備前の古社を訪ねる(備前国内神名帳の研究)

備前の由緒ある神社を巡礼する

コラム26.広谷山如法寺(無量寿院)

2008-07-29 22:17:59 | Weblog
広谷山如法寺(ひろたにさん にょほうじ)。「無量寿院」(むりょうじゅいん)と「西方寺」(さいほうじ)があるが、無量寿院は西大寺会陽(裸祭り)の「宝木取り」(西大寺から当寺に宝木の原木を受け取りに行く)の寺として有名で、西方寺の情報はほとんどない。なお、同じ「広谷」だが、芥子山から南にやや離れた場所に「松中山観音寺」がある。ここは、藤原皆足姫が観音堂を建てたところで、この観音(千手観音)を安隆上人が現在の西大寺観音院に移した、というのが開基伝承となっている縁の寺である。いずれにせよ、「如法寺」ではなく、「広谷山無量寿院」で通用するので、以下は無量寿院についてのこと。
備前48ヶ寺の1つだが、寺伝によれば、神亀2年(725年)大倫和尚の開創。本尊は薬師如来で、行基菩薩作と伝える。その後、一時衰微したが、寛和2年(986年)、花山院の勅願により再興され、山号を「花山」に改めたという。現在は高野山真言宗の寺院である。
場所:岡山市東区広谷135。県道383号線(九蟠東岡山停車場線)の「大多羅」交差点を東に進み、広谷公会堂の先、約150mの交差点(芥子山の案内看板がある。)を左折(北西へ)。その先は狭い道だが、本堂前まで行ける。駐車スペースあり。
芥子山には国内神名帳に載る「布勢神社」があるが、同神社は芥子山の西端にある。社殿横の車道を上って行くと平なところに着く。そこに「大多羅寄宮跡」がある。「燧山の峰」(ひうちやまのみね)というらしい。その東に、芥子山の山頂が見える。そこからは徒歩で行くが、芥子山小学校の北から行けば、自動車でも行けるらしい。
当寺のほうが山頂(磐座があるという。)に近く、森も深い感じ。布勢神社とは思ったよりやや距離があり、関係は薄いか。布勢神社の隣には、真言宗「千福山寶泉寺」がある(もとは「千福山薬神寺」といったらしい。)。

岡山市のHP「岡山市の古建築」から:http://www.city.okayama.okayama.jp/museum/kokenchiku1/09.html

コラム25.岩間山最明寺(山本院)

2008-07-27 21:45:03 | Weblog
岩間山最明寺山本院(いわまさん さいみょうじ やまもといん)。かつては他にも院坊があったのだろうが、今では「最明寺」ではなく、「山本院」のみで通用しているようである。高野山真言宗。本尊は阿弥陀如来で、行基作と伝える。
場所:岡山市中区米田816。百間川に架かる米田橋の右岸(南岸)から、ほぼ真南に約300m。入り口の道路が狭いので、注意。奥は案外広く、駐車場あり。
備前48ヶ寺の一つで、もと「千号寺」といったが、最明寺入道北条時頼巡国の際、「最明寺」と改めたという。北条時頼の「廻国伝説」が史実かどうか今も争いがあるようだが、「伝説」とあるように、疑問視されているようだ。ただ、岡山市湯迫に「最明院」という小堂があって、もとは「湯迫山浄土寺」(備前48ヶ寺の1つ)の1院であった「見明院」が、やはり北条時頼巡国の縁で改称したという。
岡山市中区米田には「當麻神社」(五社大明神)と「岩間神社」(岩間権現宮)があり、現在はこの2つの神社を結ぶ道の中程から南の谷に入っていくような形になっている。
なお、当寺境内前庭には「岩間の井戸」と呼ばれる、古くから有名な井戸がある。
操山北麓には、西から安住院、恩徳寺、長楽寺、山本院とあるわけだが、少なくとも長楽寺を除く3つの寺は水に関連が深いようだ。備前48ヶ寺は山上伽藍が多いから、寺院の維持上、まず水の確保が必要だったろうとは思うが、それ以上に水資源への信仰が背景にあったのかもしれない。

コラム24.今谷山長楽寺

2008-07-27 16:27:05 | Weblog
今谷山長楽寺(いまたにさん ちょうらくじ)。中古には光明院など5ヶ寺があったが、廃寺・合併等により縮小、明治6年に一山で「長楽寺」と称することとなった。高野山真言宗の寺院で、本尊は阿弥陀如来。
場所:岡山市中区今谷874。百間川に架かる神下橋を渡って南、約400m上ると右手にある。駐車場はないようだが、仁王門の前あたりに1台程度は停められるスペースがある。
当寺の下(北)の方、約200mのところに「深田神社」があり、上(南)の方、約200mのところに「吉備津岡辛木神社」への登り口(「詩の小径」)がある。現在は小ぢんまりとした寺だが、かつては5ヶ寺あったというから、場所的に言って「深田神社」「吉備津岡辛木神社」と関係があったかもしれない。

「岡山寺院のホームページ」から:http://www.kukai.org/chorakuji/index.htm

コラム23.沢田山恩徳寺

2008-07-27 16:05:26 | Weblog
沢田山恩徳寺(さわださん おんとくじ)。高野山真言宗。本尊は薬師如来で、通称「沢田薬師」。少なくとも4~5坊の塔頭があったが、現在は「西方院」(さいほういん)のみとなっており、単に「恩徳寺」で通用しているようだ。
場所:岡山市中区沢田613。百間川に架かる「沢田橋」の右岸、操山「里山センター」の案内看板から山側に約400m。「里山センター」の隣で、同センターに広い駐車場がある(ただし、遠足などの行事があるときには使えないことがある。)。
狭い参道入り口に「竪巌尊」という額が掛かった石鳥居があり、正面に仁王門がある。石の階段を上ると本堂で、ここも会陽を行っていた寺なので、御福窓がある。本堂の背後には「竪巌神社」(竪巌最上稲荷)を祀る。
開基は天平勝宝2年(750年)、行基菩薩が草庵に自作の薬師如来をまつったことによるという。ただし、行基は天平勝宝元年(749年)に奈良の菅原寺で没したとされており、(寺の歴史の古いことはともかく)行基開基は伝説だろう。また、報恩大師の「備前48ヶ寺」の1つだが、その経緯は不明。
古墳や古社が多い「操山」山麓にあるが、特に当寺の裏山(西側)が「明禅寺城址」で、宇喜田直家が「明禅寺合戦」で勝利し、備前岡山に進出するきっかけとなったところである。
さて、古社との関係でいえば、「石高神社」には当寺の境内にある「金祐稲荷」と「堅巌稲荷」が末社として祀られていることなどから、少なくとも当寺が真言宗に改宗(時期不明。もとは法相宗で、その後、天台宗であったようだ。)されて以降は親密な関係があったとみられる。なお、「石高神社」の旧社地といわれる「高倉山」というのが現在の「石鉄山古墳」の辺りであるとすると、付近に磐座があり、「八大竜王」などが今も祭られているなど、ここも往古から聖地であったことはもとより、その祭祀が水に関連していたことも考えられる(なお、当寺の前(東側)に「沢田大池」がある。)。

mr yanagiさんのHPから(「澤田山恩徳寺西方院・精神医学」):http://mryanagi.hp.infoseek.co.jp/new_page_34.htm

コラム22.瓶井山禅光寺(安住院)

2008-07-26 21:03:43 | Weblog
瓶井山禅光寺(みかいさん ぜんこうじ)。本坊の安住院(あんじゅういん)と子院の普門院(ふもんいん)がある。岡山市内の住人でも、「禅光寺」では通じず、「安住院」で通用すると思う。真言宗善通寺派。本尊は千手観世音菩薩。
場所:岡山市中区国富3-1-29 (安住院)。国道250号線沿いにある岡山東郵便局の西約250mのところに案内看板があり、そこから南に約550m。駐車場あり。途中、通称「赤門」という仁王門がある。

当寺と八幡雄島宮のことは既に書いた(コラム15:2008年7月6日記事など)。

コラム21.銘金山観音寺(金山寺)

2008-07-26 20:32:53 | Weblog
銘金山観音寺遍照院(めいきんさん かんのんじ へんじょういん)。通称:「金山寺」(きんざんじ)。天台宗の寺院で、本尊は千手観音。
場所:岡山市北区金山寺481。地名は、「かなやまじ」と読む。
金山寺については何度も書いているが、報恩大師開基の「備前48ヶ寺」根本道場として、一時は備前国寺社総管とされた。
神社との関係でいえば、現在は存在しない「金山神社」を(多分)鎮守としていたのだろうと思う。かつて金山寺は金山山頂にあり、現在、そこには「妙見宮」がある。近くに磐座もあり、(多分)「金山神社」もそこにあったのだろう。
しかし、金山寺は康治元年(1142年)に現在地に移された。その北西、徒歩約400mのところに「八幡宮」(通称「金山八幡宮」)がある。由緒不明だが、あるいは金山寺の移転とともに山頂から移ってきた元「金山神社」だったかもしれない。ちなみに、「岡山県神社誌」(昭和56年4月)によれば、「金山八幡宮」の祭神は仲哀天皇、応神天皇、神功皇后だが、境内の摂末社は住吉神社、鹿島神社、四御神神社、火之神神社であるという。この「火之神神社」が、ひょっとしたら「金山神社」の後身かもしれない。
さて、「金山妙見宮」と「金山八幡宮」のどちらかが「金山神社」に改号したら、備前国内神名帳に載る「金山神社」が再興された、ということになるのだろうか。

岡山市のHP(金山寺):http://www.city.okayama.okayama.jp/museum/kinzanji/shiseki.html


写真上:金山寺山門


写真中:金山の磐座?


写真下:金山八幡宮



コラム20.備前48ヶ寺巡り

2008-07-22 22:20:40 | Weblog
神社についてのブログなのに、今度は寺院巡りかよ、ということだが、備前48ヶ寺に興味を持った理由は次の通り。
(1)豊原北島神社が典型だが、古社の近くにあることが多いこと
(2)開基年代が延喜式成立より前であること
(3)神名帳は修正会にも使われ、会陽(裸祭り)を行っていた寺院も多いこと

あるいは、単に「ナンバー」が好きなだけかもしれないが。

備前48ヶ寺は、報恩大師(岡山市芳賀の出身という。)が、孝謙天皇の勅願により開創された48の寺院。ただし、なかには藤原皆足姫、行基、鑑真など、報恩大師が開基でないと伝える寺院もある。
開創の時期も、金山寺や弘法寺などが天平勝宝元年(749年)としているが、孝謙天皇の病気快癒の祈祷を行って「報恩大師」の称号を受けたのが天平勝宝4年(752年)とされているので、「天平勝宝」年間(749~756年)頃ということだろう。
備前国内神名帳所載の神社が128社で、そのほとんどが現存ないし再興されているが、備前48ヶ寺のほうは現存ないし後身とされる寺院は40弱くらいである。
総本寺である金山寺は、今は天台宗であるが、創建時には当然ながら本格的な密教は伝えられていなかったので、当初は法相宗か三論宗であっただろうという。ただ、報恩大師は、病気平癒の加持祈祷で名を挙げたように、観音呪を修した行者の趣きがあり、山上伽藍に複数の寺院が集まる形式が多い。また、現在は天台宗のほか、真言宗や日蓮宗となっている寺院も多い。
なお、備前48ヶ寺のほかにも報恩大師開創伝承のある寺院は多く、例えば、備前では西谷山妙塔寺(現・金剛山遍照寺法界院(いわゆる「法界院」)、備中では龍王山神宮寺(現・稲荷山妙教寺(いわゆる「最上稲荷」))、日差山寶泉寺などがある。

「「がらくた」置場by S_Minaga」さんのHP:http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/bizen48.htm
ほかにも、http://www.asahi-net.or.jp/~wj8t-okmt/400-02-00oteraindex-bizen48.htm

コラム19.木華佐久耶比神社(続々)

2008-07-21 21:26:54 | Weblog
木華佐久耶比神社の更に続き。前項で、当社が鎮座する「福南山」の名の由来を書いたが、また別名「福慈岳」(ふじだけ)と称したという。それで木華佐久耶比を勧請したのか、あるいは木華佐久耶比を勧請したから「福慈岳」と呼んだのか、どちらが正しいかは不明。

なお、2008年6月26日記事で、当社には式神として12天狗があった、と書いたが、具体的には次の12天狗が月番で木華佐久耶比に奉仕したという。

 1月:九用坊(くようぼう)
 2月:八正坊(はっしょうぼう)
 3月:皆当坊(かいとうぼう)
 4月:海用坊(かいようぼう)
 5月:海当坊(かいとうぼう)
 6月:正妙坊(しょうみょうぼう)
 7月:五蔵坊(ごぞうぼう)
 8月:金当坊(きんとうぼう)
 9月:京法坊(きょうほうぼう)
10月:法正坊(ほうしょうぼう)
11月:祈当坊(きとうぼう)
12月:水井坊(すいせいぼう)

ん~。何だか似たような名前が多くて、混同しないのだろうか?

コラム18.木華佐久耶比神社(続)

2008-07-19 22:51:18 | Weblog
「木華佐久耶比神社と氏子崇敬者の歴史」(三宅光信編、1985年)等によって、次の通り補足。
当社は、もと「福南山」山上に座していたというが、「福南山」は別名「都南山」といい、「福岡」(五流尊瀧院がある旧林村あたり)の南にあったからだ、という。「福岡」という地名は、「福岡神社」の項(2008年6月14日記事)で書いたが、現在の瀬戸内市長船あたりにあった商都で、九州の「福岡」はこの備前福岡に由来している。詳細は不明だが、児島にも商都があったのかもしれない。
役行者が伊豆大島に流されたあと、その5人の弟子たちは瀬戸内海に逃れた。大宝元年(701年)、役行者が赦免になったので、5人の弟子たちは「福岡明神」の導きで御神体を児島の福岡の邑に安置したという。現在も、五流尊瀧院・熊野神社の北に「福岡神社」がある。

岡山県神社庁のHP(熊野神社(倉敷市林)):http://www.okayama-jinjacho.or.jp/cgi-bin/jsearch.cgi?mode=detail&jcode=06015
同(福岡神社(倉敷市林)):http://www.okayama-jinjacho.or.jp/cgi-bin/jsearch.cgi?mode=detail&jcode=06011

コラム17.「岡山」の地名

2008-07-19 21:52:27 | Weblog
「岡山神社」の項(2008年6月22日記事)で、「岡山」の由来について触れた。その補足。
現在の岡山市街地は、「天神山」、「石山」、「岡山」の3つの山(丘)を中心に発達した。しかし、天正元年(1573年)に宇喜田直家が石山に築城するまでは、全くの田舎だったようだ。3つの山は、それぞれ神の山であって、天神山に天満天神、石山に石山大明神、岡山に下明神(酒折明神)が祀られていた。
「天神」は天満天神こと菅原道真公であるが、菅公は岡山とも縁が深い(大宰府権帥に左遷されて赴任するときの伝説が各地に残り、長男菅原高視は備中美作守となったことから、特に勝央町に菅家の子孫が多いという。)。ただし、今も磐座が残り、菅公が祀られる前から古代祭祀があった可能性もある(その場合の「天神」は天津神か。)。
「石山」は、「岡山」が砂山であったことに対するものとされており、戦国時代までは山城が普通であったから、まず、こちらに築城されたものと思われる。石山大明神は式内社「石門別神社」の候補とされたこともあるが、寛文5年(1665年)に金山寺境内に移されたという。
さて、「岡山」の南東麓に巨石があり、その上に「岡山殿」(おかやまでん)という小祠があったという。これが、後の「下明神」「酒折宮」と称された今の「岡山神社」である。一方、やはり南東麓に「岡山寺」もあったとされ、その創建は天暦年中(947~957年)という。その創建年代の当否は不明だが、岡山寺は備前48ヶ寺の1つであって、今は岡山市磨屋町に「岡山寺」と「光珍寺」に分かれて現存している。「光珍寺」の山号は「柴岡山」といい、これも元の所在地に由来しているらしい。
したがって、岡山は、岡山神社や岡山寺以前からある地名で、岡山城築城以後に城下町として発展して、著名になったということらしい。