備前の古社を訪ねる(備前国内神名帳の研究)

備前の由緒ある神社を巡礼する

コラム242.備前国の磐座拾遺(その15・生目八幡宮)

2010-02-26 21:39:42 | Weblog
生目八幡宮(いきめはちまんぐう)。
場所:岡山市東区正儀。県道233号線(宝伝久々井南水門線)を南水門町から宝伝に南下し、「山神山」の峠のところに宗教団体「ほんぶしん」の聖地「神山」がある。その手前(北)、約100mのところに登り口がある。そこから徒歩数分。駐車場なし。
鳥居はなく、社殿もトタン張りで、見慣れた神社のようではないが、「生目八幡宮」の額が掛かっている(写真上)。この神社の本社は九州・宮崎市にある「生目神社」で、江戸時代頃にこの地に勧請され、眼病治癒の神様として信仰を集めたらしい。八幡宮であるから、主祭神は応神天皇であるが、「悪七兵衛」と異名を取った平家の武将藤原景清(平景清)も祀られている。藤原景清は、平家方が敗れた後、神仏に深く帰依したが、煩悩から逃れられず自ら両目を抉ったといわれ、その両眼が「生目神社」に祀られているともいわれる。「生目神社」の創建時期は不明だが、「生目」の名は別として、平安時代以前から「八幡宮」としては存在していたようである。なお、第11代垂仁天皇の名は「活目入彦五十狭茅尊(いくめいりびこいさちのみこと)」とされていて、何らかの関係があるのかもしれない。
さて、眼の神様としての「生目八幡宮」は民間信仰であり、江戸時代の流行神の1つなのだろうが、当神社社殿の後ろの岩は磐座であるとされている。狭い場所に社殿が一杯に建てられているので写真が撮りにくく、わかりにくいのだが、この岩自体を祀っていることは確かなようだ(写真下)。ただ、何故この磐座が「生目八幡宮」になったか、その理由は不明。あるいは、修験者等の間では有名な磐座だったが、特に神社としては祀られていなかったため、誰かが眼の神様を勧請したのかもしれない。
ちなみに、「岡山県遺跡地図第6分冊岡山地区」(平成15年3月)には「立障式磐座?」と、?マークつきで掲載されている。 


朝日学区連合町内会のHPから(正儀):http://townweb.e-okayamacity.jp/asahi-r/mein.html

宮崎市生目商工会のHPから(生目神社):http://www.miya-shoko.or.jp/ikime/histo/ikime_jinnsya.html


写真上:生目八幡宮


写真下:本殿裏の磐座?

コラム241.備前国の磐座拾遺(その14・幸島稲荷神社)

2010-02-19 21:57:20 | Weblog
幸島稲荷神社(こうじまいなりじんじゃ)。
場所:岡山市東区水門町715。県道232号線(鹿忍片岡神崎線)で千町川の河口近く、水門橋の辺りで道路が狭くなるが、その東側に「水門宮山参道」の看板がある。そこから階段を登っていく。別に車道もあるようだが、入口がわかりにくい。
当神社の創建ははっきりしていて、干拓によってできた幸島新田に住民が増えるにつれ、自前の氏神がないことを憂え、宝永6年(1709年)に旧・邑久郡土師村(現・瀬戸内市長船町)木鍋山鎮座の稲荷神社から御分霊を勧請し、東幸島山(水門宮山)山上に祀った、とされている。
不思議なのは、「稲荷神社」なのに祭神が高オカミ神、倉稲魂命、瓊々杵命の3神とされていること。農耕に必要不可欠な水を司る高オカミ神を祀ることに不思議はないが、「幸島村史」(昭和47年10月)では山上に座する龍神であるとし、「「古代祭祀址吉備の「磐座」」(佐藤光範著、平成4年10月)では、神社創建以前は「道教の祭祀跡だった」とされている。
「幸島」という地名は「コウジマ」と読むが、矢坂山の「こうの岩」(2009年4月26日記事)のように、「コウ」=神という意味もあったのではないだろうか(妄想?)。
なお、「亀石神社」(2008年6月5日記事参照)は、古社「神前神社」に縁があるが、当神社の飛地末社であり、「亀石神社」が神社として祀られるようになったのは宝暦年間(1751~1763年)であるという(「幸島村史」による)。


岡山県神社庁のHP:http://www.okayama-jinjacho.or.jp/cgi-bin/jsearch.cgi?mode=detail&jcode=12035


写真上:「幸島稲荷神社」


写真中:本殿裏の磐座


写真下:本殿右手の巨岩

コラム240.備前国の磐座拾遺(その13・藤井の大岩場)

2010-02-12 11:45:18 | Weblog
藤井の大岩場(ふじいのおおいわば)。
場所:岡山市東区西大寺一宮。県道235号線(橋詰千手線)で、式内社「安仁神社」参道入口の前を東に進み、約600mで「西大寺一宮公園」の入口がある。その向かい側(北側)に石組みの「藤井孫次郎惟景塚」(写真上)があるが、その先(東)、約50mの山裾に登り道がある。結構急坂だが、歩きにくいところはなく、徒歩5分程。駐車場なし。
式内社「安仁神社」の北に「硫黄山」(111m)があり、その中腹に大きな岩が露出しているのが下からも見える。ここは、「邑久郡大師霊場南巡り八十八ヵ所」の第八十七番札所となっている。岩までの山道は相応に整備され、途中に泉があったり(山にある磐座には途中に泉がある例が多い。)、一部は素朴な石段があったりする。「安仁神社」との関係は不明だが、県道235号線を東に抜けると、「安仁神社」の社僧であったと思われる「千手山弘法寺」(備前48ヵ寺の1つ)がある。「大岩場」には足掛かりが刻まれているので、行場としても利用されたのではないだろうか。古代には「硫黄山」の南側に海が迫っていたようで、見張り台としても使われたかもしれない。


yamaneさんのブログ「岡山県邑久郡大宮村大字藤井」から:http://blogs.yahoo.co.jp/fujii_yamane/7227219.html

同:http://blogs.yahoo.co.jp/fujii_yamane/7260357.html


写真上:「藤井孫次郎惟景塚」。古墳の一部らしい。藤井一族は、鎌倉時代初期ぐらいに、この地域の荘園開発を行った武士の一族らしく、この「塚」の周辺の小字は「殿屋敷」といい、館跡があったという。


写真中:「大岩場」の下にある大岩。これは立石のようだ。前立ちの岩には梵字が刻まれている。


写真下:「大岩場」

コラム239.民間信仰の神様(その3・魔法宮)

2010-02-10 08:53:32 | Weblog
①天津神社(あまつじんじゃ)。通称:久保田神社(くぼたじんじゃ)。
場所:吉備中央町細田1372。国道429号線沿いにある「道の駅かもがわ円城」前の交差点から県道372号線(下土井下加茂線)に入り、西へ約3km進むと右側(北側)に「細田東集会場」がある。その向かい側の狭い道に入り(「久保田神社参道」の看板がある。)、約300m進むとJAの穀物倉庫があるが、その向かい側の脇道が参道。駐車場あり。
②火雷神社(からいじんじゃ)。通称:魔法宮。
場所:吉備中央町上田西158。「久保田神社」下から更に先(南西)に進むと(なぜか途中に「魔法宮」の説明板がある。)、「黒杭口」というバス停(!)がある。そこで左折(南東へ)、最初の分かれ道は左に進むと、「魔法宮」と記された石柱が立っている。その先、徒歩約300m。駐車場なし。
岡山県神社庁加盟の神社を「民間信仰の神様」というのもなんだが、「魔法宮」・「魔法様」という通称が面白いので採り上げてみた。「魔法宮」の伝承は次のとおりである。
昔、天竺から「キュウモウ」という古狸が南蛮船に乗って来日、備前加茂の山中に棲みついた。「キュウモウ」狸は化けるのがうまく、いろいろイタズラをして村人を困らせた。そこで、村人が円城寺の和尚に頼んで祈祷してもらうと、狸の正体を現し、これからは「牛馬の守り神になり、また村人の火難・盗難を防ぎます。」といって姿を消した。この「キュウモウ」狸を祀ったのが「火雷神社」であり、「キュウモウ」狸と地元の狢との間に生まれたのが「頬四郎」(ほほしろう)狸で、「頬四郎」狸を祀ったのが「久保田神社」である。この2社が「魔法宮」と通称される。
まず「天津神社」であるが、もともとは妙見社だったらしい。境内に今もある小祠が「天津神社」であって、「久保田神社」は同町豊岡のオギという山の上に祀られていた「久保田様」という神様を移したもの。だから、本来は「久保田神社」は「天津神社」の境内末社なのだが、社殿だけからみると逆のようになっている。
「火雷神社」はもともと同町三納谷の「三所神社」の境外末社で、当地に災害や疫病が流行ったときに創建されたという。
「魔法宮」の背景を考えると、次のようなことがわかる。
①「キュウモウ」狸が来日したのは永禄11年(1568年)で、備前加茂に棲みついたのは明和年間(1764~1771年)とされる。当地は現在、すごい山の中だが、元文6年(1741年)に銅山が開かれ、その廃坑の穴を巣としたというので、当地も一時は賑やかな時期があった。
②上記「三所神社」は天元2年(979年)に紀伊国「熊野三所権現」を勧請したものとされる。「天津神社」がもと妙見社であったことも合わせ、修験者が介在したことを強く示唆する。
③牛馬の神様としての「魔法様」信仰は備中・美作にもあるらしいが、その伝播には山伏が関わっていたらしい。狸は、その山伏、修験者の神使(つかわしめ)、あるいは式神であったのかもしれない。でも、狐とかクダとかならともかく、狸とは・・・。


岡山県神社庁のHP(天津神社(久保田神社)):http://www.okayama-jinjacho.or.jp/cgi-bin/jsearch.cgi?mode=detail&jcode=08018

「神社探訪・狛犬見聞録」さんのHPから(天津・久保田神社)http://5.pro.tok2.com/~tetsuyosie/okayama/kagagun/amatsu_kubota/amatsu_kubota.html

岡山県神社庁のHP(火雷神社):http://www.okayama-jinjacho.or.jp/cgi-bin/jsearch.cgi?mode=detail&jcode=08020


写真1:「久保田神社」正面。階段両脇に信楽焼の狸が並んでいるが、地元の人が知らないうちに供えられたらしい。


写真2:「久保田神社」本殿台座の後ろに「狸穴」が作られており、榊などが捧げられている。


写真3:「火雷神社」参道入口。この先は未舗装で、かなり狭くなるので、普通自動車では突っ込んでいかないほうがよい。


写真4:「火雷神社」

コラム238.民間信仰の神様(その2・首塚)

2010-02-05 20:15:31 | Weblog
①金谷の首塚(かなだにのくびづか)。
場所:備前市吉永町金谷。JR山陽本線「三石」駅の西、約3km。県道96号線(岡山赤穂線)沿いでなく、金剛川の北側になる。駐車場なし。
延元3年(1338年)、新田義貞が三石城の支城である馬転山城を攻め落とし、この地で首実検を行った首を埋めたとされる。首から上の病気に御利益がある。河原で卵形の滑らかな石を拾い、願い事や氏名・住所等を書いて供えるとよいという。ちなみに、首塚様のすぐ北にある「宝生山金谷寺正光院」(弘法大師開基という。)の本堂(観音堂)は、元はこの首塚様のある場所に建てられ、その後現在地に移転したらしい。「正光院」は古社「金彦神社」の別当寺であったという。

備前東商工会さんのブログから(金谷首塚様):http://ameblo.jp/shokokai-bizenhigashi/entry-10137124709.html#main

②与太郎神社(よたろうじんじゃ)。通称:与太郎様。
場所:玉野市八浜町大崎。県道405号線(山田槌ヶ原線)沿いで、玉野光南高校の東、約200m。駐車場なし。
「与太郎様」というバス停もあり、見ていると、今でもかなり参拝者が多い。一説によると、「玉野市 与太郎様」という宛名でも郵便が届くとか。「与太郎様」は実在の人物で、宇喜多与太郎基家。八浜合戦において、敵・毛利方の鉄砲に撃たれ、天正10年(1582年)討ち死にしたという。伝承によれば、近くの竹薮に隠れたが、農夫の目配せによって追っ手に気づかれて討たれた。このとき、基家は脚気を患っており、歩けない状態だった。その後、この村に不幸が続いたことから、基家へのお詫びと供養のため、墓を建てたという。ただし、遺骸は、備前48ヵ寺の1つ「大賀島寺」(宇喜多家の菩提寺)に葬られたとされるので、墓ではなく、供養塔であろう(今も拝殿の中にある。)。足の病気に御利益があり、線香の灰を足の痛むところに塗ると良いという。

有限会社東海建設さんのHPから(与太郎神社):http://tokaikennsetu.com/w-momoyotarou.html

③田中神社(たなかじんじゃ)。通称:田中様。
場所:岡山市中区国富1丁目。岡山朝日高校の北側にある国富東公園の中。駐車場なし。
伝承によれば、宇喜多直家と三村元親の有名な明禅寺合戦(永禄10年:1567年)において、三村方の武将・庄元祐(元親の兄)が奮戦中、わらじの緒が切れて足がもつれ、討ち取られた。そのとき「わらじの緒が切れなければ、宇喜多方をせき止められたものを」と慨嘆した。これによって、庄元祐の供養塔が、語呂合わせの「咳止め」に、また、足の怪我や病気に御利益があるといわれるようになったという。ところで、なぜ「田中神社」なのか。元は旧・第六高等学校(現・岡山朝日高校)の敷地内にあったが、その後、田んぼの真ん中に移されたからだ、とのこと。

五輪塔さんのブログ「日本掃苔録」から(田中神社):http://soutai.livedoor.biz/archives/51009360.html


備前国は周囲の群雄割拠で、長らく争奪戦の場となったため、首塚が多い。このブログは古社巡りが本意なので、これ以上はあまり書かないつもりだが、いずれも病気治癒などの「流行(はやり)神」で、近世以降、人々の神様への期待が身近なもの、個人的なものに移ってきたことが窺われる。


写真上:「金谷の首塚」


写真中:「与太郎神社」(与太郎様)


写真下:「田中神社」(田中様)