備前の古社を訪ねる(備前国内神名帳の研究)

備前の由緒ある神社を巡礼する

コラム225.古代備中国の中心部(その2・備中国分寺)

2009-11-28 20:31:31 | Weblog
備中国分寺(びっちゅうこくぶんじ)。
場所:岡山県総社市上林1046。県道270号線(清音真金線)沿いで、国道429号線との「国分寺西」交差点の東、約800m。駐車場あり。
国分寺は天平13年(741年)に聖武天皇の発願によって全国に建てられた官寺で、通常は国府の近くに建てられ、その国の重要な施設であった。中世に至り、律令制の崩壊により殆ど廃れてしまった。備中国分寺も、南北朝時代の戦乱で焼失し、現在あるのは江戸時代に真言宗御室派の寺院として再建された「日照山国分寺」である。現在の備中国分寺は、吉備路観光の中心地で、丘の上に立つ五重塔(江戸時代以前のものとしては岡山県唯一。なお、全国でも22基しかないうちの1つ。)は人気が高い。今でも回りにビルなどの建物がなく、古代を偲ぶのにも、良い雰囲気を保っている。
伝備中国府址の南、約2kmと近いが、それより重要なのは、造山古墳(全国第4位の大きさ)~備中国分尼寺~こうもり塚古墳~備中国分寺~作山古墳が東西にほぼ一直線上に並んでいることだろう。

総社市のHPから(備中国分寺):http://www.city.soja.okayama.jp/kanko/kankochi/kokubunji.jsp


写真上:備中国分寺


写真中:こうもり塚古墳。備中国分寺と国分尼寺の間にある。中に石棺が残されている。


写真下:備中国分尼寺跡。国分寺の東、約600m。建物は何も残っていないが、そのために発掘調査ができ、伽藍配置が明らかになっている。

コラム224.古代備中国の中心部(その1・備中国府)

2009-11-21 22:46:16 | Weblog
伝備中国府跡(でん びっちゅうこくふあと)。
場所:総社市金井戸。国道180号線「国分寺口」交差点の東、約500m。服部変電所の前に「備中国府遺祉」の石碑(写真上)がある。その向かい側(北)の道に入ると、「御所宮」の石碑(写真中)がある。いずれも駐車場なし。
備前国府の場所についてはまだ確定されておらず、異説も多いことは、このブログでも以前に採り上げた。備中国府の場所も確定されてはいないので、あくまでも「伝」なのだが、どうやら上記の場所にあったらしい。その周辺に関連史跡も多いので、備前国との比較の上でも面白いので、見に行った。
「御所宮」は、その名からも、ここに国司の御殿があった跡と思われる。ちなみに、この一画は現在も国有地らしい。こうした伝承や、付近に北国府・南国府などといった地名があることが有力証拠らしく、発掘調査などの結果ではないが、他にはそれらしい場所もないようだ。なお、「御所宮」付近は国府(方6町と推定される。)の東端とみられ、南に国道180号線が走っているが、更にその南側にある「前川」という川は賀陽郡と都宇郡・窪屋郡との郡境となっていたらしい。
さて、「備中国府遺祉」の石碑から、国道180号線を少し東に進むと、JR吉備線「服部」駅方面への狭い道路がある(県道192号線:服部停車場線)。その道路沿いに「総社市埋蔵文化財学習の館」があり、その向かい側の奥(とても狭い道の先)に「賀陽山門満寺」という浄土宗の寺があった(平成17年に廃寺)。もとは白鳳時代創建の寺院があったとされ、それが賀陽氏の氏寺であったらしい(地名を取って「栢寺(かやでら)廃寺跡」という。)。門満寺としても、門や五重石塔などしか、寺院らしいものはあまり残っていないが、その五重石塔の台石は「栢寺廃寺」の塔心礎石であったとみられている。
賀陽氏は、加夜氏・香屋氏などとも書き、朝鮮の「伽耶」と関係があるとされたり、大吉備津彦命を祖とする上道氏からの分流であるとされることもあるが、もともと土着の豪族で、ヤマト王権に忠実であったために勢力を伸ばし、備前から備中に進出した、という説が有力になりつつあるようだ。いずれにせよ、「吉備津神社」(備中吉備津宮)の社家として、その権威を背景に強大な権力を持っていたらしい。
もともと「国造」は地方の有力豪族が任命されたので、その豪族の氏寺が国府の近くにあるのがむしろ当然であるようだ。備前国府の所在地には諸説あるが、賞田廃寺跡や幡多廃寺跡などが上道氏の氏寺と推定されるならば、その近くに備前国府があったというのも、相当の理由があるということになるだろう。


写真上:国道180号線沿いにある「備中国府遺祉」の石碑。


写真中:「御所宮」の石碑。この敷地内に「伝備中国府跡」の説明板も設置されている。


写真下:門満寺五重石塔。その台石は塔心礎石であったらしい。なお、石塔の向こうに見える木立のところが「御所宮」。

コラム223.一宮(その20.出雲国・熊野大社)

2009-11-13 19:48:58 | Weblog
熊野大社(くまのたいしゃ)。
場所:島根県松江市八雲町熊野2451。安来道路「東出雲IC」から県道53号線(大東東出雲線)に入り、南西に約11km。駐車場あり。
「日本書紀」(720年)にある「出雲国造をして厳神の宮を作らしむ」というのが当神社のことであるとする。これは「出雲大社」のことであるとする説もあるが、「出雲国風土記」(733年)には「熊野大社」として記されている。祭神は加夫呂伎熊野大神櫛御気野命(「出雲国造神賀詞」による。)とされるが、これは素戔嗚尊の別名であるという。ただし、クシミケというのは「奇・御食」で、もとは食物神であろうといわれている。また、「熊野大社」といえば、紀伊国「熊野本宮大社」が有名であるが、当神社から分霊されたという説と、同名でも全く別々に創建されたという説がある。クマ=神の意味があることからすれば、神のいる場所としての「熊野」が各地にあってもよい。なお、現在の当神社はもと「下の宮」で、南西約500mに「上の宮跡」があり、その背後にある御笠山から、元宮があったとされる天狗山(熊野山)を遙拝するようになっている。
さて、出雲国一宮といえば「出雲大社」であるが、もとは当神社のほうが一宮であったとされる。時代が下るにつれて勢力の交代があったわけだが、こうした場合、仲が悪いか、互いに無関心であることが多いが、当神社は「出雲大社」の社家である出雲国造家との繋がりも深く、「出雲大社」宮司である出雲国造の代替わりの際には、当神社内にある「鑽火殿」において燧臼・燧杵に起こした神火で調理した食事を神前に供える儀式(火継式)を行うという。


熊野大社のHP:http://www.kumanotaisha.or.jp/

玄松子さんのHPから(熊野大社):http://www.genbu.net/data/izumo/kumano_title.htm


写真上:県道沿いにある鳥居。傍らの石柱に「出雲国一之宮熊野大社」とある。


写真中:拝殿


写真下:鑽火殿

コラム222.一宮(その19・出雲国・出雲大社)

2009-11-08 22:55:09 | Weblog
出雲大社(いずもおおやしろ)。
島根県出雲市大社町杵築東195。岡山からは、岡山道・米子道・安来道・山陰道と高速道路を乗り継いで「斐川」ICから西、約20km(国道431号線沿い)。広い駐車場があるが、休日にはほとんど一杯になる。
今では「○○大社」を名乗る神社は数多いが、単に「神宮」といえば「伊勢神宮」を指すのと同様に、かつて「大社」といえば「出雲大社」(もとは「杵築大社」といった。)のことを指した。なにしろ、大国主神が「国譲り」の条件として建てさせた宮だというのである(「古事記」)。現在の本殿の高さが24mで、これでも相当高いが、中古には48m、上古には96mあったといわれている。平安時代の数え唄に「雲太、和二、京三」というのがあり、(大和国)東大寺大仏殿や平安京大極殿より高かったということらしい。
上記の伝承からすれば、主祭神が大国主神で当然のようだが、17世紀までは素戔嗚尊であったという。神話によれば、オオクニヌシは、スサノオの6世の子孫で、娘婿でもある。近親婚?はともかく、いくら神様でも、6代も離れた子孫が義理の息子でもあるというのは、無理がありそうに思われる。背景には、スサノオやオオクニヌシの神としての成り立ちや、古代における出雲・吉備・大和の和合と抗争など、面白いテーマがありそうだが、大きすぎるテーマでもあるので、ここではこれ以上触れられない。
ただ、古代氏族のうち、三輪氏・加茂氏は大物主(=大国主)を祖とするから、出雲神族だったのだろうとされている。それぞれの神社の成り立ちは色々だろうと思われるが、備前国内神名帳所載の古社には「大神神社」・「美和神社」・「神神社」、あるいは「鴨神社」・「鴨○○神社」という名の神社が多い。こうしたところに吉備に対する出雲の影響が感じられる。


出雲大社のHP:http://www.izumooyashiro.or.jp/

「出雲大社 神々の国のプロローグ」のHP:http://www.highlight.jp/izumooyashiro/


写真上:「出雲大社」の「日本一の大鳥居」。大きさでは日本一ではなくなってしまったが、確かに近くで見ると巨大(高さ23m)。もっとも、岡山の人は最上稲荷の大鳥居(高さ27m)を知っているから、あまり驚かないかも。


写真下:本殿は「平成の大遷宮」の修造工事中。完成は平成25年の予定。