小島神社(おしまじんじゃ)。
場所:岡山市中区原尾島1-7-39。行き方については、「八幡雄島宮」の項を参照。
往古、西大川(旭川)が国富村の方へ流れていた頃、川の中央に小島があり、その小島に鎮座していたので「小島神社」と称した(一時、「浮洲宮」とも呼ばれていた)という。また、「大井手神」と呼ばれていたこともあるようだ。「井手」というのは、「堰」の意で、要するに田の水の神だったのではないか。
八幡雄島宮は寶暦6年(1756年)に国富村雄島山(操山)から現在地に遷宮し、明治23年(1890年)に小島神社と合祀され、現在のような形になったという。したがって、神名帳では、八幡雄島宮と小島神社は全く別の神社として認識されており、現在は1社だが、神名帳上は2社ということになる。当社の真東に「芥子山」があるとして、日の出の方向と結びつける説があるが、創建時には、それぞれ別の場所に鎮座していたとすれば、この説は当たらないことになる。
なお、八幡雄島宮から「原尾島」(原村と尾島村の合併地名)の名が付けられたといわれており、当社も「コジマ」ではなく、「オジマ」と称するとする。ただし、総社本の脚注には「玉井宮(岡山市中区東山)であろう。同社は往古は児島神社と呼ばれていたから。」というようなことが書かれている。この説は、玉井宮の由緒と合わないし、同社が東照宮と合祀されて江戸時代以降隆盛した(旧県社ともなった)ことに影響されたのではないか、と思われる。ただ、「オジマ」神社と呼ばれるようになったのは、それほど古いことではない、とは言えるだろう。
場所:岡山市中区原尾島1-7-39。行き方については、「八幡雄島宮」の項を参照。
往古、西大川(旭川)が国富村の方へ流れていた頃、川の中央に小島があり、その小島に鎮座していたので「小島神社」と称した(一時、「浮洲宮」とも呼ばれていた)という。また、「大井手神」と呼ばれていたこともあるようだ。「井手」というのは、「堰」の意で、要するに田の水の神だったのではないか。
八幡雄島宮は寶暦6年(1756年)に国富村雄島山(操山)から現在地に遷宮し、明治23年(1890年)に小島神社と合祀され、現在のような形になったという。したがって、神名帳では、八幡雄島宮と小島神社は全く別の神社として認識されており、現在は1社だが、神名帳上は2社ということになる。当社の真東に「芥子山」があるとして、日の出の方向と結びつける説があるが、創建時には、それぞれ別の場所に鎮座していたとすれば、この説は当たらないことになる。
なお、八幡雄島宮から「原尾島」(原村と尾島村の合併地名)の名が付けられたといわれており、当社も「コジマ」ではなく、「オジマ」と称するとする。ただし、総社本の脚注には「玉井宮(岡山市中区東山)であろう。同社は往古は児島神社と呼ばれていたから。」というようなことが書かれている。この説は、玉井宮の由緒と合わないし、同社が東照宮と合祀されて江戸時代以降隆盛した(旧県社ともなった)ことに影響されたのではないか、と思われる。ただ、「オジマ」神社と呼ばれるようになったのは、それほど古いことではない、とは言えるだろう。