備前の古社を訪ねる(備前国内神名帳の研究)

備前の由緒ある神社を巡礼する

コラム191.旧県社(その4・沖田神社)

2009-06-30 19:11:01 | Weblog
沖田神社(おきたじんじゃ)。
場所:岡山市中区沖元411。百間川の右岸(西岸)にあり、岡山市街地から行く場合は、国道2号線を「倉益」で下りて百間川の川岸近くまで進む。または、県道45号線(岡山玉野線)を南下し、「江崎」交差点で左折(東へ)して進めば「清内橋」の手前にある。駐車場あり。
当神社(写真上)は、岡山藩主池田綱政の命を受けて津田永忠が干拓した「沖新田」の産土神として元禄7年(1694年)に創建された。近世の広大な農地開発の守り神であるから、相当の崇敬を受けただろう。祭神は天照大神など6柱だが、中に「おきた姫」が含まれているのが特異である。すなわち、干拓の難工事に、津田永忠の小間使いであった「きた」という娘が人柱になったため、神として祀られているのだという(「おきた姫」というのは「きた」の美称だろう。)。
また、境内に「道通宮」という立派な社があり(写真中)、むしろ一部にはこちらのほうが有名かもしれない。「道通宮」のほうの祭神は猿田彦命で、邇邇芸尊らの天降りの際、先導(道案内)した神なので「道通宮」というのだとされる。しかし、中国・四国地方に特有の「蛇神」を祀っているともいい、当神社の「道通宮」でも、生卵が供える風習がある。この「蛇神」は「トウビョウ」といい、首に金色の輪がある黒い蛇である、ともいう。どうみても猿と蛇では相性が悪いので、もともとは「蛇神」を使役する験者がいて、その名を「道通」といったのではないか、という説もある。古社というのではなくても、人柱といい、蛇神といい、他にも子供会陽(裸祭り)もあり、民俗学的にも非常に面白いところである。


沖田神社のHP:http://www.okita-shine.com/

岡山県神社庁のHP:http://www.okayama-jinjacho.or.jp/cgi-bin/jsearch.cgi?mode=detail&jcode=01062


写真上:「沖田神社」正面


写真中:道通宮


写真下:住吉宮(岡山市北区福島1丁目)。河川敷というか、堤防より川側にあって、すぐ横を旭川が流れている。沖田神社は、いったん住吉宮に鎮座されていたという。

コラム190.旧県社(その3・春日神社(岡山市北区))

2009-06-29 22:32:28 | Weblog
春日神社(かすがじんじゃ)。
場所:岡山市北区七日市西町4-13。国道2号線「岡南小学校」交差点から東に約500m。駐車場あり。ただし、神社付近の道路は狭いので、注意。
社伝によれば、創建は寛和年間(985~987年)。その名のとおり、大和国「春日大社」の分社で、「春日大社」の神鹿がその神額を銜えてこの地に運んできた、そのために地名を「額ヶ瀬」という、との伝説もある。
延喜式成立(927年)よりも後の創建だから、式内社ではないことは当然で、国内神名帳にも載っていないことも分かる。神鹿のことはともかく、10世紀後半の創建ということはあり得る。というのは、太古、岡山平野は「吉備の穴海」といわれて、ほとんどが海だったとされるが、少なくとも平安時代初期には既に、現在の岡山大学医学部の辺りを中心に沖積平野(中洲?)があったらしい。これが今も地名に残る「鹿田庄」という藤原氏の荘園になった。藤原氏の氏神として春日神社が勧請されたのは当然のことだろう。当神社が鎮座する七日市西町というのは、先に出来た二日市に加えて、七日にも市が立つというのに因んで名づけられたという。いずれも旭川河畔で、あるいは海岸だったかもしれない。もともと「鹿田」というのも干潟(ひがた)がなまったもの、あるいは「かた」と読んでもとは潟(かた)だった、ともいわれる。その岸で「額ヶ瀬」という名がついたともいえるので、相応の古社であることは間違いない。
そして、佐々木盛綱の伝説(2009年5月26日記事参照)を経て、宇喜多直家が岡山城築城のときに南方の鎮守とした、ということで隆盛をみたようだ。ちなみに、式内社「石門別神社」(奥田本町)とは、ほぼ同緯度にある(当神社の真西、約700m)。


春日神社(岡山市北区)のHP:http://www17.ocn.ne.jp/~kasuga17/index.html

岡山県神社庁のHP:http://www.okayama-jinjacho.or.jp/cgi-bin/jsearch.cgi?mode=detail&jcode=01057

コラム189.旧県社(その2・玉井宮東照宮)

2009-06-26 23:03:54 | Weblog
玉井宮東照宮(たまいぐう とうしょうぐう)。
場所:岡山市中区東山1-3-81。岡山電気軌道(路面電車)「東山」電停のすぐ東に「東山公園」入口があり、その山上に鎮座。駐車場あり(入口は「東山」電停から県道28号線を約400m東に進んだところ)。
社伝によれば、元は児島の米崎(岡山市南区小串。児島の東端で、地名というよりも岬の名前のようだ。)に鎮座していたが、応徳2年(1085年)に現在地に移転遷座した。元宮地から「御幣が舞い上がり、降り立った地に遷座せよ」との神託があったという伝説がある(このため、鎮座地の山を「幣立山」という。)。以来、「玉井宮」または「玉の宮」と称したが、正保2年(1645年)に岡山藩主池田光政公が「東照宮」を勧請するにあたり、「玉井宮」を現在の駐車場の場所に移した。したがって、このときは2つの神社があったのだが、明治14年(1881年)に「玉井宮」と「東照宮」が合祀され、社名を「玉井宮東照宮」としたため、ダブルネームになった訳である。県社に列せられたのは、以上のような経緯で岡山藩の庇護が篤く、近世以降の隆盛があったからだろうと思われる。
面白いのは、「玉井宮」の祭神が豊玉比売命・玉依比売命で(元宮地が児島の岬にあったのなら、海に縁がある神なのは当然だろうが。)、境内末社に白龍神社があり、その説明板に小豆島の「玉比神社」との関連が示唆されていることである。それは「米崎の元地より台風の時流れついたといわれる小豆島福田に鎮座の玉姫神社・・・」というもので(その後の文脈がうまく掴めないところがあるのだが)、これを普通に読めば、「玉井宮」の元宮は、小豆島の古社「玉比神社」の元宮でもあるということになると思うのだが・・・。


岡山県神社庁のHP:http://www.okayama-jinjacho.or.jp/cgi-bin/jsearch.cgi?mode=detail&jcode=01055


写真上:「玉井宮東照宮」正面


写真下:坂中荒神社。「玉井宮」が遷座してくる前に、この地に鎮座していた神社であるという。

コラム188.旧県社(その1・今村宮)

2009-06-23 21:10:36 | Weblog
明治4年(1871年)以降、戦前まで、「近代社格制度」という神社の格を定めた制度があった。現在でも、「旧社格」という名で呼ばれたりする。旧備前国内では、国幣中社の「安仁神社」が最上位で、国幣小社の「吉備津彦神社」がこれに次ぐ。その次のランクは県社(10社:岡山県神社庁のHPによる。)であるが、ここには国内神名帳所載の神社もあるが、むしろ近世の創建の神社が多い。旧県社で既に記事にしたのは、「伊勢神社」(岡山市北区)、「岡山神社」、「牛窓神社」の3社だけである。要するに、由緒よりも、近世以降に隆盛していた神社かどうかによるらしい。

今村宮(いまむらぐう)。
場所:岡山市北区今4-3-5。案内するのに、これといった目印がないが、住所区画のはっきりしたところなので、自動車のナビがあれば間違いなく行けると思う。宗忠神社の西、約700m。駐車場あり。
社伝によれば、建武元年(1334年)の創建で、現在の県立図書館の辺り(かつての「榎の馬場」辺り、という。)にあったが、天正8年(1580年)に宇喜多直家が岡山城城郭を拡張するため、現在地に移転したという。もとは天照大御神・八幡大神・春日大神の三神を奉祀したので、「三社明神」・「三社宮」と称していたが、今村にもともとあった八幡宮の場所に遷座し、2つの神社を合祀して「今村宮」となったとのこと。このため、氏子地域は、現在地の北区今周辺のほか、北区内山下なども含まれている。
こうした歴史から、現在も岡山市中心部の商店主等が氏子になっているようで、「岡山神社」と並んで、岡山城下・岡山市の発展とともに隆盛を誇ったらしく、県社に列格されることになったのだろう。周囲は住宅地化しており、森や巨樹とは無縁だが、静かで明るい中にも風格が感じられる神社である。


岡山県神社庁のHP:http://www.okayama-jinjacho.or.jp/cgi-bin/jsearch.cgi?mode=detail&jcode=01030

コラム187.児島の常山と腹切岩

2009-06-17 21:27:19 | Weblog
常山は、児島で金甲山に次ぐ高さがあり(307m)、姿も「児島富士」といわれる美しい山である。戦国時代初期?に「常山城」という山城が築かれ、現在では山頂に電波塔が立つ。と、来れば、古代には聖山で、磐座か古社がありそう、と思ったのだが、特にそういう形跡はない。ただ、山頂に「腹切岩」という名がついた岩があるというので、見に行った。
JR「常山」駅(玉野市宇藤木)のすぐ南に登山口があるが、徒歩ではずっと急な登り(山頂まで約40分)。「常山」駅に沿った道路を北西に約500m行くと、車道の登り道があり、山頂近くまで行ける。山頂近くに駐車場あり(駅付近には無いので、注意。)。
登山道の途中に「惣門丸跡」という場所があり、児島湖・金甲山方面(北東方面)の眺望が良い(写真上)。更に登って山上に出ると、「本丸跡」に「腹切岩」がある(写真中)。天正3年(1575年)、毛利氏方の小早川隆景に攻められた当時の城主上野肥前守隆徳(三村氏方)の奮戦空しく常山城は落城し、上野隆徳はこの「腹切岩」の上で自害したという。見たところ、特に平らな岩というわけでもなく、変わった形の岩というわけでもない。なぜ、この岩の上で自害したのだろう。これが古代の磐座で、城主の信仰があった、ということなら分かるが、そういう話は聞かない。なお、「本丸跡」には展望台も設置されているが、桜の木が伸びすぎていて視界が良くない。今はどこでも桜を植えるが(植えたい気持ちはわかるが)、少しは眺望のことも考えて欲しい。
さて、「本丸跡」から一段下がった「北二の丸跡」に有名な「女軍の墓」がある。常山城落城の際、上野隆徳の妻鶴姫が侍女らを引き連れて敵陣に切り込んだ後、城内に戻り自害したといわれ、その供養石がずらりと並んでいる(写真下)。こうしたことから、常山城跡は心霊スポットとされることもあるようだ。その供養のためか、登山道の途中には地蔵菩薩の石像が多い。となると、もう神様の出番はないのだろう。


玉野市観光協会のHP(玉野歴史街道 常山城コース):http://tamanokankou.com/kankou/tsuneyama.htm


写真上:中腹(「惣門丸跡」)からの児島湖方面の眺望


写真中:頂上にある「腹切岩」。右手に見えるのは常山城主上野隆徳公の石碑、岩の向こう側に電波塔がある。


写真下:女軍の墓



コラム186.備前備中国境標石(その2)

2009-06-14 20:40:13 | Weblog
吉備の中山の南側にある国境標石は近世の新田開発を巡る国境争いの産物で、明治時代以降、殆ど撤去され、現在見られるものは比較的最近復元されたものらしい。したがって、必ずしも標石の位置や向きは往時のままではないようだ。
例えば、JR「庭瀬」駅そばの妙見堂(妙見大菩薩)境内にも国境標石がある(写真上)が、国境のからかなり(備中側の)内側になる。岡山市北区庭瀬(以下、町名のみ記す。)は今も水路が多く、土地も低そうなので、中・近世以降の干拓地かと思ったが、そうではなく、古代の文書(和名抄など)にも記載がある、古い土地らしい。とは言え、もとは「新瀬」(にいせ)といったらしく、海が近かったことが窺われる。ここが国境だったということではなく、多分、撤去された標石を妙見堂境内に祀ったのだろう。
一方、「久米の国境標石」と並んで有名なのは、「早島の国境標石」だろう(写真中)。吉備の中山から南下してきた境目川が足守川に合流した先は妹尾になるが、JR線でいうと「妹尾」駅の西が「備中箕島」駅で、東が「備前西市」駅となっているのが面白い。児島の海が入り込んでいた頃、「早島」と「箕島」は文字通り島で、妹尾はその先にできた砂丘だったらしい。このため、これらはもともと備中側にあったことになる(後世の干拓による古新田・大福も備中側になるが、JR「妹尾」駅のある東畦は備前側になる。)。天正12年(1584年)頃、岡山城主宇喜田秀家が現・倉敷市酒津から早島まで汐止め堤防(「宇喜田堤」又は「宇喜田土手」という。)を築かせ、内側の干潟を干拓させたという。早島のこの堤防の前(南)にできたのが「前潟」で、その先端に「早島の国境標石」が立てられることになったわけである。
早島町と倉敷市藤戸町天城(六間川対岸の帯高に国境標石がある。写真下)の間は2km程しかなく、この辺りの西側は特に狭い海峡だったようだ。因みに、備中国の式内社「足高神社」(倉敷市笹沖)は別名「帆下宮」(ほさげのみや)といい、この神社の前を通る船は「敬意を表して」帆を下げたという。「足高」という名は元は「葦高」だったのだろうし、潮流の激しい狭い瀬戸を通る船は帆を下げて慎重に通ったのだろうと思われる(足高神社が鎮座する山はもともと孤島で、南の対岸の備前国児島の浦田との間は、1km程しかない。)。足高神社は南面して海を見下ろす絶好の位置にあるが、向かい側の備前国児島の北西部には、これといった古社はないようだ。


岡山市教育ポータルのHPから(犬飼建介さんの「箕島の歴史」):http://www.city-okayama.ed.jp/~mishimas/rekisi/rekisi1.htm

岡山県神社庁のHPから(足高神社):http://www.okayama-jinjacho.or.jp/cgi-bin/jsearch.cgi?mode=detail&jcode=02023


写真上:JR「庭瀬」駅のそばにある妙見堂の境内にある国境標石。通称:平野の国境標石。


写真中:早島の国境標石。JR「早島」駅の東南、約700m。水田に囲まれた墓地の中にある。


写真下:倉敷市帯高にある国境標石。「川子岩」の近く。先の方に見えるのが六間川の堤防(改修工事中)。

コラム185.備前備中国境標石(その1)

2009-06-11 22:32:00 | Weblog
備前国と備中国の国境については、「福田海」の項(2008年12月2日記事)や「古代山陽道」の項(2008年12月7日記事)等で触れた。古社とは別の話になるが、吉備の中山から南の国境はどうなっていたか、を少し。
国境線は、「中山茶臼山古墳」(大吉備津彦命墓)の上を通って南東に向かい、「尾上車山古墳」に至る。この2つの古墳は共に3世紀後半から4世紀頃の築造とみられており、後者の被葬者は不明だが、前者と同等の首長の可能性が高い。山を下りてきたところが岡山市北区花尻(以下、町名のみ記す。)だが、現在の花尻が備前側、東花尻・西花尻が備中側である。花尻という地名は、山の鼻(端:はな)の先にあることから付けられたものらしい。「矢坂山」の項(2009年4月23日記事)で書いたが、古代、吉備の中山と矢坂山の間が笹ヶ瀬川の河口だった。吉備の中山の南麓には「比美葦原」という荒地が広がっており、奈良時代には、奈良「大安寺」の領地となった。
さて、古代、花尻から南は海だったが、その後干拓が進み、その名も「境目川」という水路で国境が分かたれた。花尻の南から、足守川に合流するまで、ほとんど直線的に南下し、国境の標識となる国境標石が立てられた(写真上・下)。白石、久米、今保が備前側で、東花尻、平野、延友が備中側になり、これらの地区は中世に開拓されたらしい。現在、境目川沿いの両岸に「鉄工センター」という金属・機械加工などの工場が立ち並ぶ工業団地がある。室町時代末期には、ここら辺りに金川城主の松田氏が領土防衛の館を置いたとされ、「松田屋敷」という地名になっていたという。
久米の氏神は八幡宮だが、通称「蟹八幡宮」の通称がある(写真中)。八幡神を勧請する際、大きな蟹が現れて、社地の縄張りを示したとされ、この蟹が合祀されているとか、蟹の爪が宝物となっているとか、言われている(ただし、岡山県神社庁のHPでは「蟹」のことに全く触れていない。)。この蟹は、片方の爪が大きかったともいうので、シオマネキだったのだろう。つまり、河口の干潟に多く棲む蟹である。


御南学区連合町内会のHPから(蟹八幡宮):http://townweb.e-okayamacity.jp/minan-r/spot/spot_6_kani.html

岡山県神社庁のHP(八幡宮)。:http://www.okayama-jinjacho.or.jp/cgi-bin/jsearch.cgi?mode=detail&jcode=01061


写真上:久米の国境標石。備前備中国境石の中では最も有名?なものだろう。傍らの水路が「境目川」で、横に説明板もある。「岡山日野自動車」本社の裏(南西)にある。


写真中:蟹八幡宮


写真下:久米の国境標石から約900m下流にある国境標石(今保)。この水路(境目川)の先は、足守川に合流。

コラム184.補陀洛山藤戸寺

2009-06-07 20:00:39 | Weblog
補陀洛山千手院藤戸寺(ふだらくさん せんじゅいん ふじとじ)。高野山真言宗の寺院で、本尊は千手観音。
場所:倉敷市藤戸町藤戸57。天城小学校の南、約300m。県道22号線(倉敷玉野線)沿いにあり、有名寺院なので、自動車ならナビで行けると思う。駐車場あり。
佐々木盛綱の「ついで」の続き。寺伝によれば、慶雲2年(705年)、このあたり一帯がまだ海であった頃、海から千手観音像が浮かび出た。その30余年後の天平年間、行基がこの千手観音を本尊として当寺を創建したという。行基による創建というのは伝説としても、戦功により児島郷を領した佐々木盛綱が再興したというのはあり得ることで、相応の歴史を有していることは確かなようだ。
当寺の目の前には現在、倉敷川が流れている(「盛綱橋」という橋が架けられ、橋上に佐々木盛綱の銅像がある。)が、かつては海だったようで、「経ヶ島」という小島(岩?)があった。佐々木盛綱が戦功を上げるきっかけとなったのは、漁夫が海の浅瀬を教えてくれたからだが、秘密を守るためにこの漁夫を殺してしまったので、後に当寺で大法要を行った。この小島に写経を納めたため「経ヶ島」という名になったという。
藤戸町は、児島が文字通り「島」であった頃の西北端に当たり、直接には古社と関係はないが、ここから(瀬戸中央道に沿って)南下すれば、国内神名帳に載る古社「木華佐久耶比神社」、「天石門別保布羅神社」のほか、「清田八幡宮」、「五流尊瀧院」、「熊野神社」、「福岡神社」、「一等寺」などの寺社がある。

ところで、藤戸寺門前にある「藤戸饅頭本舗」の「藤戸饅頭」は文句無く美味い。お土産に是非どうぞ。


岡山県立図書館のHPから(「藤戸合戦の古戦場をたずねて」(藤戸寺)):http://djv.libnet.pref.okayama.jp/mmhp/kyodo/kento/hujito/genpei-hujito-hujitoji.htm


写真上:藤戸寺


写真中:境内にある石造五重塔(県重要文化財)。花崗岩製で、高さ355cm。寛元元年(1243年)10月18日の銘がある。


写真下:「源平古跡 経ヶ島」。今では地続きとなっているが、丸い敷地の周囲を水路でめぐらせてある。石を積上げた塚の頂上に石灰岩で造られた二基の宝篋印塔が置かれ、小さい方が漁夫の供養塔であるという。なお、手前の小社は弁財天を祀っている。