備前の古社を訪ねる(備前国内神名帳の研究)

備前の由緒ある神社を巡礼する

コラム257.備前道丁

2010-12-22 19:45:17 | Weblog
備前道丁(びぜんどて)。
場所:静岡県富士市松岡。県道396号線(富士由比線、旧・国道1号線)の富士川に架かる「富士川橋」の左岸(東岸)に「水神社」があり、そこから県道396号線に並行して東に堤が続き、約900mで今度は県道176号線に並行して、「岩本山」(標高193m)下まで北西に堤が続く。この逆「く」の字の堤を、雁(がん)が群れ飛ぶ様になぞらえて「雁堤(かりがねつつみ)」という。その屈曲点に「護所神社」という小社があって、人柱の霊を祀る。その先(東名高速道路の南側)にある、富士川に突き出した堤(土堤出し)部分が「備前道丁」または「備前堤」と呼ばれている(一部の資料では「雁堤」全部を「備前堤」としているものもある。)。
富士川は「駿河」の名の由来ともなったといわれるほどの急流で、度々水害をもたらした。戦国時代に加島荘籠下村を開いた豪族古郡氏は江戸時代には郷士となり、その当主であった古郡重高が元和7年(1621年)に富士川の治水工事に着手した。その後、家督を継いだ子の古郡孫太夫重政、孫の古郡重年の三代にわたって工事を続け、現存するような「雁堤」が完成したのは延宝2年(1674年)だったとされる。
ところで、何故、この堤の一部を「備前道丁」というのか。その築堤に当たって、つぎのような伝説がある。即ち、今より3百余年前、大水が出て、この堤の辺りが切れそうになった。そのため、領主は人柱を立てて、堤を固めることとした。人柱は籤引で決めることになったが、当たったのは領主の信頼厚い家老だった。家老は潔く人柱になろうとしたが、そのとき、旅の六部(巡礼僧)が代わりに人柱になることを申し出、堤の底に埋められた。その後、その六部の生国が備前国と知れ、土地の人々から「備前様」として祀られたという(鈴木暹「東海道と伝説」(平成6年3月)ほか)。この人柱伝説には、いくつかのヴァリエーションがあるが(籤引でなく、千人目に通った者を人柱にした、など)、「護所神社」や「人柱之碑」の存在は、人柱伝説の根強さを示すものだろう。
ただし、「備前道丁」の名の由来は、残念ながら、どうやら備前国とは直接関係ないようである。実は、関東を中心に全国各地に「備前堤」や「備前堀」といった名の運河や堤防が残っている(利根川、木曽川など)。これらはいずれも、徳川家康に仕えた伊奈忠次(1550~1610年)が手がけた土木・治水工事で、その外、伊奈忠次は江戸幕府初期の財政基盤確立に功績があり、関東代官頭から武蔵国小室藩主となった。この伊奈忠次の官位が「備前守」だったため、「備前堀」・「備前堤」といった名前が付けられたものである。「雁堤」は一般に、古郡氏三代が造ったとされるが、どうやらそれ以前に伊奈備前守忠次が治水工事に関わったらしい。天保年間(1681~1683年)に今泉村の名主中村三郎右衛門が書いた手記では、「富士川の治水工事は永禄年間(1558~1570年)に今川氏真が始めたが、洪水の被害を除くには不十分だった。伊奈備前守の優れた築堤で加島平野は安全になった。」(要旨)と記されている。伊奈忠次は、天正14年(1586年)頃に徳川家康が駿府城入城したときに近習役、天正18年(1590年)には三河・遠江・駿河の道路と富士川の舟橋の普請奉行を命ぜられているというので、この頃富士川の築堤工事も行ったのではないか。そこで、ここでも「備前堤」の名が残ったようだ。因みに、静岡市内でも「備前堤」があったらしい(清水区七ツ新屋、有度第一小学校の下(南)辺りなど)。
人柱は立てたかもしれないが、それが備前国の人だったというのは、どうやら付会のようである。


「富士おさんぽ見聞録」さんのHPから(雁堤)

「日本の川と災害」(河川ネット)さんのHPから(水神社)


写真1:「水神社」(場所:富士市松岡1816-1)。祭神:弥都波能売神。巨大な岩盤の上にあり、堤防の起点としたという。旧・東海道の渡船場でもあった。


写真2:「護所神社」。祭神:人柱之霊。


写真3:「護所神社」境内にある「人柱供養塔」と「雁堤人柱之碑」


写真4:「護所神社」の北側から屈曲点を見る。堤が右の方に曲がっているのがわかる。堤の内側は、今は公園(「雁公園」)になっていて、正面に見える建物はトイレ。「護所神社」は、そのやや左側の少し低いところにある。