備前の古社を訪ねる(備前国内神名帳の研究)

備前の由緒ある神社を巡礼する

コラム74.備前国府の所在地(その3)

2008-10-31 21:54:31 | Weblog
岡山市の高島地区(旧上道郡高島村)に備前国府があったとして、その具体的な所在地はどこか。岡山市中区国府市場に「国長宮」という神社があり、この神社は備前国庁跡に建てられたものといわれている(県史跡)。現在の地名に「国府」の文字が入っており、近くに「国長」、「長盛」といった地名(小字)があり、これが「国庁」、「庁森」から転化したものだ、との説明がなされてきた。しかし、遺構や発掘出土品に乏しいこと、「長盛」というのは人名に由来があり、「国長」も含め中世以降の地名ではないか、との説が有力となっている。
「国長宮」の所在地は「国府市場」だが、その西端にある。東側は、わずかに「祇園」の南端を挟んで、「今在家」となる。南西は「高島新屋敷」で、いずれも新興住宅地であることを示す。
加えて、コラム73で書いたように(2008年10月29日記事)、旭川はかつて「国長宮」の東を流れていたとされていることから、河道が西に移動した後に国庁が置かれたと考えても、そのような地盤の悪いところに建てるのか、という疑問もある。
こうしたことから、高島地区に備前国府があった、とする論者も現在の「国長宮」あたり以外の場所に想定地を求めることが多くなっている。

「国長宮」(こくちょうぐう)。
場所:岡山市中区国府市場50。県道219号線(原藤原線)「国府市場」交差点(以前はヤクルトの工場があったが、現在は「ハピッシュ国府市場店」というスーパーマーケットになっている。)の西、約200m。駐車場なし。鳥居前の道路も狭く、その手前の交差点を北に曲がった道路がやや広いので、その道路に少し停めさせてもらう(神社の東側)。


岡山県神社庁のHP(国長宮):http://www.okayama-jinjacho.or.jp/cgi-bin/jsearch.cgi?mode=detail&jcode=01075

高島公民館のHPから(備前国庁跡):http://kouminkan.city.okayama.okayama.jp/takashima/shiseki/ssk33.html

コラム73.備前国府の所在地(その2)

2008-10-29 20:46:26 | Weblog
平安時代中期に作られた辞書である「和名類聚抄(和名抄)」によれば、備前国府について「在御野郡」と記している。その所在地についての通説である岡山市の高島地区は旧上道郡高島村であって、合致しない。これを説明するものとして、次の3つがある。
①御野郡と上道郡の郡境は旭川であって、かつて旭川は国府の東側を流れていたので、国府は御野郡にあった。
②和名抄が作られた頃、国府は一時、御野郡に移っていた。
③和名抄の誤り(誤記)。

旭川は、かつては、現在の岡山市中区祇園~国府市場~雄町~神下あたりを流れていたとされる。「雄町の冷泉」(写真)は、旧河道にあることの1つの証拠となる。また、神下あるいは米田あたりが入江となっていて(これを「石間江」という。)、備前国府の外港であったともいわれる。ちなみに、このあたりは、生庶神社(乙多見)、天鴨神社(長岡)、天神一社楊田神社(神下)、當麻神社(米田)、深田神社(今谷)など、狭い地域に国内神名帳所載の古社が集中している。
したがって、備前国府が県史跡となっているあたり(「国長宮」を中心にしたあたり)にあったとすれば、①はありそうにも思えるが、和名抄には「上道郡幡多郷」との記載もあり、矛盾が残る。また、旧河道が東にあったとしても、それは支流に過ぎず、郡境になるようなものではなかったとも考えられている。要するに、「国長宮」の辺りが備前国府跡だったとすることを正当化するための説であり、今や「国長宮」辺りは備前国府跡ではないとする説が有力になってきている(次の記事で書く予定。)。
②は、「一時」というのがどのくらいか、どういう規模か、ということにもよるが、御野郡にはこれと言った国府の想定地がない、という問題がある。まだ見つかっていないだけかもしれないが、「国府」のような地名がないことや、大規模な官寺跡がないことなどが難点。また、この説の論者は、国府はその後再び上道郡に戻ったとするが、その理由は特に説明されていない。
そうすると、あっけない話だが、③が真相かもしれない。


高島公民館のHPから(雄町の冷泉):http://kouminkan.city.okayama.okayama.jp/takashima/shiseki/ssk30.html

環境省選定名水百選のHPから(雄町の冷泉):http://www2.env.go.jp/water/mizu-site/meisui/data/index.asp?info=67

コラム72.備前国府の所在地(その1)

2008-10-27 22:06:53 | Weblog
備前国府の位置はまだ特定されていない。岡山市の高島地区(旧上道郡高島村)内というのが、ほぼ通説と言ってよいらしい。特に、岡山市中区国府市場にある「国長宮」が国庁跡とされ、県史跡となっている。
ただし、いくつか疑問がある。その1つが国分寺との距離である。たとえば、「国長宮」を備前国庁跡とすると、備前国分寺跡(赤磐市和田)とは、現在の自動車で約9kmもの距離がある。
備中国府跡も確定はされていないようだが、総社市金井戸にあったのはほぼ確実といわれており、備中総社宮(総社市総社2丁目)へは西へ約2.5km、備中国分寺(総社市上林)には南に約2.5kmの距離にある。特に、備中総社宮とは、同じ国道180号線沿いにある。
国分寺は、聖武天皇が741年に各国に建立を命じた寺院で、国府のそばに置かれた、とされる。
備前国では国分寺は現存していないが、赤磐市和田と馬屋の境あたりにあったという(写真中、写真下)。赤磐市馬屋は、旧山陽道の「高月駅」(延喜式にその名が見える。)が置かれたところといわれている(写真上)。また、すぐ東に、備前で最大の古墳である「両宮山古墳」がある(なお、その前方部に、国内神名帳に載る古社「伊勢神社」(通称「両宮神社」)がある。)。
備前国分寺・備前国分尼寺周辺の発掘調査はまだ十分でないようで、あるいは、もともとこちらのほうに備前国府があったのではないか、という説もあるらしい。


写真上:高月駅跡


写真中:備前国分寺跡。奥の森は国分寺八幡宮。


写真下:備前国分寺跡の石塔(鎌倉時代のものと推定されている。)。


コラム71.龍之口八幡宮

2008-10-26 18:58:29 | Weblog
龍之口八幡宮(たつのくちはちまんぐう)。
場所:岡山市中区祇園996。県道219号線(原藤原線)「祇園西」交差点のところから「グリーンシャワー公園」の案内板に沿って進むと駐車場がある。そこから龍ノ口山山頂方面に登る。徒歩約30~40分。なお、四御神の「大神神社」の北にも参道があり、約2kmの狭い山道。
国内神名帳総社本では、上道郡の「高嶋神社」のところに「上道郷段原村龍口山ニ座」との脚注がある。脚注は後世のものだが、いつのものかは不明。ちなみに、西大寺本の脚注では「脇田村」となっている。
要するに、総社本の脚注者は、上道郡の「高嶋神社」を「龍之口八幡宮」に同定していることになる。
「龍之口八幡宮」の創建時代は不明だが、社伝によれば天平勝宝年代以前。その後、戦国時代には、現在の社殿がある辺りに「龍之口城」本丸が築かれたこともあって、廃社同然となった。しかし、江戸時代には岡山藩主の崇敬が篤く、社殿が再営され、参道が整備された。最近では受験の神様として有名で、参拝者も多い。眺めも良く、北側に金山や本宮高倉山、南側に操山や金甲山などが望める。
面白いのは、本殿は東南を向いているが、そのすぐ脇に小祠があり、こちらは南西を向いていることだ。小祠は大岩の上に載っており、岩の向きに沿って建てられたのかもしれないが、斜めに本殿の方を向いており、なんだか変だ。この岩は磐座?(山の上に大きな岩があると、何でも磐座と思ってしまうのは悪い癖。)。ちなみに、本殿の後ろには「石鎚神社」もある。
奈良時代の創建(=宇佐神宮から勧請?)というのは伝説かもしれないが、備前国府の背後の山でもある「龍ノ口山」が聖なる山であったことは確かだろう。ただ、何故「高嶋神社」に同定されたのかはわからない。あるいは、「高嶋神社」が寂れた一方、岡山藩に庇護された「龍之口八幡宮」が隆盛したことによるものか、とも思われる。


龍之口八幡宮のHP:http://tatsunokuchi.net/index.html

岡山県神社庁のHP(龍之口八幡宮):http://www.okayama-jinjacho.or.jp/cgi-bin/jsearch.cgi?mode=detail&jcode=01074


写真上:本殿前にも岩が露出している。


写真下:本殿横の小祠

コラム70.大神神社と備前車塚古墳

2008-10-20 22:46:37 | Weblog
「大神神社」(岡山市)の参道脇に不思議な道標がある(写真上)。何の変哲もない石柱だが、銘を見ると「大神神社へ北千三百米」「昭和二年五月吉日」などとある。何が不思議かというと、この写真に写っている交通標識のところ、低いブロック塀が見えるが、この中が「大神神社」境内なのである。道標から、距離は30mほどしかない。
「大神神社」はかつて、現在地の背後(北)にある「惣堂山」山上にあったという(「岡山市史」(昭和43年3月))。なお、「高島村史」(昭和12年8月)によれば、「社司の説に、古伊勢国なる鳥羽より鎮座せるものにして、今の社地より五町許りなる東北に、松山といふ所ありて之古の社地の跡なりと。」と記述されている。
写真上の道路を真っ直ぐ進むと階段があり、一段高いところにバスが通る広い道路に出る。そこの少し左(西)に「東が丘団地」バス停があり、「中央集会所」がある。ここが「竜ノ口八幡宮」に至るハイキング道の入り口になっている。そのハイキング道の途中に「備前車塚古墳」への道もある。上道郡の条里制の残る水田を見下ろす山(写真中)の頂上にある、この古墳が「大神神社」の旧社地かと思ったのだが、どうも違うようだ。ちなみに、「大神神社」からは800mほどの距離だが、かなりの急坂を登る。道標からハイキング道を1300m行くなら、「四御神奥池」あたりまで行ってしまう。
昔の小字の図をみると、古墳の下(南)あたりが「車塚」という地名で、その東が「惣堂」という地名となっている。一方、「松山」というのは、万治4年(1661年)の絵図「上道郡図」に照らし合わせると、ちょうど写真上の右上に写ってい山のようだ(「市営東ヶ丘団地」の白い建物が見えているところ)。絵図では、「松山」の東端に「イナリ」と記されており、これが現在の「正一位稲荷大明神」だろう。なお、「大神神社」の境内末社に「松尾御崎神社」があり、これは「大神神社」が創建される前の地主神であるというが、「松山」というのは、あるいはこれと関係があるのかもしれない。
いずれにしても、現社地から400~500mくらいであり(5町=約545mというのには概ね符合するか)、写真上の道標から「北へ1300m」というのは、どういうことなのかわからない。

なお、「コラム7.柿本神社・梨本神社」(2008年6月15日記事)では、「柿本」「梨本」の小字が東西に並んでいるように書いたが、条里制の地図などを参照すると、南北に少し離れているようだ。資料に基づくと、下記のHPによる推測が概ね正しいようである。

岡山市電子町内会、竜ノ口連合町内会のHPから(地名「四御神」の由来):http://townweb.e-okayamacity.jp/tatsunokuchi-r/yonzinja-yurai.htm



写真上:大神神社参道脇の道標


写真中:備前車塚古墳は、この山の山頂にある。


写真下:備前車塚古墳

コラム69.長田神社の由来

2008-10-19 20:19:50 | Weblog
和気町の民話(「ふるさと和気-民話編-」(編集:和気町文化財保護委員会、平成13年3月))から、もう一つ。
「長田神社」(和気町)の由来について、次のような2つの話が伝えられている。

①今の「長田神社」のすぐ下に、昔、杉の大木があって、あるときそれに御幣が掛かっていた。里人たちがお伺いを立てると、「われこそは大三島の大山祇神社の祭神、大山祇命である。」とのこと。里人たちは、御幣を三方に載せて山に運び、丁重に祀った。これが「長田神社」の由来だという。
②昔、友安(ともやす)という人の夢に神様が出てきて「わしを青山城の下のちょっと出たところに祀ってくれぇ。」と言った。あくる日、行ってみると、二本松というところの木の枝に御幣が掛かっていた。その御幣を持ってきて祀ったのが、「長田神社」であるという。昔は2本の松があったのだろうが、今はなく、渋柿の木が1本ある。祭りの時にはこの柿の実を「長田神社」に一番に供えるのだという。

①の「大三島の大山祇神社」といえば、式内社(名神大)・伊予国一宮「大山祇神社」。伊予国から海を越えて、大山祇神を祀る人々がここまで来ていたのだろう。ただし、「長田神社」の今の祭神は大山祇神ではない。
②「二本松」という場所は、「おばなというところの下の川のへりにあって、馬場よりは西の方向にあたる。」と説明されているが、これで地元の方にはわかるのだろうか。話の中の「今」と言うのも、昭和46年(1971年)のことなので、渋柿の木が現在もあるのか、よくわからなかった(写真は参考:「長田神社」の近くにある畑の中の柿)。ところで、「(日笠)青山城」が築かれたのは戦国時代末期といわれており、この民話の神社由来を信じれば、「長田神社」の創建はそれ以後になるが・・・。この民話の意味はどういうことなのだろうか。


ふーむ(風夢)さんのHP「落穂ひろい」から(日笠青山城):
http://homepage2.nifty.com/OTIBO_PAGE/oshiro/bizen/wake/aoyama.htm

コラム68.石根依立神社と「神子岩」

2008-10-18 21:22:57 | Weblog
和気町の民話から。
「東の大川」と呼ばれた吉井川は、和気町原のあたりで南から西に大きく流れを変える。その川の流れに突き出して大きな岩があり、「神子岩(巫女岩、みこいわ)」と呼ばれていた。
昔、「石根依立神社」に美しい神子さんがいた。その美しさを聞きつけた国司が妾にしようと、神社や村人にいろいろ無理難題を押し付けてきた。折から、吉井川が増水して濁流が渦巻いた。村人は竜神の怒りと考え、盛んに祈りを捧げたが、一向に水勢は収まらない。濁流が大岩にぶつかって竜神のように見えた。そのとき、神子さんが大岩の上に上がり、榊を振って舞いだした。一層激しい水しぶきが上がり、神子さんの姿を覆ったと見る間に、流れは静まっていったが、大岩の上に神子さんの姿はなかった。神子さんは竜神に身を捧げて村を洪水から救ったとされ、それ以来、この大岩を「神子岩」と呼ぶようになったという。実は、神子さんには相思相愛の若者がおり、その後、この若者も神子さんの後を追ったという。
「神子岩」は、平成3年(1991年)の台風で吉井川が氾濫した際に土砂に埋もれて見えなくなった。
なお、今も「石根依立神社」の参道階段の脇にある岩は、この神子さんを祀ったものという(写真)。

(以上、「ふるさと和気-民話編-」(編集:和気町文化財保護委員会、平成13年3月)及びこれを基にした絵本「神子岩のはなし」(同、平成17年3月)による。)

コラム67.笠井山(操山山系)山頂の岩

2008-10-17 21:27:51 | Weblog
「吉備津岡辛木神社」は、もとは現社殿の西の山頂にあったという。その場所が明確でないが、操山山系の笠井山山頂(134m)と思われる。現社殿の北西約400m、竹林の中を徒歩で登って行く。
山頂には面白い形をした岩をトップに、岩が積み重ねられている。これが祭祀遺跡かどうかはわからないが、一見の価値はある。

marusanさんのHP「オープンエア・岡山」から(笠井山):http://www2a.biglobe.ne.jp/~marusan/phkasaiyamamisaoyamasankei1.html


写真上:笠井山山頂の「磐座」?


写真下:角度を変えて撮ったもの(南から)。この写真ではよくわからないが、この奥に高圧線鉄塔が立っている。


コラム66.芥子山山頂の岩

2008-10-16 21:42:31 | Weblog
「布勢神社」(岡山市)は、芥子山の最も西の山腹にある。神社の横に、きれいに舗装された道路が上に延びているが、その行き止まりは「大多羅寄宮跡」である。
岡山藩主池田光政は、寛文6年(1666年)に藩内の11,130社のうち601社を残してその他を廃祀にし、それらの祭神を71社の寄宮に合祀した。次の藩主池田綱政は、旧上道郡大多羅村にあった句々廼馳神社の境内に新たな寄宮を造営して従来の寄宮のうちの66社を合祀した。明治維新後、岡山藩の保護を失って荒廃した大多羅寄宮は明治8年(1875年)に布勢神社に合祀された、という。
「大多羅寄宮跡」から東に山頂(232m)が見えるが、その先は徒歩となる。芥子山山頂に行くには、芥子山小学校の北あたりで用水路(倉安川)を渡ると、自動車で登れる道路がある。結構急坂が続くが、道幅も特に問題ない。ただし、平日でもハイキングやランニング等をしている人が多く、注意が必要。駐車場もある。
山頂には、特に巨岩があるというわけではないが、岩が積み重なったようになっているところがある。また、写真では大きさがわかりにくいが、遊歩道脇に平らな岩が露出している。ちょうど東に向いており、その先の眺望も開けている。

岡山市教育委員会文化財課のHPから(史跡大多羅寄宮跡):http://www.city.okayama.okayama.jp/museum/okayama-history/04oodarayorimiya-ato.htm

marusanさんのHP「オープンエア・岡山」から(芥子山):http://www2a.biglobe.ne.jp/~marusan/phkeshigoyama1.html


写真上:大多羅寄宮跡


写真中:芥子山山頂の磐座?


写真下:芥子山山頂の平たい岩




コラム65.本宮高倉山山頂の岩

2008-10-15 23:36:27 | Weblog
前回、高倉神社には牟佐から徒歩で参拝したが、かつては「本宮高倉山」山頂にあったといい、山頂には自動車でも登れるというので、今回は自動車で山頂に行ってみた。
赤磐市の「山陽団地」山陽6丁目(桃のガスタンクの東)から北へ、あるいは県道250号線(山口山陽線)の鴨前から西へ、山頂への案内板が出ている。途中、「赤磐市山陽清掃センター」があり、ここまでの道路は良いが、その先はかなり狭い道が続き、石もゴロゴロしている。山頂には広い駐車スペースがあり、桜や藤の名所となっているようだが、正直、あまり何度も通りたい道ではないと感じた。
磐座がある、という案内板もあるが、よくわからない。
パラグライダーの基地ともなっており、そのあたりの雰囲気は写真上。写真下は山頂からの眺望。


写真上:山頂


写真下:山頂からの眺望