備前の古社を訪ねる(備前国内神名帳の研究)

備前の由緒ある神社を巡礼する

コラム186.備前備中国境標石(その2)

2009-06-14 20:40:13 | Weblog
吉備の中山の南側にある国境標石は近世の新田開発を巡る国境争いの産物で、明治時代以降、殆ど撤去され、現在見られるものは比較的最近復元されたものらしい。したがって、必ずしも標石の位置や向きは往時のままではないようだ。
例えば、JR「庭瀬」駅そばの妙見堂(妙見大菩薩)境内にも国境標石がある(写真上)が、国境のからかなり(備中側の)内側になる。岡山市北区庭瀬(以下、町名のみ記す。)は今も水路が多く、土地も低そうなので、中・近世以降の干拓地かと思ったが、そうではなく、古代の文書(和名抄など)にも記載がある、古い土地らしい。とは言え、もとは「新瀬」(にいせ)といったらしく、海が近かったことが窺われる。ここが国境だったということではなく、多分、撤去された標石を妙見堂境内に祀ったのだろう。
一方、「久米の国境標石」と並んで有名なのは、「早島の国境標石」だろう(写真中)。吉備の中山から南下してきた境目川が足守川に合流した先は妹尾になるが、JR線でいうと「妹尾」駅の西が「備中箕島」駅で、東が「備前西市」駅となっているのが面白い。児島の海が入り込んでいた頃、「早島」と「箕島」は文字通り島で、妹尾はその先にできた砂丘だったらしい。このため、これらはもともと備中側にあったことになる(後世の干拓による古新田・大福も備中側になるが、JR「妹尾」駅のある東畦は備前側になる。)。天正12年(1584年)頃、岡山城主宇喜田秀家が現・倉敷市酒津から早島まで汐止め堤防(「宇喜田堤」又は「宇喜田土手」という。)を築かせ、内側の干潟を干拓させたという。早島のこの堤防の前(南)にできたのが「前潟」で、その先端に「早島の国境標石」が立てられることになったわけである。
早島町と倉敷市藤戸町天城(六間川対岸の帯高に国境標石がある。写真下)の間は2km程しかなく、この辺りの西側は特に狭い海峡だったようだ。因みに、備中国の式内社「足高神社」(倉敷市笹沖)は別名「帆下宮」(ほさげのみや)といい、この神社の前を通る船は「敬意を表して」帆を下げたという。「足高」という名は元は「葦高」だったのだろうし、潮流の激しい狭い瀬戸を通る船は帆を下げて慎重に通ったのだろうと思われる(足高神社が鎮座する山はもともと孤島で、南の対岸の備前国児島の浦田との間は、1km程しかない。)。足高神社は南面して海を見下ろす絶好の位置にあるが、向かい側の備前国児島の北西部には、これといった古社はないようだ。


岡山市教育ポータルのHPから(犬飼建介さんの「箕島の歴史」):http://www.city-okayama.ed.jp/~mishimas/rekisi/rekisi1.htm

岡山県神社庁のHPから(足高神社):http://www.okayama-jinjacho.or.jp/cgi-bin/jsearch.cgi?mode=detail&jcode=02023


写真上:JR「庭瀬」駅のそばにある妙見堂の境内にある国境標石。通称:平野の国境標石。


写真中:早島の国境標石。JR「早島」駅の東南、約700m。水田に囲まれた墓地の中にある。


写真下:倉敷市帯高にある国境標石。「川子岩」の近く。先の方に見えるのが六間川の堤防(改修工事中)。

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1 コメント

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妙見堂の国境石 (お茶のまず博士)
2012-06-19 14:53:41
原文掲載から、丸3年経ってのコメントです。
妙見堂の標石は、移動されたはよいが、以下が解読されますか?
「国境」と言っても、御一新の後(明治ひと桁)に建てられたと考えられますが如何?
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