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OUR HOME ISLAND - いおうとう(硫黄島)

戦前に在住していた島民が、戦後の小笠原返還後も故郷に帰ることが許されていない硫黄島についての情報発信をいたします。

2012年、小笠原村、硫黄島への慰霊、墓参の旅(43) 小笠原丸からの釜岩の写真です。

2013年04月09日 | 硫黄島・小笠原村
小笠原丸に戻った後の1日目の夕方に撮影した写真の紹介を続けております。
これは、小笠原丸の船尾の方向、釜岩を撮った写真です。停泊中の小笠原の選手の方向が前々回に写真を載せた摺鉢山で、左舷側が沈船群やタンク、船尾側が釜岩という位置関係になります。この写真の釜岩より右側部分が、私たちが硫黄島に上陸する地点です。釜岩は、戦前は、硫黄島の沖合いに浮かぶ小島のよう岩でしたが、戦後、隆起によって今は硫黄島と地続きになっていて、私たちが上陸する地点は、以前は海だった場所が今は釜岩とつながってつながった地点です。
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2012年、小笠原村、硫黄島への慰霊、墓参の旅(42) 小笠原丸からの硫黄島島民平和祈念墓地公園

2013年04月08日 | 硫黄島・小笠原村
これも、1日目の小笠原丸に戻った後の夕方の時間帯に撮った写真です。小笠原丸のデッキからズームして硫黄島島民平和祈念墓地公園を撮影した写真です。白い屋根は日陰をつくってくれていますが、壁で囲まれた建物ではなくて、座れる場所などがあります。この屋根の前の広場で
慰霊式典が行われます。この屋根のしたに並べた椅子に座る列席者もいますが、私たち島民関係で行っているメンバーは前の広場に設営したテントの下に並べられた椅子に座ります。太陽の角度によってはテントの陰にならず直射日光が当たってしまうこともあります。 
かなりの倍率でズームをして撮った写真で、手前側は、釜岩部分へ続く隆起でできた海岸です。また、建物の向こう側には段丘状に高くなった場所が見えます。平らに見える島の中央部ですが、このようにかなりの高低差があります。
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2012年、小笠原村、硫黄島への慰霊、墓参の旅(41) 小笠原丸からの擂鉢山です。

2013年04月07日 | 硫黄島・小笠原村
2012年の硫黄島に行った時の写真の紹介を続けております。この写真も1日目に小笠原丸に戻った後の時点で撮影した写真で、摺鉢山の方角を撮影したものです。
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2012年、小笠原村、硫黄島への慰霊、墓参の旅(40) 沈船群です。(2)

2013年04月06日 | 硫黄島・小笠原村
もう一枚、小笠原丸から撮影の沈船群の写真を紹介いたします。沈船群の向こう側に見えるのは、硫黄島のタンクの設備です。
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2012年、小笠原村、硫黄島への慰霊、墓参の旅(39) 沈船群です。(1)

2013年04月05日 | 硫黄島・小笠原村
この写真は、小笠原丸から撮ったものです。停泊場所の向い側の湾の形になっている場所の摺鉢山寄りの場所です。この写真に写っている場所から左側が、上陸する釜岩付近です。

この沈船群は、戦後、米軍がここを埋め立てて港にしようという狙いで持ってきたコンクリート船だと言われています。結局は、この場所の流れが速くて港作りは断念されて、ここに放置されたようです。かなりの数があります。以前は、かなりの部分が海中にあったのが、この場所も隆起していて海面上に出現して、今では、一番大きなものは完全に浜の上に上がっています。


この写真を撮影したのは、前回まで2度にわたってお伝えしました1日目に小笠原丸に戻った後です。

結局は、翌朝、二日目は天候、海の様子が回復していて、二日目も上陸できるという判断になって、2度目の上陸となりました。1度の硫黄島の旅で小笠原丸と硫黄島とを二往復したのは、私は今回が初めてでした。(他の方は、天候などの理由ではなく、宿泊場所の祈念館の収容人数オーバーだった回に、船で泊まって二日目に再上陸をしたという回がありました。)
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2012年、小笠原村、硫黄島への慰霊、墓参の旅(38) 2012年は1日目終了後に一度船に戻りました。(2)

2013年04月04日 | 硫黄島・小笠原村
(前回からの続きです。)

一日目の午前は慰霊祭に出席、午後は、グループごとに出身への里帰りで、私たち元山のグループは硫黄ヶ丘に行ってから南海岸に寄ってもらってから、宿泊場所の祈念館に帰ってきました。他のグループのメンバーもそれぞれ、戻ってきていた時間です。
例年ですと夕食の準備やら洗濯とかもあるのですが、それまでの時間に、近くの硫黄島島唐辛子を採ったり、祈念館裏のレモングラスを採ったりしてみんな、過ごします。私は、戻るとまずランニングの服装に着替えて近くを走るようにしていて、その時間にも、島内を走っている自衛隊の人とすれ違ったりしながら、非常に暑いなか、走ります。本当は擂鉢山山頂まで往復をしたいのですが、往復の距離が14キロで擂鉢山までのアップダウンがあることと暑さを考えるとそこまでは行けません。

ちょうど、祈念館に着いたその時に無線が入りました。「天候、海の状況の悪化で、1日目のこれからの時間で小笠原丸に戻ることになるかもしれない。船長判断で決定する結果が届くので、どこにも行かず、速やかに移動できるようにして、待機するように。」との指示が届きました。その時点では、海はそれほど、荒れている様子でもないのですが、その後の時間にどうなるかを見込まないといけませんし、また、大きな波というよりも、小笠原丸の停泊地点のうねりの大きさが問題で、船が左右に揺れると、私たちは、艀からとびのったフローティング部分から小笠原丸の開口部分に飛び移れなくなります。

祈念館で、不安なまま待機していると、宿泊はせずに小笠原丸に戻るという連絡が入り、それぞれ戻る準備を始めました。いくつかのグループは既にバスにのって、釜岩付近の戻るために往復する艀に向かった頃になって、また、無線に連絡が入って、「小笠原丸の揺れが大きく、乗り移るための開口部から水が入ってしまったので、しばらく、待機。」という指示でした。この連絡を聞いた時には、さすがに不安になりました。

結果は、30分も待機をしていると、何とか揺れはおさまって船に我々を戻す作業が再開されたということで、私たちもバスで祈念館を出ました。釜岩付近のフローティングから艀に乗せてもらって小笠原丸に戻りましたが、波、うねりの具合によっては、小笠原丸の揺れが大きくなり、開口部が大きく上下したりするので、揺れが小さくなったタイミングで、艀から乗り移った船腹のフローティングから、開口部に飛び移って船に戻りました。全員を船に戻すのはかなりの緊迫感がある、それこそ一大プロジェクトでした。

小笠原海運の小笠原丸のスタッフの皆様をはじめ、多くの皆さんの、緊張感のある慎重で非常に大変なお仕事に支えられて、お年寄りも含む全員が小笠原丸に無事に戻ることができました。

開口部付近の船内には、一度、入った水をかき出したあとが濡れていて多くのタオルが敷かれていました。

その晩は本当でしたら、私たちは祈念館に宿泊して、差し入れていただいた新鮮な魚のお刺身などで懇親会でもある夕食を食べるはずでしたし、毎年恒例の自衛隊の方々による舞踊の熱演を見たりしてすごす予定でした。

残念でしたが、小笠原丸で、一泊をすることになりました。夜も翌朝も、うねりによる船の揺れが大きくなる時があって、船が大きく斜めに傾き、船窓から見える海面が近づいたり遠ざかったりの落差がかなりの大きさでした。港湾ではなく沖合いに停泊している船で揺られるという経験をするということ自体も非常に珍しいことだと思います。

二日目は、海の具合が回復すれば、また、硫黄島に上陸できるかもしれないとアナウンスされましたが、不安な一夜を過ごしました。


この写真は、私たちを小笠原丸に送り届けてふれた艀が往復する様子です。




海の面に向かって斜めに近づいたり逆に遠ざかる角度になったり、、、
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2012年、小笠原村、硫黄島への慰霊、墓参の旅(37) 2012年は1日目終了後に一度船に戻りました。(1)

2013年04月03日 | 硫黄島・小笠原村
年明け更新を再開してから、漫然と、昨年の6月訪問した時に撮影した硫黄島の写真を、できるだけ撮影した順に紹介を続けてしまっておりますが、本来ですと、もっと、早い昨年中に、2011年までの時には紹介をしていなかった2012年ならではの写真、場面、エピソードを紹介しないといけないのに、ストーリー構成ができずに、このようなことになってしまっております。

2012年に初めての場所に行ったりとか、初めてできごとがあったいくつか内の一つが、2012年は1日目が終わった後に、硫黄島の宿泊施設である祈念館には泊まらずに、一度、小笠原丸に戻って、小笠原丸に宿泊して、翌日にまた上陸したということです。 このエピソードについては、少し長めに紹介したいと思います。

天候が良くて全く問題がない場合には、私たち島民関係者の一行は硫黄島の祈念館に宿泊します。一緒に硫黄島に行っている中学二年生の皆さんたちは、自衛隊施設の体育館に泊まります。
硫黄島に上陸させられるかどうかの判断は、小笠原丸船長の責任で下されます。重責で非常に難しく大変なご判断だと思います。上陸させるときの状況だけではなく、島から小笠原丸に無事に戻せるかどうか、次の日のことも考えて、決めなければいけないからです。極端な話では、初日が好天でも、翌日に低気圧や台風の接近があれば、上陸させることも危ぶまれたり、上陸させられるとしても、1日だけになってしまったりします。

また、宿泊施設の収容可能人数の問題もあります。2009年には、参加した人数が宿泊施設の祈念館のキャパシティを超えていたために、一部の人は、一度、小笠原丸に戻ってから翌日また上陸したということもありました。


それでなくても、港湾施設ではなく、海上に船を留まらせて、そこから艀のピストン輸送で上陸させたり船に戻したりというのは、他では例がない作業で、非常に難しいと聞いています。島にできるだけ近くてあの大きさの小笠原丸を無事に停泊させておける場所を見つけて進ませる操船技術は非常に難しい高いスキルが必要とされるものです。小笠原丸からはしけを下ろして、私たちが飛び移れるフローティングを設置してという大変な作業です。

一番、危険なのは、飛び乗るための船の後部の口とはしけが着いているフローティングとの高さがずれることです。たとえば、上下方向のそれぞれに50センチずつ船の方が上がったり下がったりすると1メートルの上下さが出ます。
これが海の波やうねりの影響を受けた小笠原丸の左右方向への揺れによって、船体左後部が上がったり下がったりになります。

このように、毎年、それはそれは大変で多くの方の力で実現している停泊、上陸場所への送迎ですが、2012年は例年に比べて、大変な要素が増えました。硫黄島の隆起によって、近海海底も上がっていて、これまで停泊してい場所には停泊できずに、少し違う場所に小笠原丸をつけたからです。

確かに、小笠原丸が停まった位置は、例年とは、島の海岸との角度が違っていました。いつもよりも、沈船群がある海岸と平行な位置で停泊していました。

1日目の朝の、島への上陸の時には、ほとんど、問題はありませんでした。私にとっては7回目になるので、慣れたものでした。それでもケガや事故はあってはならないので慎重に気をつけて、無事に上陸することができました。


この続きは次回にいたします。

写真は、1日目に、船に戻るときに、硫黄島の釜岩付近から撮影した小笠原丸です。
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2012年、小笠原村、硫黄島への慰霊、墓参の旅(36) 北東側からの摺鉢山

2013年04月02日 | 硫黄島・小笠原村
この擂鉢山の写真は、擂鉢山方向へ続く道が見えますので、硫黄島の細くくびれている部分の北側を通っている道から撮影したようものだと思います。この道を擂鉢山と逆方向に北東方向に進むと、平和祈念墓地公園とか宿泊する祈念館とかがあります。今では、このように緑が多い島です。木の多くはギンネムです。 ギンネムは、米軍が戦後すぐに空中から種を散布して増やしたと言われているようです。 

ところで、このブログでは、ずっと、「すりばちやま」には、擂鉢山の字を当ててきましたが、よく見る表記は、「摺鉢山」の方ですので、どこかのタイミングで、変えようかと考えております。「すりばち」と入れると「擂鉢」と変換するのですが、地名としての、硫黄島のこの「すりばちやま」の時には、そのように書かれていることもありますが、「摺鉢山」が正しいようだと気が付きました。
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2012年、小笠原村、硫黄島への慰霊、墓参の旅(35) 南海岸の浜と擂鉢山

2013年04月01日 | 硫黄島・小笠原村
硫黄島の似たような地点からの擂鉢山の写真が続きますが、南海岸の浜とその向こう側に見える擂鉢山です。この辺りからの、擂鉢山はきれいな形に撮れます。ズームして撮った写真です。海岸の幅も広く見える角度です。
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