備前の古社を訪ねる(備前国内神名帳の研究)

備前の由緒ある神社を巡礼する

コラム231.榎本神社(大森大明神)

2009-12-31 21:05:29 | Weblog
榎本神社(えのもとじんじゃ)。
場所:岡山市北区弓之町。旭川に架かる新鶴見橋の西詰(「油掛大黒天」があるところ。)から南に約50m。駐車場なし。
よくわからないのだが、岡山県神社庁のHP(下記)でも、岡山県の「宗教法人名簿」(平成11年3月)でも、当神社の所在地は「岡山市北区弓之町5-1」となっているが、当該住所地は駐車場で、それらしい社はない。岡山県神社庁のHPではグーグル地図が掲載されているが、そこは「弓之町5-1」ではないし、ここも自走式の立体駐車場である。「榎本神社」(写真)の現在の鎮座地は、住居表示でいうと「弓之町17-21」らしい。道路の向かい側(東側)は「出石町一丁目」になる。
もうひとつわからないのは、「榎本神社」を紹介しているHPなどをみると、例外なく、「榎本神社」の別名が「大森大明神」であるとしている。しかし、「岡山市史 宗教・教育編」(昭和43年3月)によれば、「榎本神社」の祭神は倉稲魂神で、所在地は弓之町。「大森大明神」の祭神は具廼馳神で、所在地は出石町二丁目となっており、それぞれ別の神社となっている点である。この関係や如何に?
「吉備温故秘録」によれば、寛保3年(1743年)に江戸の浪人原田儀左衛門が「大森大明神」を建立したとされる。しかし、「榎本神社」の社伝によれば、当神社の創建は応永年間(1394~1427年)であり、貞享2年(1685年)銘の手水鉢もあるという。だから、もともと「榎本神社」と「大森大明神」は別の神社だったのではなかろうか。
ほかにはあまり情報もないのだが、もともと式内社「伊勢神社」(岡山市北区番町)の境外摂社で、明治18年(1885年)まで会陽(裸祭り)が行われていた、ということである。
さて、「出石町」というのは「和名抄」にもある「出石郷」に基づく古い地名であるといわれる。なお、「出石」というのは、旭川河畔に作られた石組みで、船の荷揚場をいうらしい。海運により、生活必需品、特に塩をここで荷揚げしたらしい。この界隈は、岡山大空襲のときも、旭川の水をバケツリレーで撒いて消火し、古い町並みが残る場所である。「榎本神社」も小社ながら、なかなか良い雰囲気がある。境内に大きな木があり、確かに、むしろ「大森大明神」(木の神様であるククノチを祀る。)のほうがふさわしいかもしれない。この木は、エノキではなく、ムクノキだそうである(岡山市の保存樹・指定番号55番)。


岡山県立図書館のHPから(伊勢宮):http://djv.libnet.pref.okayama.jp/mmhp/kyodo/kenmin/eyo/eyo-jisya-bizen19.htm

岡山市のHPから(保存樹一覧):http://www.city.okayama.jp/toshi/kouenryokuchi/kouenryokuchi_00054.html

コラム230.旧県社(その8・三勲神社)

2009-12-25 22:12:30 | Weblog
三勲神社(さんくんじんじゃ)。
場所:「玉井宮東照宮」境内。
三勲神社は、備前国出身の尊王の忠臣である和気清麻呂と児島高徳、それに岡山藩主池田氏の祖先とされる楠木正行(楠木正成の子)を祀るため、操山の高台に、明治8年(1875年)創建された。戦前は県社であったが、もともと歴史的・地域的に氏子がなく、市内の小学生全員を崇敬者として勤労奉仕などによって運営されてきた。しかし、戦後は公的な支援もなくなり、屋根の銅版は剥がされ、浮浪者が住みつくなど荒廃を極めた。このため、昭和22年(1947年)に本殿のみを「玉井宮東照宮」境内に移した。
神社は日本人の精神的な財産であるが、担い手がなければ、無くなってしまうものであるという良い例だろう。


写真上:「三勲神社」跡地


写真下:「玉井宮東照宮」境内に移された「三勲神社」

コラム229.玉井宮と玉比神社

2009-12-22 21:01:32 | Weblog
「玉井宮東照宮」(岡山市中区東山)のうち「玉井宮」はもと、児島郡小串村の光明崎(現・米崎)に鎮座していたが、社のある山頂から毎夜怪光が海面を照らし魚が恐れて寄り付かないことから、漁師たちが困っていたところ、神託があって、白幣が飛び立ち、現在地に立った。これにより社を遷座し、「玉の宮」または「玉井宮」と称されることになった、という(2009年6月26日記事参照)。遷座したのは応徳2年(1085年)とされるので、延喜式神名帳の成立よりは後になる。で、社伝によれば、当神社が備前国内神名帳所載の旧・児島郡「玉比神社」であるとされる。
ちなみに、旧社地とされる岡山市南区小串での伝承では、もともと祭神は豊玉姫命と玉依姫命の姉妹であり、白幣に乗って(あるいは白幣と化して)「幣立山」に移ったのは姉神のみで、妹神は旧社地に残ったという。
「米崎」という地名は、もとは「光明崎」だったのが訛った、というのは、「玉井宮」の縁起に関わるものばかりのようで、「光明」という言葉自体、何か抹香くさい気がする。多分、後世に「玉井宮」の社僧が考えたことなのではないか。本来は、潮流が込み合う「(潮)込め崎」だったようだ。「米崎」を西米崎、対岸の岡山市東区正儀を東米崎といったこともあったらしい。「光明崎」が語源かどうかは別にして、米崎の先の海が航海の難所で、米崎の明かりが目印になっていたことは十分考えられる。なお、米崎の東端には、今も灯台が設置されている。
さて、実際に米崎に行ってみる。児島半島を周回する県道74号線(倉敷飽浦線)を、県道463号線(長谷小串線)分岐の交差点を東へ(「桃太郎荘」方面の反対側)。「ポートオブ岡山」というマリーナの先に行くのだが、そこからは道が狭くなる。海に面した道路に出たところに、黒住教の「小串遥拝所」がある。ここは、教祖黒住宗忠神が小豆島への布教のため海を渡っていると、急に海が荒れ難破の危機に陥ったが、「波風をいかで鎮めん海津神 天津日を知る人の乗りしに」という自作の歌を書いた紙を海に投げ入れると、忽ち波が静まったという事蹟を記念したものである。これも、ここが海の難所であったことを示すものだろう。
その先、「東米崎港」の集落に至るが、集落に入る手前に「焚火大権現」(たくひだいごんげん)が鎮座する山上へ行く小道がある。地図で見ると、小串の岬には、根元に「梅ヶ原山」(126m)があり、その東に2つの小峰(60~70m)が見える。「焚火大権現」が鎮座するのは、「梅ヶ原山」の東隣の峰で、「玉井宮」の元宮の所在地とされるのは、東端の峰らしいが、今はその山頂に行く道もないようだし、山頂にも何も残っていないようだ。「焚火大権現」は、字は違うが、隠岐島の「焼火神社」(たくひじんじゃ)を勧請したもののようだ。どちらも、海上の安全を守る神である。

※「米崎神社」と「焚火大権現」の関係がよくわからなかったのだが、「小串村誌稿」(小磯昇、昭和59年4月)によれば、概略次のとおり。「米崎神社」は廣幡八幡宮(岡山市南区阿津2104)の境外末社で、祭神は大綿津見命だが、伝説に、この海岸に光を放つ石祠があり、これを1人の漁夫が小串の東山の山上に祀ったのが豊玉姫命・玉依姫命で、このうちの豊玉姫が白幣に乗って遷座して「玉井宮」の神魂になったとする。「焚火大権現」はもともと「権現山」(「梅ヶ原山」?)に鎮座していたが、明治8年(1875年)に祭神を玉依姫命に改めて「米崎神社」に合祀した、という。ということは、写真下の白い石の祠は正しくは「米崎神社」であるらしい(拝殿には「焚火大権現」という額が掲げられているが。)。<2009年1月31日追記>

「とことん小串」HPから:http://kogushi.jp/old/map/komezaki-obiki.html

「小串学区連合町内会」HPから(焚火大権現):http://townweb.e-okayamacity.jp/kogushi-r/takuhi.html


写真上:「玉井宮東照宮」境内の摂社「白龍神社」


写真中:「黒住教小串遥拝所」


写真下:「焚火大権現」。「白龍神社」(写真上)の説明板では「玉井宮の元地の多久火権現・・・」とある。


コラム228.古代備中国の中心部(その5・鬼ノ城)

2009-12-18 22:36:20 | Weblog
鬼ノ城(きのじょう)。
場所:総社市奥坂。JR吉備線「服部」駅の北西約2kmのところに「砂川公園」がある。自動車で行くなら、国道180号線「国分寺口」交差点から北に向かい、岡山自動車道の高架下を潜ると、県道271号線(総社足守線)に入ると案内板がある。「砂川公園」から約3km北上すると、「鬼城山ビジターセンター」があり、駐車場がある。そこまでの道路は狭く、休日にはハイキング客も多いので、注意。
「鬼ノ城」は鬼城山(397m)山上に築かれた古代の山城(国史跡)で、朝鮮式とか神籠石式山城といわれる。石垣や土塁、礎石などの遺構が発掘されており、「西門」などが復元されている(写真上)。かなり大規模な山城だが、備前国の「大迴小迴山城」(岡山市東区草ヶ部)と同様、「日本書紀」などの史書には記載がない。「鬼ノ城」という名は、「温羅」(うら)という鬼の居城であって、四道将軍・吉備津彦命と戦って敗れたという伝説による。
一般には、7世紀後半、唐・新羅の侵攻からの防御用に築かれたとされる。備中国府・国分寺・総社宮などの主要施設の北にあり、位置や距離感からも、これらの関連施設と感じられる。
備前国の場合、「鬼ノ城」に相当する「大迴小迴山城」の位置はやや微妙。というのは、備前国府址とされる場所と国分寺址がかなり離れているというのが、まず問題。「大迴小迴山城」は、備前国分寺址からは南東約2.5km(直線距離)と近いが、備前国府址からは北東約7kmで、やや離れている(「鬼ノ城」と備中国府址との距離は約5km(直線距離)。)。ただし、もし古代山陽道が上道郡ルートであったら(2008年12月24日記事)、そのルート沿いであり、また、「大迴山」・「小迴山」は、備前国府址・式内社「大神神社」などの背後にある「龍ノ口山」とつながっている。


総社市のHPから(鬼ノ城):http://www.city.soja.okayama.jp/kanko/kankochi/kinojo.jsp

鬼ノ城HP:http://alpha.c.oka-pu.ac.jp/kinojo/

鬼ノ城ウォーキングHP:http://park.geocities.jp/aenzic/index.html


写真上:復元された「鬼ノ城」西門


写真中:「鬼城山」展望台付近


写真下:「鬼城山」の少し先にある岩屋地区の「鬼の差し上げ石」



コラム227.古代備中国の中心部(その4・古社)

2009-12-11 22:33:29 | Weblog
古郡神社(ふるこおりじんじゃ)。
場所:総社市総社2405。国道180号線「国分寺口」交差点から北に真っ直ぐ進む(約1km)と、岡山自動車道の手前に山の鼻があって、切り通しになっている。その右の小山の上に鎮座している(写真上)。駐車場なし。
写真のように、今は小祠しかないが、これが式内社「古郡神社」であるという。正長元年(1428年)の大風のために社殿が倒壊し、久米村の「御崎神社」(現・総社市久米1213)に奉遷したが、嘉永4年(1851年)に旧社地に奉遷したという。この伝承が正しいとすると、通説の備中国府(金井戸の「御所宮」を東端として方6丁)のほぼ中心線上にある。こうしたことから、「古郡神社」が国府と何らかの関係があったことが窺われる。祭神は吉備武彦命。
さて、その切り通しの道を過ぎると、急に狭くなるが、更に真っ直ぐ進むと「鬼ノ城」の入口にあたる「砂川公園」がある。その東にあるのが、上記の「御崎神社」で、社伝によれば、創建は仁徳天皇の時代で、やはり祭神は吉備武彦命である。この辺りに吉備武彦命の住居跡があった、ともいう。
その手前、県道271号線(総社足守線)を東に進むと、「葦守八幡宮」がある。

葦守八幡宮(はちもりはちまんぐう)。
場所:岡山市北区下足守468。国道429号線沿いにある「岡山市立足守幼稚園」の東側にある。駐車場あり。
ここは、故郷に帰った妃の吉備兄媛(きびのえひめ)を追って応神天皇が行幸し、兄媛とその兄の御友別命に饗応を受けたとされる「葉田葦守宮」(日本書紀)であるという(写真中)。八幡宮だから主祭神は応神天皇だが、吉備臣の祖である御友別命も祀られている。
ところで、正面の石鳥居は、作製年号がわかっている日本最古のもの(康安元年:1361年)であるとされる(写真下)。刻銘によれば、願主は神主「賀陽重人」で、石大工は「沙弥妙阿」となっている。賀陽氏といえば、「吉備津神社」(備中吉備津宮)の社家であり、沙弥妙阿というのは備中国二宮「皷神社」の宝塔の作者でもある。「皷神社」は足守から更に北上したところにあり、祭神は吉備津彦命の妃・高田媛命である(2009年3月28日記事参照)。
こうした備中吉備津宮を中心とした神社のネットワークが、この地域の古代豪族支配を物語っているように思われる。


岡山県神社庁のHP(古郡神社):http://www.okayama-jinjacho.or.jp/cgi-bin/jsearch.cgi?mode=detail&jcode=19053

SPICE OF LIFE(神ナビ)さんのHPから(古郡神社):http://www.spicy.sakura.ne.jp/jinja/furukoori/furukoori.htm

同(葦守八幡宮):http://www.okayama-jinjacho.or.jp/cgi-bin/jsearch.cgi?mode=detail&jcode=19066


写真上:式内社「古郡神社」


写真中:「葦守八幡宮」西側の鳥居。傍らの石柱には「岡山県史蹟 葉田葦守宮址」とある。


写真下:「葦守八幡宮」正面(南側)の鳥居

コラム226.古代備中国の中心部(その3・備中国總社)

2009-12-04 21:45:37 | Weblog
備中国總社(びっちゅうのくに そうじゃ)。
場所:総社市総社2-18-1。JR吉備線「東総社」駅から徒歩約5分。国道180号線に面して駐車場入口がある。
古代において国司の重要な任務の1つが神社の巡拝だったが、平安時代になると、国府の近くに総社宮を設置して巡拝の手間を省くようになった。このため、国司の力が弱まると総社宮も廃れ、中世には多くが廃絶したとされる。「備中国総社宮」も何度か焼失しているようで、変遷はよくわからないところもあるが、池泉のある前庭など古代の様式を伝えているという。なにより、総社市の名のもとになったほど、尊重された神社なのである。ちなみに、当神社はJR「東総社」駅前にあるが、もとはこの駅が「総社」駅だった(昭和34年(1959年)に「総社」駅を「東総社」駅に、「西総社」駅を「総社」駅に改称。)。
「備中国総社宮」(写真上・中)は、「伝備中国府址」の西、約2kmの距離にあり、どちらも国道180号線沿いにある。境内にある「沼田神社」(写真下)が式内社「野俣神社」であるとされ、どうやら、もともと「野俣神社」があった場所に総社宮を設けたらしい。神社の社殿は一般に南を向いているが(「沼田神社」は南面している。)、「備中国総社宮」は東、すなわち、国府のほうを向いている。
「備中国総社宮」の現在の主祭神は大己貴命で、総社としては備中国304社の神を合祀している。うち18社は式内社であろうが、それ以外の具体的な神社名は残念ながら不明。


岡山県神社庁のHP(總社):http://www.okayama-jinjacho.or.jp/cgi-bin/jsearch.cgi?mode=detail&jcode=19056

玄松子さんのHPから(總社(総社市)):http://www.genbu.net/data/bicchuu/soujya_title.htm


写真上:備中国「総社宮」正面。鳥居の扁額は「惣社」。


写真中:備中国「総社宮」本殿


写真下:備中国「総社宮」境内にある「沼田神社(沼田天満宮)」。これが式内社「野俣神社」だという。