英作というものも、最終的には自由に英語で話したり、書いたりできることが目標である。
最終段階においては、自由に英語で話すためには、やはり英語で考えるようになることが到達目標である。最初から英語で考えることは、なかなかできない。日本において、毎日日本語で生活しているものが、いきなり英語で考えられる道理はない。しかしできないことはない。要は鍛錬である。私だって道半ばである。生粋の日本人である。日本生まれ、日本育ちである。
しかし、日本にいるといえども、考え方を変えれば、そして適切な修練を積むことにより、必ずや『英語で考える』という段階に達する。
英語で自由に表現できるためには、まず日本語から変える。日本語を整理して、我々は本当に言いたいことは何か、分析することを英作により学ぶ。しかしいつまでも日本語で考えていては、やはりダメなのである。徐々に日本語から英語で考えることにシフトしていく必要がある。
英作に上達していけば、日本語を見た途端に英語にすることが容易になる。
コナンドイル作のシャーロックホームズにおいて、名探偵ホームズが、観察と推理の過程を描写する箇所がある。
ホームズが一瞬しか見ていないのに、その人物の経歴や考えていることなどを、ズバリ言い当てる。すごく細かい点まで観察してそれらを統合して結論に結び付ける。普通の人なら、何時間もかかるような推理も、一瞬で推理してしまう電光石火の推理力。ホームズは、推理は若い時からの習慣で、かつては時間がかかった推理も、今では推理の過程が短縮され、直観レベルに達した、というような下りがある。
英作も同様である。今は日本語自体をシンプルに、論理的にする練習を行う必要がある。次々と練習を重ねると、考えるスピードがアップする。
ネイティブと話すときになって、初めて考える、というのでは遅すぎるということである。思考をすでに一人でいる時に済ませておく。英語の表現に関しては、できるだけ練習において、英作でうんと考えておいて、思考を済ませておく。実際の会話で考えることは、英語の表現ではなく、会話の内容であることが望ましい。英語も表現に四苦八苦する状態で、会話自体に心を傾けることなどできない。
普段の練習時において、数多くの英作を行う。それによって考えることに習熟する。練習によって、考えるスピードを上げていき、直観レベルで英作できるまでに技を鍛え上げる。これが英作練習の目指すところである。
慣れてくれば、日本語を介することもなくなる。むしろ日本語で考えることが煩わしくなる。そこまで練習する。
何事も練習である。洋書の読書も同じである。日本語を介して読んでいる内は、全く読めていないに等しい。訳読は日本語の読書である。英文読書ならば、英語そのままで読む。英語そのままを心と体に丸呑みする。訳す一歩手前で留めることが大事である。訳すよりも想像することである。感じることである。訳読の最大の弊害は、英語の迫力が感じられないことである。訳すことは、翻訳家に任せる。訳さなくても理解できる。アメリカ人は日本語に訳す必要がない。当たり前だろう。しかしそこに秘密が隠されている。日本語に頼る。頼ることで、本来の持てる、人間の隠された真の能力が発現されないままである、ということに我々は気づくべきだろう。辞書で日本語を確認したとしても、その日本語は忘れるべきだ。そのイメージだけを心に留めることである。