古代山陽道は、「高月駅家」とされる赤磐市馬屋付近から下市~日古木峠~可真上~沢原と進み、そこから方向を変えて、「珂磨駅家」とされる松木付近に至る(赤坂郡ルート)。「延喜式」に記された「高月」と「珂磨」の両駅を結ぶ安全なルートが想定されたわけである。
中村太一氏が「上道郡ルート」を原初山陽道とする前提として、「延喜式」が編纂された10世紀は、実は既に律令制が緩み、官道制度は消滅しつつあった時期に当たるということがある。すなわち、「延喜式」に記された駅家は、整理・改変されたルートのものかもしれない、ということである。
さて、今度は、通説の「赤坂郡ルート」を辿ってみる。赤磐市馬屋付近の「高月駅家」及び「備前国分寺」のことは、「備前国府の所在地(その1)」の項(2008年10月27日記事)で触れた。「高月駅家」からは県道27号線(岡山吉井線)を東に進み、山陽自動車道の高架の下のところからバイパスができているが、旧道に入る。すぐに両宮山古墳(前方部に古社「伊勢神社」(通称「両宮神社」)がある。)の周濠の土手が見えてくる。古代山陽道は、この周濠の縁に沿っていたといわれており、現在道とすこしズレている。県道は河本のところで多少の湾曲があるが、古代道は岩田の大池とゴルフ練習場の間を直進し、下市の手前で県道(旧道)と再び合流する。下市から先は宅地開発のため、わからなくなっている。特に、日古木峠付近は「岡山ネオポリス」という大規模な住宅団地になっている。もし下市から直線的に進むとすれば、赤磐市役所の東側を通って、日古木大池の東側を経て、不死ノ大池の東側に出る。その辺りが可真上で、北東に進んでいた道が、東に方向を変える。現在道は、下市から桜ヶ丘東六丁目までは県道253号線(可真上山陽線)で、その先(東)は県道403号線(町刈田熊山線)になる。この県道403号線が可真上から沢原まで概ね直線的になっている。沢原の磐梨中学校と磐梨小学校の間を抜けて、突き当たりT字路で右折(南東へ)すると、「珂磨駅家」があったとされる松木に至る。ここに「伝和気清麻呂公墓所」という史跡があり、「墓所」というのは疑わしいが、その周辺が本来の松木(馬次)集落だったとされる(「和気清麻呂の墓」の項参照。2008年11月13日記事)。沢原からの現在道は県道79号線(佐伯長船線)であるが、小野田川の堤防上の道路なので、当然、古代道とは異なるだろう。あるいは、山麓を走る「伝和気清麻呂公墓所」の前の狭い道が古代山陽道だったかもしれない。


赤磐市のHPから(古代山陽道):http://www.city.akaiwa.lg.jp/kouhou/200708/jpg/p32.jpg


写真上:両宮山古墳説明看板。絵でも、周濠の縁と県道27号線が少しズレているのがわかる。


写真中:日古木大池(北から南を見下ろす。)


写真下:可真下と沢原の境目辺りから東を見る。県道403号線は湾曲しているが、ほぼ直線に連結する旧道?がある。なお、少し西に「於奠神社」がある。

コラム112.古代山陽道を探す(その16・上道郡ルートⅡ)

2008-12-25 21:16:32 | Weblog
地図を見るとよくわかるが、岡山市東区瀬戸町観音寺(以下、地名の「岡山市東区瀬戸町」は略す。)から万富まではほとんど直線的な道路が約7kmも続いている(県道96号線(岡山赤穂線))。途中、瀬戸~光明谷のところは湾曲しているが、瀬戸中学校と瀬戸高校の間の線を延ばせば直線的になりそうに思える(ただし、現地に行くとはっきりせず、自信はない。)。また、森末のところで200mほど北に平行移動しており、現在道とは異なるかもしれない。条里制の線とも多少ズレているようだ。
「上道郡ルート」を古代山陽道と考えるのは、旧瀬戸町内の直線的道路だけではない。「珂磨駅家」が現・赤磐市松木付近であれば、単に地図の上に線を引くだけなら「上道郡ルート」のほうが自然に思える。もう1つは、旧瀬戸町内に白鳳~奈良時代の廃寺遺跡がいくつか発見されていることである。たとえば、塩納に「吉岡廃寺」、森末に「妙興寺廃寺」、南方に「妙見下廃寺・五反田廃寺」、坂根に「夏井遺跡」がある。ひょっとすると、どれかが磐梨郡衙だったかもしれない。ちなみに、「赤坂郡ルート」の旧山陽町には、(立派な古墳はたくさんあるが)古代寺院は備前国分寺・国分尼寺くらいしか発見されていない。中村太一氏は、高橋美久二氏の説を引用して、出土した瓦の分類からみて、原初の国分寺は賞田廃寺など上道郡内の古代寺院の中にあり、後に赤坂郡に移転した可能性を示唆している。もう1つ、その名のとおり「上道郡ルート」であれば、備前国の「上道」、備中国の「下道」が対になることも指摘している。
以上のように(他に「条里余剰帯」の分析なども行われている。)、素人目にみてもかなり説得的なのだが、やはり問題は万富の先(東)である。吉井川が岸壁を洗う「熊野の岸険(ほき)」と呼ばれた難所で、現在は県道96号線で簡単に越えられるが、古代にはどうだっただろうか。中村氏は、かつては岸壁の下を通れた可能性も指摘するが、何とも言えない感じである。安全に通るなら、城山の北を峠越えするルートを開削したものと思う。その道があったかどうかは、わからない(なお、「堰爪神社と石の懸樋・百間の石樋」(2008年11月18日記事)も参照。)。


写真上:吉岡廃寺の塔心礎。今は万富公民館横の公園に置かれている。


写真下:奥の緑の屋根・大きな煙突の建物が「瀬戸クリーンセンター」。その手前に白い帯状に見えるのが、山陽自動車道。赤磐市徳富方面に峠越えするのなら、「瀬戸クリーンセンター」の右側(東)辺りか。

コラム111.古代山陽道を探す(その15・上道郡ルートⅠ)

2008-12-24 21:36:42 | Weblog
「延喜式」に現在の赤磐市馬屋付近に比定される「高月駅家」(「備前国府の所在地(その1)」2008年10月27日記事参照)が記されているため、古代山陽道は現在の赤磐市松木または可真から日古木峠を越えて馬屋に至る(赤坂郡ルート)、というのが通説となっている。しかし、原初山陽道は現在の岡山市東区瀬戸町を横断し、才ノ嵶を越えて岡山市中区土田に至るルート(上道郡ルート)だったのではないか、という説もある(北海道教育大学教育学部釧路校准教授・中村太一氏「備前国における古代山陽道駅路の再検討」)。この説に従って、ルートを辿ってみる。
中村説によれば、備前国府はもともと上道郡(現・岡山市「高島」地区内)にあった(その後、9世紀に三野郡に移転。)。その場所は賞田の東端辺りで、旭川西岸では三野からダイミ山の峠を越えると想定するので、そこに連絡するように、原初山陽道は「国長宮」前の道ではなく、もっと北で、龍ノ口山山麓に近いところを通る。「大神神社」の(鳥居前ではなく)現社殿の前を通って、土田に出る。そこは県道81号線(東岡山御津線)と県道96号線(岡山赤穂線)交差点辺りか(写真上)。交差点が少しずれているが、岡山東養護学校の北側には「居都廃寺」があった。「土田北」の交差点から緩やかな坂を上って行くと、東区瀬戸町宿奥を経て、瀬戸町観音寺に出る。
「居都廃寺」は、牟佐~土田の道路沿いとも言えるので、必ずしも「上道郡ルート」を有利としないが、瀬戸町観音寺に出た先にある「大廻小廻山城跡」の存在は大きなポイントの1つである。まだ調査が十分ではないが、朝鮮式山城といわれ、築城時期は7世紀後半と思われる。古代官道が軍事的意味を持つならば、備中国の「鬼ノ城」と同じく、古代山陽道のために築かれたものかもしれない。
ところで、「土田」という地名は「ハタ」とも読める。「大神神社」の境内末社に「松尾御崎神社」があり、この地の地主神であるという。どちらも渡来人「秦氏」の存在を連想させる。

岡山市のHPから(居都廃寺):http://www.city.okayama.okayama.jp/museum/kodai-jiin/07.html

同(大廻小廻山城跡):http://www.city.okayama.okayama.jp/kyouiku/bunkazai/oomeguri/0-gaiyo.htm


写真上:信号のところが「土田北」交差点。県道96号線は、ここを右折(東へ)し、「瀬戸」方面に向かう。「美作」方面に行くと、牟佐に至る。


写真下:「大廻小廻山城跡(一の木戸)」(水門跡)

コラム110.古代山陽道を探す(その14・地蔵岩)

2008-12-22 20:24:07 | Weblog
「牟佐の渡し」で旭川を渡らずに、岡山市中区国府市場付近にあったとされる備前国府に行くためには、岡山市北区牟佐から南下し、東区矢津で峠を越え、中区土田に出る。このルートの現在道は、県道81号線(東岡山御津線)の一部となっている。頭高山(今は長岡にある「天鴨神社」の旧社地ともされる。)の手前を西に曲がり、「大神神社」前を経て、備前国府に向かうことになる。東には「居都廃寺」、「往来神社」があり、直進するとJR山陽線「東岡山」駅である。
さて、県道81号線を、県道27号線(岡山吉井線)との交差点から約1.3km南下すると、県道から少し西に入ったところに「地蔵岩」という巨岩がある。高さは約20mで、地蔵川に接して絶壁のようになっている(写真上)。岩自体の形が地蔵菩薩像に似ているため、その名があり、岩の上の小堂の中に石の地蔵が安置されている。また、「南無八大龍王」の石碑もあり、雨乞いの祭祀も行われたのだろう。地蔵岩の北側(岡山市北区玉柏の大原地区)は旭川の中洲のような土地で、かつては地蔵川の水量も多かったという。往古には地蔵岩が旭川に面していたことも考えられ、古代道路や水運の目印だっただろうし、あるいは磐座であった可能性もある。


写真上:地蔵岩全景


写真中:地蔵岩頂上


写真下:地蔵岩頂上から北側を眺める。ちょうど本宮高倉山がある。    

コラム109.古代山陽道を探す(その13・牟佐の渡し)

2008-12-21 19:38:58 | Weblog
岡山市北区玉柏から旭川を越えて牟佐に渡るには、現在では「新大原橋」による。かつては渡船によった。「牟佐の渡し」である。
旭川が大きく湾曲した場所で、玉柏側が東に張り出している山(「たいしょうじ山」というらしい。)の麓に「八幡宮」(宮本八幡宮)がある。JR津山線は、こ
の神社の社殿のすぐ横を、巻くように走り、旭川を渡らずに津山方面に向かう。社殿の東に小道があり、JR津山線を横断して山の東端に続いている(ただし、踏切がないので、「立入禁止」となっている。)。そこに「野神さん」という小祠がある。これは、かつて旭川の水をそのまま飲み水に使っていた頃、疫病が流行ったので、川から石を拾ってきて祀ったところ、疫病が止んだという。
この「たいしょうじ山」にも古墳があるようで、元はこちら側に元宮があったのではないか(妄想)。この神社は、僧・行教が八幡宮を勧請したものという伝承があるらしい。境内には、行教の墓と伝える宝篋印塔もある。行教といえば、貞観元年(859年)に、宇佐八幡神を山城国男山に勧請した(=「岩清水八幡宮」)僧である。伝承の真偽は別として、相当古くから、ここに神が坐したのだろうとは思われる。
ところで、「牟佐」という地名は、大和国の式内社「牟佐坐神社」(奈良県橿原市)に由来するともいう。


岡山県神社庁のHP(八幡宮(通称・宮本八幡宮)):http://www.okayama-jinjacho.or.jp/cgi-bin/jsearch.cgi?mode=detail&jcode=01031

岡山市のHPから(牟佐の渡し):http://www.city.okayama.okayama.jp/museum/asahigawa/history/history-01.html

「岡山市宮本地区の風土記(2)」(津川稔男さん記)から:http://townweb.e-okayamacity.jp/makiishi-r/hudoki-022.html
この記事だけでなく、この「風土記」を大変参考にさせてもらいました。ただし、街道の話が全く出てこないのが不思議。

「神々の坐す杜」さんのHP(牟佐坐神社):http://yasaka.hp.infoseek.co.jp/musa.html


写真上:宮本八幡宮


写真下:旭川。新大原橋の西側。この辺りに渡しがあった?

コラム108.古代山陽道を探す(その12・三野~玉柏)

2008-12-20 22:22:17 | Weblog
古代山陽道が、岡山市北区三野付近から東はどういうルートになっていたか、備前国府がどこにあったかに大きく関連してくる。備前国府の位置については、以前に書いた(「備前国府の所在地」の項。2008年10月27日~11月6日記事)。
「改新の詔」(646年)によれば、国司と官道の制度の創設は同時である。1つの問題は吉備国の分国で、備前・備中・備後に分割されたのは7世紀後半とされている。更に、備前国から美作国が和銅6年(713年)に分国された。吉備分国前の吉備国府(吉備大宰府?)は備前国にあったとは限らず、備中国の区域内にあったかもしれないし、備前・美作分国前には備前国府が美作国の区域内にあったかもしれない。もう1つ、備前国府が三野郡(御野郡)にあったとする場合も含めて、「延喜式」に記載された「高月駅家」(赤磐市馬屋付近に比定)から岡山市北区三野までは「牟佐の渡し」で旭川を渡り、旭川の右岸を山麓に沿って南西に進むのが自然で、岡山市中区国府市場付近を通るのは明らかに迂回となる。
したがって、通説は、旭川右岸を通る古代官道が先に出来て、その後岡山市中区国府市場付近に備前国府が出来た(または移転した)ため、「高月駅家」から南下するルートが新設され、「釣の渡し」で岡山市中区今在家と北区三野を結ぶことになったとする。
国府市場付近を通過するルートについては次回以降に書くことにして、三野~牟佐間だが、「自然」なルートと考えられてきたため、ほとんど実証されていないように思われる。この間は、現在では旭川堤防上に快適な県道27号線(岡山吉井線)ができているが、当然、古代にはもっと山麓沿いにあったと思われる。JR津山線の西側の道路がそうだろうか。直線的ということであれば、JR津山線がもっとも直線的に思われる。県道386号線(津高法界院停車場線)はかなり屈曲しているし、JR津山線「備前原」駅のところで西に向かい、旭川から離れていく。むしろ、その先の中原橋から北東方面の道路は、途中、山麓の地形に沿って方向を変えつつ、直線的になっており、旭川の渡河ポイントまで至る。


写真上:三野公園から玉柏方面を眺める。現在では、岡山市から赤磐市方面に向かうには旭川沿いの県道27号線(岡山吉井線)を利用するだろう。中央に見えるのは「中原橋」で、右(東)に渡っていくと国府市場・原尾島方面。


写真中:岡山市北区宿本町の北端から先の道路(県道386号線)。直線的ではあるが、正面には山。


写真下:牧石小学校の南の交差点から北東に延びる道路。この交差点を曲がって北へ進むと「金山寺」。

コラム107.古代山陽道を探す(その11・福輪寺縄手Ⅱ)

2008-12-17 20:09:26 | Weblog
「福輪寺縄手」については、「平家物語」の中に瀬尾太郎兼康が木曽義仲軍に攻められて討ち死にする場面に、「福竜寺縄手」の名で出てくる。その道の描写は凡そ次の通りである。

1.道幅は弓1本程度。
2.長さは1里ほど。
3.左右は深い泥田である。

弓の長さは、7尺3寸(約221cm)が標準という。ただし、直線的な長さではなくて、元の素材の長さであって、実際には優美なカーヴがあるから、道幅としてはもう少し狭い。1里は普通約4kmだが、当時は5~6町くらいを1里としていたようで、約500~600mと思われる。ほぼ直線的なのは、最長で津島小学校付近から半田山植物園までと考えると、これが約2km。だから、「福輪寺縄手」と呼ばれていたのは、このうちの一部かもしれない。
岡山大学の北側の道路(写真上)をみると実際直線的だが、岡山大学津島キャンパスは元は陸軍第17師団駐屯地があったところで、そのときに整備されたかもしれないので、この道路が「福輪寺縄手」そのものかどうかはわからない。
さて、更に進むと「半田植物園」前を通って、北に報恩大師開基伝承がある真言宗の古刹「法界院」(写真下)の前に出る。
なお、「福輪寺縄手」が注目されたのは、その道を延長すると、旭川の左岸(東岸)にある「国長宮」(岡山市中区国府市場)の前の道路(中世山陽道)にちょうど連結することによる。


岡山大学埋蔵文化財調査研究センター報№36(PDF。3ページ目):http://www.okayama-u.ac.jp/user/arc/issue/leaf/leaf36.pdf


写真上:岡山大学の北側の道路。東を見る。右のブロック塀の中が岡山大学キャンパス。突き当たりの左側が岡山理科大学の入り口で、そこには有名な「朝寝鼻貝塚」があった。


写真下:法界院