考える英語 (英作で英会話上達!)

身の回りの事から、社会情勢まで、幅広い事柄を、自分の知っている簡単な英語で表現していきます。英会話教室をやっております。

英作と問題意識の関係性

2017-05-14 15:49:16 | 英語学習

 現在の英作テーマは『都政』である。結構前に始めたテーマであるが、今に至るまでまだ続いており、そろそろ終わりにしなければとも思う。今回は『都政』やその他様々な社会問題等のテーマに関して英作を行なうことの意義について考えたい。

豊洲問題やオリンピック予算など、難問山積の様相を呈する都政であるが、英語で『都政』等を考えることの意義は何であろうか。単に『利権』やらの単語を辞書や機械翻訳にかけてわかった気になるのではなく、いちいち考えて本質レベルまで日本語を分析しなおして、その意味を英語に直すことが英作という作業である。

普通は考えることは面倒と思うだろう。みんな機械翻訳に頼る時代だ。しかし機械翻訳に頼ることで、実はすごく損をしている。英語的には、これまで何回も指摘している通り、機械だけあって非常に機械的であり、単なる直訳であり、単語だけを羅列して、総体として意味をなさないことが非常に多い。食べる飲むなどの物理的即物的表現は機械は得意である。しかし比喩的表現などの、文学的表現等は、察するという能力をもつ人間の独壇場であり、機械の出る幕ではない。

自分で考える意義は、もう一つある。表現上のこともさることながら、自分で英語を表現しようとすることで得られることは、問題意識の活性化である。英語で表現しようと英作を行なうことにより、よりその事柄を深く考え、理解しようとする。都政にせよ、国際情勢にせよ、社会問題にせよ、それらの事柄を英語にするにあたり、単純に機械翻訳にかけても、その事柄は自分には縁遠いままである。しかしあえて自分で考えて、間違えてもいいから自分の英語で表現しようとすることで、その事柄が身近になってくる。

中国古典に『近思録(きんしろく)』というものがある。儒学者である朱子という人の書である。かつて日本でも江戸時代に、朱子学は隆盛を極めた徳川幕府の官学である。書名の近思録は論語の『切に問いて近く思う』に由来する。

『近く思う』とは、宙に浮いた議論をせずに、空理空論に堕すことなく、その事柄、問題を自分の事として考えることにより、より実際的に問題にあたる、ということである。

『近く思う』。簡単に思うかもしれないが、これほど難しいことはない。良くも悪くも日本は島国であり、人と人の距離が近いゆえに、かつての日本であれば『近く思う』とは自然であっただろう。しかし戦後、西欧の考え方がどっと流れ込み、これまでの伝統的な東洋の価値観は打ち捨てられ、良く言えば個人主義、悪く言えば利己主義が横行する昨今では、『近く思う』ことは益々難しいこととなってきた。

英語を勉強するとは、単に単語や表現を覚えるだけではない。英語を勉強することで、日本語もしくは日本だけしか知らない環境を脱して、自分と異なる文化、考え方に触れて、多様性を受け入れ、外国の視点から自国の文化、ひいては己を見つめなおすというプロセスである。

英語を通して、外国の文化を学び、遠く離れた場所のことであっても、そこの地域の問題を我が事として考える。外国の問題を通して自国のそして自分の問題を知る。それこそ外国語学習の本来のあるべき道である。

『都政の透明化』やら『利権』やらを機械翻訳にかけて、分かった気になってはならない。単語を移し替えたって、何もその事柄は、わかっていないと知るべきである。あえて機械翻訳に頼らず、和英辞典に頼らず、ネイティブにも頼らず、稚拙でもくちゃくちゃでも、自分の頭と心で考える。英語は結果ではない。あくまでプロセスである。苦労せずして得たものは、すぐに手放すこととなる。自力で考える。その英語は稚拙でもいい。しかしその事柄は考えるたびに身近になり、問題意識がますます高まる。この問題意識の活性化こそ、英語の表現力の向上と同等もしくはそれ以上に価値のあることである。

ある事柄をあえて苦労して英語にすることで、その事柄の問題点が浮き彫りになる。考えることにより、それまで他人事であった事柄が、自分に関わる問題として見るようになる。要するに『当事者意識』が芽生えてくる。簡単な英語で、限定された語彙で考えると、どうしても頭を酷使せざるを得ない。少ない英語で回す必要があるので、その分どうしても、その事柄に関わる色々な人の立場や問題を、さまざまな角度から考察する必要が出てくる。単に機械翻訳に頼っているだけでは、考えないので、到底問題意識も当事者意識も出る余地はない。

 

考えること。

多くの英語学習者が、その面倒さ故に自分で考えることを避けてしまう。

考える人と考えない人。その差は今は小さいかもしれない。しかしその小さな差は、いつかもう埋めることのできない圧倒的な差となり得る可能性を、我々は思うべきであろう。

 

 

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