備前の古社を訪ねる(備前国内神名帳の研究)

備前の由緒ある神社を巡礼する

コラム263.和気清麻呂公の銅像(東京都千代田区)

2011-07-24 23:04:16 | Weblog
和気清麻呂公の銅像(わけのきよまろこうのどうぞう)。
場所:東京都千代田区大手町一丁目。気象庁の西向かいで、東京メトロ東西線「竹橋」駅の2番出口付近。駐車場なし。
和気清麻呂(天平5年:733年~延暦18年:799年)は、備前国藤野郡に生まれ、藤野別真人(ふじのわけまひと)と称し、孝謙天皇に女官として仕えていた姉の広虫の推挙で、武人として宮中に出仕した。
神護景雲3年(769年)、重祚した称徳天皇のもとで重用されていた道鏡について、「道鏡を帝位に就ければ天下太平になる」との「宇佐神宮」(豊前国一宮、八幡宮の総本社)のお告げがあった、と奏上するものがあった。これは、道鏡の弟で大宰帥(大宰府の長官)であった弓削浄人の陰謀であったとされているが、いわゆる「宇佐八幡宮神託事件」である。称徳天皇は広虫(法均尼)にこの神託を確認させようとしたが、豊前国まで行く体力がないとして、代わりに弟の清麻呂を派遣した。清麻呂が「宇佐神宮」に参宮すると、身の丈3丈(約9m)、顔が満月のように輝く僧形の神が現れ、「皇族ではない者に天皇になる資格はない(から、道鏡に皇位を継がせてはならない)。」という神託を下した。帰京した清麻呂はこの神託の通りに報告したが、称徳天皇の怒りに触れ、別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と改名させられたうえ、大隅国に流刑となった。宝亀元年(770年)、称徳天皇が崩御し光仁天皇が即位すると、清麻呂は都に呼び戻され、その後、平安京遷都を奏献したり、大規模な治水工事を行ったりして治世に尽くし、最終的には正三位を賜っている。
延暦18年(799年)に亡くなると、京都・神護寺に葬られたが、嘉永4(1851年)、孝明天皇から正一位と「護王大明神」の神号を贈られ、神護寺境内の和気清麻呂廟は「護王神社」と改称された(明治19年に京都御所蛤御門前に遷座。)。
さて、東京都千代田区にある和気清麻呂公の銅像(佐藤清蔵作。高さ4.2m)は、昭和15年、紀元2600年記念事業として建立された。道鏡による帝位簒奪を阻止し、国体を護持した忠臣として、戦前は紙幣の肖像画にもなっている。岡山県和気町の「和氣神社」(2009年7月5日記事)にも和気清麻呂公の銅像(朝倉文夫作。高さ4.63m)があるが、東京都千代田区のものはやや太り肉で堂々とした姿に作られている。


岡山県のHPから(和気清麻呂像)

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