備前の古社を訪ねる(備前国内神名帳の研究)

備前の由緒ある神社を巡礼する

コラム237.民間信仰の神様(その1・イボ神様)

2010-01-29 20:38:05 | Weblog
前回(2010年1月15日記事)で「巨勢金岡の墓」を取り上げ、それが通称「かのう様」と呼ばれてイボ(疣)除去に御利益があることを紹介した。いわゆる「イボ神様」は全国にあり、備前国にも他にもある。写真の「イボ神様」は岡山市中区国府市場のものだが、このブログでも取り上げた中でも、式内社「石上布都魂神社」(赤磐市、2008年6月8日及び2009年3月24日記事)や「亀石神社」(岡山市南区水門町、2008年6月5日記事)は、知る人ぞ知る「イボ神様」でもある。
「石上布都魂神社」は、奥宮が磐座であることは有名であるが、その磐座にいわゆる「盃状穴」がある。その穴に溜まる水は霊水であって、これを塗ればイボが取れるとされる。
一般に、上面が平らな「磐座」には「盃状穴」があることが多い。この穴に供物を奉げたのではないか、ともいわれる。「盃状穴」のある岩は日本だけでなく、世界各地にあるらしい。祭祀としては、太陽や神に対するもののほかに、いわゆる「ヨニ」(女陰)を表したものもあるようだ。「イボ神様」は、イボ(凸)に対する凹としても意味があるのかもしれない。
写真の国府市場のイボ神様は、五輪塔の笠の部分のようで、その上の部分がなくなってしまって、上の窪みに水が溜まる形になっている。磐座と盃状穴に見立てたものかもしれない。ただし、現在伝えられているイボの取り方は、「左縄(左向きによった縄)をイボ神様に巻いてよく拝む。直ったら縄を取る。」(「高島つどいの場所づくり研究会」さんのHPによる)となっている。
「亀石神社」のほうは、「亀石」を囲む玉垣内の小石をいただいて、その小石でイボを擦ると取れるという。「亀石」自身が磐座だろうが、「盃状穴」は無い・・・と思ったら、拝殿そばの岩には「盃状穴」がある。

「国府市場のイボ神様」(写真)
場所:岡山市中区国府市場。高島小学校の北、約250mのところに「賞田」バス停があり、そこから東に約300m。老人ホーム「幸輝園」の向かい側。駐車場なし。かなり小さいので、拍子抜けする。
ちなみに、高島小学校から北側の地域は備前国府のあった場所ともいわれており(2008年11月1日記事)、上記の老人ホームの東には「成光寺廃寺」遺跡がある。

コラム236.巨勢金岡の墓(かのう様)

2010-01-22 20:56:03 | Weblog
巨勢金岡の墓(こせのかなおかのはか)。通称:かのう様。
場所:岡山市東区西大寺上一丁目。スーパー「リョービ・プラッツ西大寺店」の南東の角を曲がって北へ、約250m。「西大寺中学校」の北西端の北側。高い生垣に囲まれているので、通り過ぎないように注意。駐車場なし。
巨勢金岡(生没年不明)は、平安時代前期に活躍した宮廷画家で、大和絵の確立者として名高い。宇多天皇などを後ろ盾に、貞観10年(868年)頃には宮廷の神泉苑作庭を監修し、元慶4年(880年)には清涼殿・紫宸殿に絵を描いたという。ただし、現在、その真筆として確実なものは1つも残っていないとされる。縁結びの神様として有名な「八重垣神社」(島根県松江市)の本殿板壁画(国重文)は寛平5年(893年)金岡の作との伝承があるが、室町時代頃のものらしい。
古くから名声は高かったようで、各地に伝説がある。例えば、
①「仁和寺」(京都市)周辺の田畑が荒らされることが続き、調べてみると、巨勢金岡が書いた「仁和寺」壁画の馬が毎夜、絵から抜け出していたことがわかった。絵の馬の目を隠すと被害は止んだという。
②熊野古道の「藤白峠」(和歌山県海南市)で、熊野権現の化身である童子と絵の描き比べをした。金岡はウグイスを、童子はカラスを描いたが、どちらも甲乙つけがたく、手を打って追うと、どちらも絵から抜け出して飛び去った。しかし、童子が呼ぶと、カラスは戻ってきたが、ウグイスは戻ってこなかった。負けた金岡は、傍らの松に筆を投げ捨てた。この松を「筆捨松」という。
③出雲の日御碕にある「筆投島」(島根県出雲市)は、金岡がこの島を写生しようとしたが、あまりの美観に写しきれず、筆を投げてしまったという。
④「多賀神社」(山口県光市)の展望台から見る室積湾の美しさに「わが筆及ばず・・・」と言って、傍らの松に筆をかけて去った。この松を「筆懸けの松」という。
さて、伝説的な画聖、巨勢金岡の墓がなぜ、西大寺にあるのか。もともと巨勢氏は武内宿禰(因幡国一宮「宇倍神社」の祭神。2009年9月9日記事参照)の子孫で、金岡の曽祖父である巨勢野足(こせののたり)は坂上田村麻呂らとともに征夷副使となったり、藤原冬嗣とともに蔵人頭になったりと、有力な武人・政治家であった(最終的には正三位中納言右近衛大将)。「岡山のごりやくさん」(山陽新聞社編、平成元年10月)は、西大寺文化資料館の青江文次副館長の話を引用して、「父の野足が備前国府の国司だったころにこの地で生まれ、地名にも残っている金岡と命名したのではないか」とする。ただし、野足が備前国司であったのは弘仁2年(811年)7月~同3年(812年)1月のわずか7ヵ月間とされる(「岡山市史第1巻」(昭和11年3月))ので、旧金岡村生まれというのも、伝説の域を出ないように思われる。
ところで、この「巨勢金岡の墓」は、通称「かのう様」と呼ばれている。「かなおか様」が訛ったものとされるが、願い事が「叶う」ということで信仰を集めた。霊験あらたかなのは、なぜかイボ取りで、この墓石を削った粉を塗ると、イボが取れるという。今も、墓石(粒状石灰岩)の一部は削られて真っ白くなっている。
余談だが、金岡自身は「金岡神社」(大阪府堺市)に祀られている。また、孫の巨勢宮主麿は大和国一宮「大神神社」(奈良県桜井市)の社家になったという。


阜嵐健さんのHP「延喜式の調査」から(金岡神社):http://www.geocities.jp/engisiki/settu/bun/st060107-01.html

コラム235.硯井天満宮

2010-01-15 23:14:27 | Weblog
硯井天満宮(すずりいてんまんぐう)。
場所:玉野市八浜町大崎169-1・170。JR宇野線「八浜」駅の西、約500m。県道405号線(山田槌ヶ原線)沿い(北側)に「硯井の井戸」があり、その向かい側の狭い道路に入って、すぐ。駐車場あり。
菅原道真公左遷の西下途中に残したとされる伝説の関連神社を取り上げてきたが、調子に乗ってもう1つ(これで終わりにします。)。
「硯井天満宮」がある辺りは、並行しているJR宇野線と県道405号線の北側が干拓地で、かつては児島の海浜だった。この浜に菅公が上陸すると、海辺なのに塩気のない清水が湧いている窪みがあった。これぞ神の恵みと喜んだ菅公が拍手を打って拝すると、その度に新たな水が噴出してきた。感動した菅公は、その水を硯水に使い、「海ならず 湛える水の 底までも 清き心を 月ぞ照らさん」という歌を詠んで里人に与えた。後に、里人が菅公を偲んで天神社を祀ったという。
このほか、倉敷市唐琴1丁目にある「唐琴天神社」(旧県社「鴻八幡宮」の境外末社だったという。)の脇にも「天神の井戸」がある。また、国道430号線沿い(国民宿舎「王子が岳」の北西、約500m)にも「天満宮ゆかりの井戸」がある(写真下)。こうした「天神の井戸」が児島の北と南にあるということは、児島の広い範囲に同様の伝説が伝えられていたということだろう。児島の浜辺では、真水が極めて貴重だった、ということかもしれない。


岡山県神社庁のHP(天神宮(硯井天満宮)):http://www.okayama-jinjacho.or.jp/cgi-bin/jsearch.cgi?mode=detail&jcode=04019

同(唐琴天神社):http://www.okayama-jinjacho.or.jp/cgi-bin/jsearch.cgi?mode=detail&jcode=06032


写真上:「硯井天満宮」鳥居


写真中:硯井の井戸


写真下:天満宮ゆかりの井戸(倉敷市児島唐琴町)

コラム234.裳掛天満宮

2010-01-10 20:30:31 | Weblog
裳掛天満宮(もかけてんまんぐう)。
場所:岡山市東区金岡東町2-11-22。岡山東警察署前から南下する県道177号線(九蟠中野線)沿い、コンビニ「サークルK岡山金岡東町店」の東、徒歩約3分。当神社には駐車場がないが、隣接する「宝琳寺」に駐車場あり。
「隣接する宝琳寺・・・」というのには理由があって、もともと当神社を「裳掛天満宮」という名の由来と関係がある。菅原道真公が大宰権帥に左遷されて船で西下する際、「犬島」付近で暴風雨に遭い、この地の観音堂に難を逃れた。このとき、濡れた衣を松の枝に掛けて乾かした、という。この松を「裳掛の松」といい、後に菅公を記念して寺(観音堂)の鎮守として「天満宮」を建立したとされる。このため、この寺は「天神坊」とも称されたが、寛文年間、岡山藩の命により、天神社が寺から分離されたという。現在、この寺は「泰王山宝琳寺」と称し、高野山真言宗の寺院となっている。
ところで、当神社が鎮座する「金岡」という地名は、会陽(裸祭り)で有名な「西大寺観音院」創建の地である「金岡庄」(旧・上道郡金岡村)に因んでいるとされる。「西大寺観音院」の山号「金陵山」は、「岡」の字を同じ意味の「陵」に変えたもの。観音菩薩は、この地でも古代から広く信仰を集めていたようだ。


岡山県神社庁のHP:http://www.okayama-jinjacho.or.jp/cgi-bin/jsearch.cgi?mode=detail&jcode=13020


写真上:「裳掛天満宮」(左)と「泰王山宝琳寺」(右)


写真中:「泰王山宝琳寺」の大悲殿(観音堂)。本尊:千手観音菩薩


写真下:「裳掛天満宮」

コラム233.子安天満宮(菅公腰掛石)

2010-01-08 21:06:36 | Weblog
子安天満宮(こやすてんまんぐう)。
場所:岡山市北区十日市東町2-28。県道40号線(岡山港線)「十日市中町」交差点から東に真っ直ぐ、約600m。駐車場なし。
住所は南区から北区に変わるが、吉備国「内宮」(岡山市南区浜野一丁目)の北西、約200m(直線距離)の近さにあるので、ついでに参拝したい。
昌泰4年・延喜元年(901年)、左大臣藤原時平の讒言によって右大臣菅原道真は大宰権師に左遷され、事実上大宰府に流された。結局、2年後の延喜3年(903年)には現地で亡くなってしまうのだが、西下の途中、備前国にもいくつかの伝説を残した。その1つが備前市の「履掛天神宮」境内の「履掛石」(2009年8月3日記事)であるが、こちらは、菅公が腰を掛けた石だという。「腰掛石」は、縦・横約50cm、高さ約30cmの思ったより小ぶりな石で、確かに上面が平らになっている。
当時、この周辺は海辺であり、菅公がこの石に腰掛けて休息していると、近くのみすぼらしい漁師の家から女のうめき声が聞こえた。漁師の妻が難産に苦しんでいたのだが、菅公が安産の歌を詠むと(あるいは、呪文を唱えて袖で産婦の腹を撫でると)、忽ち安産した。この菅公の徳を偲び、天喜元年(1053年)に天満天神として社殿が建立されたという。


岡山県神社庁のHP(天満宮(子安天満宮)):http://www.okayama-jinjacho.or.jp/cgi-bin/jsearch.cgi?mode=detail&jcode=01022


写真上:「子安天満宮」正面


写真中:「子安天満宮」境内の「御祭神菅公腰掛石古跡」


写真下:「菅公腰掛石」

コラム232.吉備国内宮

2010-01-03 22:19:17 | Weblog
内宮(ないくう)。
場所:岡山市南区浜野1-3-8。旭川右岸(西岸)を走る県道213号線(福島橋本線)沿い、「岡山製紙」本社工場の西側。駐車場あり。
「伊勢神宮」は、天照大神を祀る皇大神宮(内宮)と豊受大神を祀る豊受大神宮(外宮)を正宮とするが、内宮はもともと皇居内にあった。第10代崇神天皇の6年(紀元前92年)、皇女の豊鋤入姫命が詔を受けて理想的な鎮座地を求めて各地を転々とした。その際、吉備・名方浜宮にも4年間滞在したとされる。吉備国の内宮は、この「名方浜宮」に因んで創建されたということになっていて、だから、「伊勢神宮」より前に出来ていたとされるわけである。
ところで、この「名方浜宮」の比定地とされる場所は1つではない。「岡山市史」などでは、(近くに備前国府址や総社宮がある)岡山市中区賞田にはかつて「中田村」があり、これが「名方浜」だったのではないか、とする。そして、式内社「伊勢神社」(岡山市北区番町)は、元はその付近にあったが、旭川の対岸に引っ越してきたのだろうという説である。なお、「伊勢神社」が現在鎮座する番町の対岸は「浜」という地名である。一方、この「内宮」の鎮座地は「浜野」であり、こここそが「名方浜」であるとする。ほかにも、岡山県内では、総社市福井の「神明神社」、倉敷市真備町と高梁市川上町の「穴門山神社」などがあり、「吉備」というのを紀伊国名草郡吉備郷とみて和歌山県にもある。
また、この「内宮」に対して、上記の式内社「伊勢神社」を外宮とする説もある。
真相は何か、ということはなかなか結論はでないが、吉備津彦ら四道将軍が派遣されたのが崇神天皇10年とされていることとあわせ、この頃、地方に対するヤマト政権の世俗的・軍事的勢力拡大があったということだろう。


岡山県神社庁のHP(内宮):http://www.okayama-jinjacho.or.jp/cgi-bin/jsearch.cgi?mode=detail&jcode=01011


写真上:「内宮」正面鳥居。傍らの碑に「伊勢皇大神宮御聖跡」とある。


写真下:「内宮」正面