備前の古社を訪ねる(備前国内神名帳の研究)

備前の由緒ある神社を巡礼する

コラム212.鬼突岩

2009-09-28 22:16:43 | Weblog
鬼突岩(おにつきいわ)。
場所:加賀郡吉備中央町竹部。県道72号線(岡山賀陽線:通称「吉備新線」)の岡山市境を越えたところに、「鳴滝自然公園」に下りていく道路の分岐(案内板あり)があり、その角にある。岩の前に駐車スペース?あり。
最初にお断りしておかなければならないが、説明板(写真下)にあるように、この岩は備中国にある。いろいろ面白そうな岩を探しているうちに見つけたもので、あんまり面白いので見に行った(どう面白いかは説明板を見てほしい。)。
吉備中央町にも、式内社「鴨神社」のほか、「化氣神社」、「天計神社」など備前国の古社がある。しかし、吉備中央町は旧・備中国の賀陽町と旧・備前国の加茂川町が合併したので、吉備中央町でも半分くらいは備中国になる。「竹部」という地名だが、(今は岡山市と合併した)建部町と同じく、日本武尊(倭建命)の名代(なしろ)であったことによる、という。そういう土地で、鬼の伝説があるのも面白い。この岩が磐座であったかどうかはわからないが、それなりに大事にされてきた岩なのだと思う。近くにある「鳴滝」というのも、神聖な、一種の磐座であったのではないかと思われる。


吉備中央町のHPから(鳴滝自然公園):http://www.town.kibichuo.lg.jp/mati/006mati.htm


写真上:鬼突岩


写真下:説明板

コラム211.玉比神社(小豆島町)のオマケ

2009-09-26 14:27:35 | Weblog
小豆島は石(石材)の産地で、大阪城の築城・修復用の巨石が切り出された現場が観光地として残されていたりする。奇岩が連なる「寒霞渓」などの景勝地もあるが、小豆島での神の居場所は山よりも、やはり港の近くが多い。現在では「八幡宮」が主になっているが、備前国内神名帳に載るのはいずれも「玉比神社」である。「葺田八幡神社」のほか、「内海八幡神社」(小豆島町安田)にも境外末社として「玉姫神社」がある(写真下)。いずれも八幡信仰が盛んになる前に、海神族のタマヒメ信仰があったのだろうと思われる。
タマヒメというのは豊玉姫(トヨタマヒメ)を指すことが多いが、「玉姫宮」(小豆島町)の祭神は、その妹とされる玉依姫(タマヨリヒメ)で、出産時の姿を見られて海に帰ってしまったトヨタマヒメに代わってウガヤフキアエズを育て、神武天皇などの母となった。タマヨリヒメは1人ではなく、いろいろな伝承が結び付けられているともいわれるが、その1つの性格として、水に関連が深いというのがある。
小豆島は大きな島ではあるが、飲料水は貴重なものだったのではなかろうか。小豆島町福田の「玉姫宮」のそばを流れる2本の2級河川や、近くにある「八大竜王堂」(写真中)をみると、「玉姫宮」は水の恵みを祈ったものではないか、などと妄想した。


写真上:巨大な岩が露出しているのが見える。「福田遠手浜海水浴場」入口の辺りから山側を見る。


写真中:上の写真の山麓、やや右手に八大竜王堂の磐座? 垂直な岩の壁の割れ目を祀っているようだ。この割れ目から泉でも湧いていたのか?


写真下:小豆島町安田にある「玉姫神社」(国道436号線沿い、小豆島町立図書館の向かい側にある。)



コラム210.玉比神社(小豆島町)再び

2009-09-25 16:27:25 | Weblog
玉姫宮(たまひめぐう)。
場所:香川県小豆郡小豆島町福田。「葺田八幡神社」の南、約500m。「葺田八幡神社」の門前からまっすぐ南に歩き、伊豆川と森庄川という2つの二級河川を越え、森庄川橋を渡ったところで右折(西へ)、すぐ。駐車場なし。
前回小豆島を訪れた際には、全く準備不足で、備前国内神名帳に載る古社「小豆嶋玉比神社」を見つけられずに帰った。今回は日帰りで、この神社参拝のためだけにフェリーとバスを乗り継いで小豆島を再訪した。
さて、当神社は、小さな神社だが、比較的新しい石鳥居があり、「玉姫宮」の扁額がかかっている。(写真上)。石の手洗いも味わいがある。古くからの住宅地の中にあり、北側の道路は比較的広いが、それ以外は住宅が立て込んでいて、道も狭い。
境内にある「玉比賣宮旧蹟」石碑(写真中)の裏の碑文には、次のように記されている。「玉比売大御神は往古、備前の国に三社鎮座せられし処、同国の洪水の際、一社流失し、当地海岸(今此所を外明神)に漂着し玉う時に、浦人知らざる事とて押し流せり。然るに又再び海浜に(今此所を内明神と云う)漂着し玉う。是に於て、村人牛右衛門、午右衛門なる者、御霊代を負い奉り来りて本地に小祠を建て、斎き奉れりと古老の伝言。年号不詳(明治二年、金烏城池田侯、使をして、玉比売大神の御神体改めの際申さると古老の伝言に節合す。)。其の後、天正元年に至り、本殿拝殿を再建し、爾来岡山侯、禄をして奉斎す。明治維新に至りて郷社八幡神社境外末社に列し、更に明治四十一年、郷社八幡神社へ合併、奉斎す。大正五年辰之十一月建立」(原文は旧字、カタカナ。句点・読点は適宜補った。)
この碑文を読んで、いくつか疑問点が生まれる。まず、そもそも、なぜ、当神社が備前国内神名帳に載る旧小豆(嶋)郡「玉比(呼)神社」であるとされるのか。碑文を見ると、小豆島は備前国には属さないという前提で書かれているように思われる。もともと備前国には玉比売神社が3社あった、ということも、どうか(注)。1つは「玉比神社」(玉野市)だろうが、岡山県神社庁加盟の神社には「タマヒメ」という名の神社は他にない。トヨタマヒメやタマヨリヒメを祀る神社は、もちろん、もっと多数あるから、逆に選択に困る。国内神名帳では、当神社、「玉比神社」(玉野市)のほかに「賀嶋玉比神社」があるが、これは小豆島にある。
想像(妄想)するなら、もともと現・玉野市など備前国児島を本拠とする海人族が小豆島にタマヒメ信仰を広げた。時代が下ると、八幡信仰が圧倒的になり、八幡神社の支配下に置かれた、ということになるのだろう。
なお、碑文に出てくる「外明神」(とちめんじ)という地名は、今もバス停の名に残っている。ただし、福田港から約2km南で、何もないところである。また、「内明神」(うちめんじ)という場所は、今は、どこなのかわからないようである。

(注)原文は漢字とカタカナなので、漢数字の「二」とカタカナの「ニ」の見分けがつきにくい。ひょっとしたら、「備前国に3社鎮座」ではなくて、「備前国23社鎮座」かもしれない。


写真上:「玉姫宮」正面


写真中:境内の「玉比賣宮旧蹟」の石碑


写真下:境内の北側から南西方向(山側)を見る。道路の横は二級河川「森庄川」

コラム209.葺田八幡神社(小豆島町)の磐座

2009-09-24 17:29:21 | Weblog
葺田八幡神社の磐座(ふくだはちまんじんじゃのいわくら)。
場所:香川県小豆郡小豆島町福田。「福田港フェリーターミナル」または「福田港」バス停から約400m、徒歩約5分。
「葺田八幡神社」については、2008年8月30日記事で書いた。「玉比神社」を探しに行ったのだが、事前リサーチ不足で見つからなかったので、今回はこのためだけに、新岡山港からフェリーとバスを乗り継いで日帰りで行ってきた。
まず、「葺田八幡神社」の磐座である。本殿の左手に境内末社の稲荷神社があるが、更にその奥に巨岩がある(写真上)。「磐座参道」という案内板もあり、子授けの御利益があるとして、この岩に参拝する人も多いという。社殿階段横の説明板には「巨大陰石」と書かれている。事前に見たブログの記事では「隕石」と書いてあってビックリしたのだが、その疑問は解決した。しかし、「巨大」はともかく、「陰石」というのはどういうことか。岩の左下の割れ目を「陰石」と見立てているものか。
ただし、この磐座がある神社がなぜ「八幡神社」なのだろうか。「葺田八幡神社」は小豆島五社といわれる5つの八幡神社の1つで、いずれも創建に応神天皇の御幸伝説があるが、(神功皇后ならともかく)子授け・安産とは結びつかないように思われる。
得意の妄想をすれば、もともと、ここは古社「玉比神社」で、子授けにも御利益があった。後に、八幡神社の信仰が強くなったときに、主客が逆転したのではないだろうか。


写真上:葺田八幡神社の磐座


写真下:なぜか、岩の後ろに小祠がある。

コラム208.一宮(その18・播磨国・伊和神社)

2009-09-23 16:24:11 | Weblog
伊和神社(いわじんじゃ)。
場所:兵庫県宍粟市一宮町須行名407。岡山方面からは、山陽自動車道を「龍野」ICで下りて揖保川沿いに北上するか、「山陽姫路西」ICで下りて国道29号線を北上する(約30km)。国道29号線沿いにあり、道の駅「播磨いちのみや」の向かい側にある。駐車場あり。
今の感覚からすると、播磨国の一宮は姫路市街地に近いのかと思うのだが、結構遠い。祭神は大己貴神(オオナムチ)で、当地の国土開発の神として伊和大神と称する。社名の「伊和」の由来は諸説あり、必ずしも「磐」ではないらしい。ただし、本殿の背後に降臨石として「鶴石」(写真中、下)という磐座?がある。また、当神社を囲む4つの山には磐座と祠があり、当神社の祭礼があるという。式内社の名は「伊和坐大名持魂神社」であり、古くからオオナムチを祀っていたことが明らかで、伝承では神は出雲から来たことになっている。しかし、土着の無名の神が、国土開発の神である大国主神(オオナムチの別名)に変わった、との説もある。「鶴石」は、2羽の白鶴がこの石の上に北向きに眠っていたといい、伊和大神の神託に従って、当地に鎮座したという。当神社の社殿は珍しく北向きに建てられているが、白鶴が北を向いていたからであるとする。降臨石であるなら、当然、これは磐座なのだろうと思うのだが、なぜか、「鶴石」は社殿より低いところにある。
それはさておき、国道29号線は旧・因幡街道で、揖保川が当神社の西側に流れている。道の駅「播磨いちのみや」では地元や鳥取の農産物などが販売されていて、伊和大神の国土開発の跡が今もうかがわれる。


玄松子さんのHPから(伊和神社):http://www.genbu.net/data/harima/iwa_title.htm


写真上:「伊和神社」鳥居。新しい素木の両部鳥居で、扁額には「正一位伊和大明神」とある。


写真中:本殿背後に祀られた「鶴石」。本殿より低い場所にあり、階段で下りる。


写真下:「鶴石」

コラム207.一宮(その17・丹後国・籠神社)

2009-09-21 19:46:39 | Weblog
籠神社(このじんじゃ)。
場所:京都府宮津市字大垣430。最寄駅は北近畿タンゴ鉄道宮津線「天橋立」駅で、「天橋立」を徒歩で渡って約45分(約3.5km)。遊覧船もある。自動車なら、宮津湾の西岸を走る国道178号線で、「岩滝口」駅付近から北上し、約6km。広い駐車場があるが、「天橋立」の観光客が多いので、有料。
山陰東部を巡拝してきて、ついに京都府に入った。当神社は丹後国一宮というだけでなく、山陰道一宮とも称している。社伝によれば、もともと奥宮「真名井神社」(写真下)のところに豊受大神が鎮座し、崇神天皇(第10代)の御代に天照大神が大和国笠縫邑から現社地に遷座。その後、天照大神は垂仁天皇(第11代)の御代に、豊受大神は雄略天皇(第21代)の御代にそれぞれ伊勢に遷座したことから、当神社を「元伊勢」と称する。祭神を彦火明命(ヒコホアカリ)とし、現社地に移った、という。
奥宮「真名井神社」には磐座があり、ちょうど「天橋立」がきれいに見える場所にある。「天橋立」はもともと、伊弉諾尊(イザナギ)が天に登るための梯子が、寝ている間に倒れて「天橋立」になったという伝説がある。「元伊勢」云々はともかく、古代から「天橋立」に対する素朴な信仰があったのだろう。
宝物として社家の「海部氏系図」(国宝)があり、現存する最古の系図だというが、現宮司はその第82代だという。


籠神社のHP:http://www.motoise.jp/main/top/index.html

玄松子さんのHPから(籠神社):http://www.genbu.net/data/tango/kono_title.htm


写真上:「籠神社」正面


写真中:「傘松公園」から見る「天橋立」。「傘松公園」へは、籠神社の裏、左手からリフトまたはケーブルカーで登る。


写真下:奥宮「真名井神社」磐座。本殿の背後にある。「真名井神社」へは、籠神社の裏、右手から徒歩で急坂を登る。


コラム206.一宮(その16・但馬国・粟鹿神社)

2009-09-19 09:45:01 | Weblog
粟鹿神社(あわがじんじゃ)。
場所:兵庫県朝来市山東町粟鹿2152。JR山陰本線「梁瀬」駅が最寄駅で、国道427号線を東南に走り、兵庫県道275号線(粟鹿早田線)に入って南下、すぐ(「梁瀬」駅から約4km)。今は、播但有料道路からつながる北近畿豊岡自動車道「山東」ICができていて、その南西、約400m。駐車場有り。
但馬国では、「全国一の宮会」には、前項の「出石神社」と当神社の2社が加盟している。何しろ、但馬国には式内社が131座(全国第5位)、名神大(社)だけでも10社(18座)もあるので、「一宮」争いがあっても不思議ではない。
「粟鹿」というのは、山(粟鹿山)から鹿が粟を三束咥えて下りてきて、人々の農業を教えたという伝承から来ているといい、当神社の創建は不明だが、西暦700年代初めの文書にもその名が見えるという、大変な古社である。多分、但馬国最古の神社ではないか、とされる。
祭神は一般には彦火火出見尊(ヒコホホデミ)=山幸彦。神功皇后が妹の虚空津姫を竜宮に遣わして干満の宝珠を得、三韓征伐からの帰国後、満珠を当神社に、干珠を住吉大社に納めたという伝説があり、干満の宝珠に因んで彦火火出見尊を祀ったのだという。
あるいは、祭神は日子坐王(ヒコイマスノミコ)ともいう。日子坐王は開化天皇の第三皇子。四道将軍の1人である丹波道主王(タンバノミチノウシ)の父といい、やはり丹波に派遣されて、当地を平定したという。当神社の本殿の後ろに「塚」があり、社殿の建て方をみると、明らかにこの「塚」を祀ったものと見受けられる。この「塚」こそ日子坐王の墓(円墳)と伝えられている。同じ四道将軍である大吉備津彦(備前・備中・備後の吉備津宮の祭神)の墓(中山茶臼山古墳)と比べると、かなり規模が小さい。仮に当地に日子坐王の墓があったとしても、この「塚」ではなく、別の場所にあるのではないか。かつて神社に社殿というものがなかった時代、何らかの祭祀が行われた場所とみるのがよいように思われる。
なお、行ったときに見逃してしまったのだが、勅使門の彫刻は左甚五郎作で、その鳳凰が夜になるとうるさく飛び回ったので、首を切り落とされてしまった、という伝説もあるらしい。いろいろと面白い神社である。


玄松子さんのHPから(粟鹿神社):http://www.genbu.net/data/tajima/awaga_title.htm

粟鹿小学校のHPから(粟鹿神社):http://sasayuri-net.jp/users/awaga-sho/kouku/awagajinjya.htm


写真上:「粟鹿神社」鳥居


写真下:本殿。本殿の背後に土を盛り上げた円形の「塚」がある。

コラム205.一宮(その15・但馬国・出石神社)

2009-09-12 20:50:53 | Weblog
出石神社(いずしじんじゃ)。
場所:兵庫県豊岡市出石町宮内99。JR山陰本線「国府」駅の東南約7km。国道426号線「鳥居橋」交差点の真東、狭い道に入るが、約700m進むと鳥居前に出る。駐車場あり。
写真にあるように、鳥居は堂々とした「両部鳥居」で、扁額は「一宮」。式内社・名神大で、創建時期は不明だが、古くから但馬国一宮とされてきた。通称も「いっきゅうさん」。祭神は、新羅の王子、天日槍命(アメノヒボコ)。息長帯比売命(神功皇后)は、その子孫にあたる。新羅出身にも拘らず、天とか日とか、皇族並みの名前を持ち、槍(矛)も付いているから製鉄にも関係があったのではないか、ともいわれる。当神社が当地に鎮座しているのは、最終的に天日槍命が但馬国に定住したからだとされる。
また、当神社が8座とされることも異例で、天日槍命が8種の神宝を伝え、これを「八前大神」(やまえのおおかみ)とするので、元は天日槍命という人(神)格ではなく、8種の神宝を祀ったのかもしれない(備前国「石上布都魂神社」(赤磐市)の祭神は素盞嗚尊であるが、もともとは素盞嗚尊が八岐大蛇を斬った十握剣の霊=布都魂を祀ったものというのと似ている。)。
なお、鎮座地の「出石」という名は、神宝の1つ「出石小刀」に由来するともいわれている。以上のようなことから、当神社には石の字が付いていながら「磐座」はないようだ。ただし、境内の東北隅に禁足地があり、天日槍命の御廟所であって、入ると祟りがあるとのこと。


玄松子さんのHP(出石神社):http://www.genbu.net/data/tajima/izusi_title.htm

のりちゃんずさんのHPから(出石神社):http://www.norichan.jp/jinja/benkyou/izushi.htm

コラム204.一宮(その14・因幡国・宇倍神社)

2009-09-09 20:28:22 | Weblog
宇倍神社(うべじんじゃ)。
場所:鳥取県鳥取市国府町宮下651。JR「鳥取」駅の東南約4km。鳥取県道31号線(鳥取国府岩美線)を進むと、「鳥取藩主池田家墓所」の案内板の先に当神社の案内板があり、「稲葉山」山麓側に少し入る。鳥居の右手から上っていくやや狭い道路があり、立派な社務所の前に駐車場がある。
因幡国唯一の式内社・名神大(社)。当神社の祭神は武内宿禰(たけうちのすくね)で、景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5代の天皇に仕え、約240年の間、大臣として国政を補佐したという伝説的な人物。年齢も280~360歳余とされるので、常識的には、1人ではなかった(何代か襲名したか、集団の事績を1人のものとしたか)とか、あるいは、各天皇の治世が実際より引き延ばされているとか、いわれる。1人でこれだけの長寿であれば、まさに仙人であり、社伝によれば「稲葉山」から履(くつ)だけを残して昇天した、という。それが当神社の社殿の背後にある「双履石」(写真中)であり、このことが当神社創建の由来であるとされる。「双履石」は武内宿禰の履が石に変じたものとされるが、実際には古墳の上部の石が見えているものらしい。ただし、武内宿禰の墳墓は奈良県御所市にあるとされているので、この古墳の主は地方豪族の首長のものだろう。
当神社の社家は明治初年まで伊福部氏で、その系図は大己貴神(大国主命)まで遡るという古い家柄である(「ゴジラ」の音楽で有名な大作曲家伊福部昭は、その67代目であるという。)。当神社の近くに「伊福吉部徳足比売の墓跡」という国史跡があるが、和銅元年(708年)に亡くなった伊福(吉)部氏の娘、徳足比売(とこたりひめ)の墓跡で、略歴・没年が墓誌銘に記されていた。また、当神社の数百mの範囲内に国府跡や国分寺跡があり、こうしたことから、伊福部氏が古代から当地を支配した豪族であったことが窺われる。
武内宿禰は瀬戸内海地域でもいろいろな伝説が伝えられており、伊福部氏も式内社「尾針神社」・「尾治針名真若比神社」(ともに岡山市北区)と縁が深い。


宇倍神社のHP:http://www.ubejinja.or.jp/

玄松子さんのHPから(宇倍神社):http://www.genbu.net/data/inaba/ube_title.htm

家紋WorldさんのHPから(社家の姓氏-伊福部氏-):http://www.harimaya.com/o_kamon1/syake/south/s_ube.html


写真上:「宇倍神社」鳥居。扁額は「因幡一宮宇倍神社」


写真中:亀金岡・武内宿禰命終焉之地の石碑


写真下:双履石









コラム203.一宮(その13・伯耆国・倭文神社)

2009-09-05 12:05:28 | Weblog
倭文神社(しとりじんじゃ)。
場所:鳥取県東伯郡湯梨浜町宮内754。東郷湖東岸にある「東郷湖羽合臨海公園」から鳥取県道234号線(東郷羽合線)を約1km北上すると、当神社への案内板があり、やや狭い道に入って約1km。この道は当神社で行き止まりになる。駐車場あり。
「倭文神社」という神社は日本各地にあり、本源は奈良県葛城市にある式内社「葛木倭文座天羽雷命神社」、通称「倭文神社」であるという。ただし、こちらは「しずりじんじゃ」と呼ばれている。「倭文織」(しづおり)というのは日本(倭)独自の織物と考えられるが、現存していないようだ。一般に「倭文神社」の祭神は機織の神、健葉槌命(タケハヅチ)で、当神社の主祭神も同じであるが、伝承では下照姫命(シタテルヒメ)のものが多く、長らく下照姫命が主祭神と思われていたらしい。そのため、機織の神というよりは、安産の神として信仰されるようになったという。
境内にある「経塚」はもともと下照姫命の墓であると伝承されてきたが、発掘の結果、銅製の経筒などが出土し、古墳ではなく、経塚であることがわかった。この経筒は国宝となっているが、康和5年(1103年)という年号が入った銘文に「伯耆国河村東郷御座一宮大明神」とあり、これが「一宮」という称号が書かれた最初期のものと思われる。つまり、遅くとも12世紀初めには「一宮」という社格が成立しており、かつ、当時すでに当神社が伯耆国一宮であったということになり、大きな発見だった。
ところで、岡山県神社庁加盟の神社では、津山市油木北にある「倭文神社」が唯一で、備前国には殆どなじみがない。津山市の「倭文神社」は旧・倭文村にあり、機織の民が居た場所なのだろう(地元では「倭文織」の復元を試みているようである。)。
なお、下照姫命は大国主命の娘とされるが、備前国では下照姫命の兄である味耜高彦根命(アヂスキタカヒコネ)=賀茂大神を祀る神社が多い。


玄松子さんのHPから(倭文神社(湯梨浜町)):http://www.genbu.net/data/houki/sitori2_title.htm

津山瓦版さんのHPから(倭文織の復元):http://www.e-tsuyama.com/kankou/check/shitori/shidsuori.html


写真上:「倭文神社」鳥居。扁額は「伯耆一宮倭文神社」。


写真中:経塚。随神門を通って、すぐ右手の小高い丘の上にある。


写真下:安産岩。境内の少し手前の道路脇にある。