備前の古社を訪ねる(備前国内神名帳の研究)

備前の由緒ある神社を巡礼する

94.吉備津岡辛木神社

2008-06-19 22:20:53 | Weblog
吉備津岡辛木神社(きびつおかからきじんじゃ)。
場所:岡山市中区海吉1109。百間川右岸(南岸)の堤防上の道路を「神下橋」のところで南に曲がり、上って行く。曲がってすぐのところに「深田神社」があるが、更にその先、高齢者福祉施設「ケアハウス恵園」の向かい側にある狭い道路に入る。そのまま進むと、社殿横まで自動車で行けるが、通常は手前の少し広くなったところに駐車。
東西に細長い操山の東端になり、付近に古社も多いが、吉備氏を祀る神社は案外珍しい。鎮座地名でわかるが、往古、操山の南側まで海が迫っていたらしく、本来は現在地の北西の「笠井山」山頂(磐座がある。)にあり、かつては「吉備明現宮」と称され、妙見信仰があったといわれている。航海の守護神として、方角を知るための北極星信仰と結びついたのかもしれない。

岡山県神社庁のHP:http://www.okayama-jinjacho.or.jp/cgi-bin/jsearch.cgi?mode=detail&jcode=01063

Web魁さんのHP:http://websakigake.sakura.ne.jp/07-071.html

93.天神一社楊田神社

2008-06-19 21:50:42 | Weblog
天神一社楊田神社(てんじんいっしゃやないだじんじゃ)。
場所:岡山市中区神下461。国道250号線沿いにあるドラッグストア「ひまわり東岡山店」の裏側(南)の低層マンション群の南側。駐車スペースあり。
「生庶神社」のある乙多見の東隣が、「天鴨神社」がある長岡であり、その南が当社のある神下なので、これら3社はかなり近距離にあることになる。国道250号線「神下」交差点を北に曲がれば「天鴨神社」、南に曲がれば当社に至る。
当社も神名帳の社数カウント上、若干の問題がある。西大寺本では「天神一社法楊角明神」となっているが、総社本では「天神社」と「楊田神社」と分けて記載されているからだ。
岡山県神社誌(昭和56年4月)によれば、「楊田が地名であるから、天神一社・楊田神社と奉称するのが古意に協うと思われる。」と記されている。

岡山県神社庁のHP:http://www.okayama-jinjacho.or.jp/cgi-bin/jsearch.cgi?mode=detail&jcode=01082

Web魁さんのHP:http://websakigake.sakura.ne.jp/06-056.html

92.生庶神社

2008-06-19 21:16:24 | Weblog
生庶神社(おたみじんじゃ)。
場所:岡山市中区乙多見284。国道250号線の北側に、国道と平行する道路がある(旧道?)。地元の人が利用する抜け道で、狭い割りに交通量が多い。その道路沿いに、少し前まで「ふじうら東岡山店」というスーパーがあった。現在は更地になっているが、まだ地図には載っているかもしれない。その裏側(北)に当社はある。目印がなくなってしまったので、説明しにくいが、「藤原整骨院」の向かい側(北)の小道に入り、「とくむら歯科」の向かい側(東)の更に狭い道に入ると、そこにある。ただ、駐車場はなく、道も狭いので、国道250号線沿線で安全に駐車できるようなところから徒歩で向かったほうがよい。
「生庶」というのは「大民の義」だと岡山県神社庁HPの説明にあるが、「生庶」という言葉は、他では見たことがない。神名帳ではいずれも「生鹿神社(明神)」としてあり、読み方も「けか」との注釈があるものもある。地名の「乙多見」(おたみ)は当社にちなむという。
祭神は出雲国美談神社(みたみじんじゃ)と同神というが、これも珍しく、現地の様子といい、何となく異色な神社である。

岡山県神社庁のHP:http://www.okayama-jinjacho.or.jp/cgi-bin/jsearch.cgi?mode=detail&jcode=01084
Web魁さんのHP:http://websakigake.sakura.ne.jp/06-054.html

コラム8.操山、八幡雄島宮、安住院

2008-06-19 20:46:41 | Weblog
もともと小島神社と八幡雄島宮とは別の神社でした、と書いておいて、ここでまた八幡雄島宮に触れる。
八幡雄島宮の項では、「もとは雄島山(操山)に鎮座していたというが、その場所は不明」というようなことを書いた。判ったわけではないのだが、他の神社でも「○○山に鎮座」というときには、たいてい山上である。それで、八幡雄島宮も操山山頂にあった可能性はある。操山山頂付近は国有林のようだが、三角点のある場所(地名)は「岡山市中区国富3丁目字雄島山407番地先」というらしい。そして、そこから北西に下りてくると、「瓶井山禅光寺安住院(みかいさんぜんこうじあんじゅういん)」のところに出る。同寺の多宝塔は、後楽園の借景として建てられたというのは有名だが、同寺自体ももともと備前48ヶ寺の1つ。現在(平成20年6月)、多宝塔の解体修理中だが、先日、公開行事があったので見に行ってきた。すると、多宝塔の真後ろに、小さいが磐座のような岩があり、「妙見大権現」の石碑も立てられていた(写真)。そして、そこから山頂に上って行く道がある。
ところで、同寺には竜の舌という宝物があった。これを龍王堂の古池で洗うと必ず雨が降ったと言われており、この古池(清泉)は瓶井山の語源ともなった、という。今も寺の前に小川が流れている。
このように、操山には、古墳、山頂、磐座、水源など、古社にありがちなキーワードがいくつも出てくる。だが、なぜ八幡雄島宮は遷座したのだろうか。単にお参りの便宜かもしれないが・・・。
ちなみに、「操山(みさおやま)」という名は、瓶井山(みかいさん)→三櫂(みかい)→三棹(みさお)→操山になったという説がある。なんだか、こじつけめいているが。